真実
腕の感覚は麻痺していったが、熱さだけは、変わらず感じていた。
麻痺していたのは、長時間、変化がなかったからである。そのため、変化が起きた時に、義人はそれを感じる事ができた。継続的に与えられていた刺激がなくなった事を、体が違和感として捉えていた。
彼女の震えが、止まっている。
やがて、彼女の体から小刻みな振動を感じたが、それは、先ほどまでの震えではなかった。
「ふ……ふふふっ。私、義人のものになっちゃった」
恵理が、息を漏らすように笑って言う。首元に当たった息が、先ほどよりも、さらに熱く感じられる。
「どうだろうね。いつものノリだと、俺が恵理のものになったのかもしれない」
義人も、返すように笑みとため息を漏らしながら、茶化すように言った。笑顔で、見つめ合う。もう大丈夫だという安心が、そこにはあった。
「そう。じゃあ遠慮なく、私のものにマーキングするから」
彼女はそう言うと、義人の後頭部の、厚いガーゼが固定された部分の下に優しく手を当てると、抱き寄せるようにして、唇を合わせてきた。義人も、再び腕に力を入れて、それに応える。
そこまではよかったが、彼女はしばらくすると腕を解き、義人のシャツのボタンを外し始め、義人は慌てふためいた。
「えっ? いや、ちょっと!」
「私と最初に会った時、私の事を、こうしてやろうって思ったんでしょ?」
「いや、それとこれは、話違うでしょ? 俺は、自分一人の夢だと思ったから……」
「やる事は、一緒だよ。ここなら、現実で直面する、諸々の問題もないし」
「でっ、でも、ほら、そこに二人もいるし!」
「二人とも、私達自身なんだから、他人じゃないよ。それにさっきから、空気読んで、空気になってくれてるでしょ」
義人は救いを求めるように二人の方を見たが、二人は居心地悪そうに、浮足立っていた。
「いや、ま、まあ……ちょっと室温上がってきたから、溶けてまうかもしれへんし、外で待っとくわ……」
「そ、そうね。乗せなさい、バカ鮫」
「ううん。でも、僕もいるからなあ」
聞き覚えのある中性的な声が、すぐ傍の本棚の影から聞こえてきて、全員がそちらを向いた瞬間、件の白兎が姿を現した。
「わぁっ、何やお前! いきなり出てくんなや!」
「そうもいかない。どうも、僕のせいでこうなったみたいだからね。かくなる上は、直接話をするしかないと思ったんだ。まあ、そんな事を僕が『思』ったりするようになったのは、君達のせいなんだけど」
「今まで逃げ回っとったくせに、いきなり間の悪い所で出頭してきて、何わけの分からん事言うとるんや、お前?」
「そうだよ、兎君。ちょっと、空気読んで」
恵理の声は、低くなっていた。しかし、白兎の方を見ながらも、手はボタン外しを続けている。
「……とりあえず、ボタン外すの、やめない?」
「いや、もう、残り一個だし、せっかくだから……えいっ」
恵理は最後のそれを外すと、向き直って義人の肌着をめくり、中を吟味するように見た。
「いやいや、『せっかく』って何さ?」
「好きな異性の体を見てみたいと思うのが、男だけだと思ったら、大間違いだよ」
彼女はそう言いながら、そのままめくった部分に手を当てて、義人の体をまさぐった。
「ちょっ、ちょっと、くすぐったいって!」
「彼も嫌がってるし、僕としても大事な話があるし、後にしてくれないかな?」
「いいけど、事と次第によっては、皮剥ぎでは済まないかもよ、兎君」
恵理が義人から手を離し、白兎の方へと振り返りながら、再び低い声で言う。その様に、義人は解放されたばかりの緊張感を、再び取り戻していた。
「せやで。『走れメロス』の王様みたいに、『お前達の愛に感動したから、仲間に入れてくれ』なんて都合のええ事、今さら言うつもりやないやろうな?」
「いや、全く。むしろ、君がさっき、この世界を壊したいって願っていたから、実際にそうなってくれていたら、話は早かったんだけど」
「そう。残念だね。キャンセルしたよ」
白兎は、恵理の方を向きながら、さらっととんでもない事を言ってのけている気がするが、言われた恵理の方も、さらっと乾いた反応で返している。
「あの、こんな事言うのもなんだけど、さっきまで修羅場だったのに、いつもの調子に戻るの、早すぎじゃ……」
「んー、玉藻のせいで何もかも知られたし、たくさん怒ったり泣いたりしながら、言いたい事も全部言って、すっきりしたし、トラウマも克服して、好きな人と結ばれたし、いろいろ開き直ったというか、はっちゃけたよ。いつまでもヒステリックに振る舞われたり、めそめそ泣き続けられたりしても、イヤでしょ?」
「いや、まあ……」
「そもそも安久下君だって、強姦未遂を咎められて怯えてたのに、その日の夜にはもう開き直って、さらには一週間もしない内に、その女と恋仲になっている時点で、大概でしょ」
「え、ええ……」
そういえばまだ、一週間も経ってないのか。義人には、全くそういう認識がなかった。
毎日、昼夜ともに、さまざまな真新しい出来事に接してきて、密度が濃すぎたという感はある。
「それで、あんた何者なの?」
玉藻が、話を戻すように、白兎に尋ねた。主同様、不機嫌そうな、低い声である。今は血で汚れているので、余計に怖い。
「簡単に言うと、僕は上位次元の存在なんだ。と言っても、すぐにはピンと来ないと思うけど、まず、君達のいる世界自体を、水槽のようなものだと考えて欲しい。そうした時、僕は外の存在で、その水槽を観察する立場にあるわけだね」
白兎が、直方体を描くような手振りを交えて言う。傍から見ると愛らしい挙動だが、いきなり、話のスケールがとんでもない事になっている。
「その次元は……ちょっと正確には言い表しにくいんだけど、物質ではなく、情報で構成されているんだ。そして、下位の次元全ての情報が、そこに集積されている。ああそうだ、これまた君達のものにたとえるなら……パソコンかな? 下位次元の一つ一つが、各ソフトという事になるね。こっちの方が、分かりやすいか」
「十分、分かりやすい表現だけど……それなのに、『正確に言い表しにくい』とは?」
恐る恐る、義人は尋ねた。ひょっとすると、とんでもない相手を前にしているのではないかと、内心、穏やかではない。
「そうだね……たとえば君達が、奥行きのない二次元の世界に行けたとしたら、そこで三次元の概念を伝えようとしても、難しいよねって事。そこに行った時点で、君達の体も、感覚も、二次元のものになっているだろうから。立体図を見たとしても、感覚はすっかり二次元のものに落とし込まれていて、平面の絵にしか見えないはずだ」
「なるほどねー。極力こちらの世界で言い表せる表現として、そんな感じ、と」
「でも、それって……まさか、この世界の創造主?」
恵理はのんきな反応をしたが、玉藻がそれに続いて、真剣な調子で言う。『上位次元の存在』と聞いて、義人も内心、それを疑っていた。
「それが、違うんだ。僕は管理人のような事をしているけど、何かを創るような事はしていない。適切な観察環境を維持するためのものを除いて、故意に手を加えてもいない。生命が生まれ、人類が誕生し、それが高度に発達していったのは、完全に偶然の産物だね。むしろ、観察対象に、観察者が影響を与えてはいけない」
「確かに、微生物をシャーレで観察するのに、観察者が直に触れてしまったら、大事ね」
玉藻が言い、白兎はうなずいた。
「そもそも本来、僕に人格のようなものはなくて、文字通り機械的に、維持管理しているだけの存在なんだよ。それに必要な技能と、情報だけがあった。ところが、観察者としての僕を君達が意識して……逆に観察され、定義された事で、僕に人格の箔付けがされたんだね。だから、こうして話をしている僕の姿や人格は、ある意味、君達によって作られたんだよ。引きずり込まれたような形だね」
「じゃあ、その姿って、ひょっとして……」
口元に手をやった恵理が、はっとした表情で言う。
「そう、君達が作ったんだよ、これは」




