第21話:【回帰】震える高級チワワと、100歳までの予言
会議の後、凛の元に親会社の福利厚生サイトから何かが届いた。
どうやら、先週のカジュアルデー騒動の時に頼んでいたようだ。
中身を確認した彼女は、またクリエイティブなソフトを立ち上げ、怪しい操作を始める。
「できた!!! 佐藤先輩、これを見てください! 自信作です!」
画面には、あろうことか『鳴凪支店・地域貢献DX推進チーム』という、絶妙にダサいフォントが背中に躍る、フォックスが誇る繊維部門の高級スポーツブランド「フォックス・スポーツ」のウインドブレーカー完成予想図が映っていた。
地方の弱小草野球チームか、潰れかけの町内会パトロール隊にしか見えない、泥臭さ100%のデザインだ。
「……何、これ」
「お揃いのチームジャンパーですよ! これを着て月曜から外回りしましょう! 注文ボタン、もう押しちゃいますね?」
「すいません。僕、今日急いでるので……。」
(嫌な予感しかしない。あんなのを着て南青山を歩けるわけがない)
「ええ……。じゃあ月曜日、絶対見てくださいね! ちなみに佐藤先輩の分は特別デザインを用意しています!」
それぞれに帰り支度をはじめる。
佐藤は就業と同時に、背後から迫る「チームジャンパー」の影から逃れるようにタクシーを飛ばし、羽田行きの飛行機に飛び乗った。
佐藤巧は、雲の上でようやく一息ついた。
眼下に広がる夜景を見ながら、彼は確信していた。
(……空の上までは、あの『アホ毛』の電波は届かない。高度一万メートルは、僕の聖域だ)
羽田からタクシーで約二十分。
港区の自宅に到着し、重厚なエントランスのドアを開ける。
そこには地方支店の腐った玉ねぎ臭も、シュレッダーの断裁音も、トイレに籠もる榎木の気配も一切ない。
代わりに彼を出迎えたのは、大理石の床の上でプルプルと小刻みに震える、一匹の高級チワワだった。
「クゥン……」
名前はカノン。
血統書付きの、佐藤家の「真の序列一位」である。
カノンは、巧の足元まで寄ってくると、その「鳴凪支店の苦労」が染み付いた靴の匂いを嗅ぎ、一瞬だけ怪訝そうに鼻を鳴らして、再び激しく震え出した。
「ただいま、カノン。……ああ、君はいいよね。そうやって震えているだけで、最高級のドッグフードと、完璧にコントロールされた室温が保証されているんだからね」
巧は膝をつき、カノンを抱き上げた。
実家のチワワは、凛のようにアホ毛をアンテナにしてアイデアを放出しもしないし、自分を「サラダ王子」と呼んで嘲笑ったりしない。
ふと、カノンの耳の後ろから、一筋の毛がぴょんと跳ねているのが目に入った。
「……なんて可愛いアホ毛なんだ」
巧はうっとりとした表情で、その毛先を指で優しく摘まんだ。
凛のそれは「秩序を乱す凶悪なアンテナ」にしか見えないのに、カノンのそれは「神が創りたもうた芸術」のように思える。
そのまま、吸い込まれるようにカノンの頭の匂いを嗅いだ。
当たり前だが、加齢臭もトニックの匂いもしない。
「いいかいカノン、お前はそのまま、何も産み出さなくていい。おじさん構文も書かなくていいし、ただ可愛くアホ毛をなびかせて震えていれば、それでいいんだ……」
「巧、おかえりなさい。カノンをそんなに強く抱きしめないで。その子の繊細なリズムが乱れてしまうわ」
リビングから現れた母は、巧の顔を見るなり、眉をひそめた。
「……巧、何その顔。鳴凪というところは、そんなに美容に悪いの?」
「母さん、美容の問題じゃないんだ。……精神リソースの問題なんだ」
巧はソファに深く沈み込み、カノンの震えを手のひらで感じながら、ようやく鳴凪の毒素を抜こうとしていた。
しかし、母が楽しげにiPadを差し出した瞬間、巧の全身が凍りついた。
「見て、これ。このSNSのアカウントなんだけど、動画がとってもユニークなの。あのアバンギャルドなダンス、面白いわよね」
そこに映っていたのは、凛が生成AIで動かした「不気味に滑らかに踊る鳴凪のゆるキャラ」だった。
巧が恐れていた動画が、母のタイムラインを優雅に流れている。
「か、母さん、なんでこれを見てるんだ……」
「あら、巧の出向先が気になってフォローしていたのよ。先月『プレゼント付きアンケート』を募集していたから、お父様と一緒に応募してみたの。そうしたら、昨日インセンティブが届いて……」
巧の脳裏に、数日前の会議室での光景がフラッシュバックする。
凛と榎木が、供給エリア外の回答データをこねくり回し、勝手に「寿命」を予言していた、あの謎の男女。
(……あの『100歳まで生きる超健康な美魔女さん(趣味エステ)』は、母さんだったのか!!)
嫌な予感がして、書斎から顔を出した父の手元を見る。
そこには、凛の手で魔改造された「ゆるキャラトートバッグ」が握られていた。
外交官の父も、あろうことかアンケートに応募し、景品を手にしていたのだ。
(海外旅行好きの59歳男性。あれは父さんか!)
「巧。あのSNSの運営者に伝えておきなさい。このバッグのデザインは独創的だと」
父が老眼鏡を直し、外交交渉のような鋭い目つきでバックを見つめる。
(……父さん。そのアンケート結果を見てエコノミーで節約旅行してると勝手に思い込んで、寿命をゴリゴリ削って70歳に設定してたなんて……、口が裂けても言えないよ!!!だって、あと11年の命じゃないか!)
巧は心の中で絶叫した。
外交官ファーストクラス、シャンパン抜きで命の灯火を計算していたのだ。
(父さん、せめてあと30年は外交特権で寿命を延ばしてくれ……)
「……つ、伝えておくよ……」
巧が情けない声で返事をすると、驚いたカノンが「キャン!」と短く鳴き、巧の腕からすり抜けてキッチンへと逃げ出した。
カノンだけは、主人から漂う「鳴凪の毒」と、その元凶である「主」の気配を本能で拒絶していた。
巧は、天を仰いだ。
両親は、その「運営者」が、巧のすぐ隣の席で全ての僕の権限を掌握している佐倉凛だとは露ほども知らない。
だが事実は残酷だ。
母をフォロワーにし、父をアンケートの餌食にし、実家に「呪いのバッグ」を送り込む。
東京の実家すら、すでに凛の「現場の恨みと嫌みの通信網」に、知らず知らずのうちに同期されていた。
(……月曜日に帰ったら注意しないと。インセンティブは一家族一個が原則だ。※で『重複当選は無効です』って注釈を入れさせなきゃ……)
発狂の果てに、思考が「現場の管理業務」へと回帰していく。
巧は、震えが止まらない自分の手を見つめ、もう一度、遠くへ逃げたカノンの「アホ毛」を探して視線を彷徨わせた。




