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 図書室の入り口から先は、棚と棚との間を、足を引きずりながら行く他はなかった。その音はすぐに、奥にいる二人にも伝わったようである。

「あんたのせいで、安久下君が来ちゃったじゃない!」

 泣き叫ぶ恵理の姿が、見えてきた。左手にはガラスの破片が握られ、(そで)がまくられた右腕からは、破れた包帯に血がにじんでおり、床にも小さな血溜まりが残っている。

 床には玉藻のものと思しき、白い毛も散らばっていた。義人が来るまでの間、玉藻が恵理を止めようとして、揉み合った結果に違いない。

 玉藻の体は所々が赤く汚れていたが、それが恵理からのものだけなのか、玉藻も怪我を負ったのかは、分からなかった。ただ、無表情に、恵理との対峙(たいじ)を続けている。

「俺が来たら……駄目なのか」

「……そうだよ……帰って。医療費は、ウチが払う。罰は……ちゃんと自分で自分に、与えるから」

「自分を傷つけて、何になるって言うんだ。俺は、そんなの望んでない」

「けじめだよ。もう、今後一切関わる事はないし、迷惑もかけない」

「……君が逃げたいだけだろ?」

「何も知らないくせに、気安く言わないで!」

「……全部、玉藻から聞いたよ」

 彼女が、涙を浮かべた目で、玉藻をにらみつけた。玉藻は何も言わず、依然として、まっすぐに視線を返している。

 その後、彼女はその形相(ぎょうそう)を、義人の方へと向けてきた。

「帰って! 帰ってよ! もう、関わらないで! 聞いたのなら……分かるでしょ? 全部……全部、私が悪いの! もう、私のせいで誰かが傷ついて……それを実感させられるのは、イヤなの! つらいのは、イヤ……! だから……帰って!」

 涙を流しながら剣幕を見せる彼女に、義人は(ひる)みかけたが、引き下がるくらいなら、初めから、ここに来はしなかった。

「俺の怪我(けが)は、大した事ない。一週間で治る」

「そういう問題じゃない! 何よ、全部知ったような顔して……何も分かってない! 私の気持ちなんて、あなたには何一つ分からないんだ!」

 一転して、顔が熱くなった。衝動が、自分の唇を突き破って出てくるかのような感覚を、義人は覚えた。

「じゃあ、君はどうなんだ。俺は、あの時、あの一瞬で、深く考えて動いたわけじゃない。それでも俺は、ああした事を後悔してないし、その上で、ここに来た。そしたら、俺が守りたかった君が、涙を流して自分を傷つけながら、俺の事を拒絶している。そうされた俺の気持ちが、君に分かるか?」

「自分の都合で勝手な事、言わないで!」

 はっきりと、頭に血が昇ったのが分かった。彼女の前でそうなったのは、初めての事だった。

「勝手なのは、そっちだろ! まだ、分からないのかよ? 自分のせいで人が傷つくのがイヤって言うなら、何で今、人が傷つくような事を言うんだよ? 自分が悪いって言い張って、俺に謝りながら、俺の事を拒絶して! 一方的な態度で、何の機会も与えない。それが人を傷つけるって、何で分からないんだ! 矛盾してるだろ!」

 義人が怒声を上げた事で、彼女は驚いて目を見開いたが、すぐにまた、にらむような目になった。

「……偉そうな事、言わないでよ。最初は……襲おうとしてきたくせに! 観覧車だって……観覧車の時だって、衝動的に抱きついてきたくせに!」

「そんな俺を引っ張って、この世界を一緒に探検しようって誘って……抱きしめられた後に突き放してしまった事を謝ってきた君が、それを言うのかよ!」

「うるさい! ここで、安久下君なんかと出会わなければよかったんだ! こんな夢の世界なんて、なくなってしまえばいい! これが思った通りにできる明晰夢って言うなら、全部壊れてしまえばいいんだ!」

「君が壊すなら、俺はまた創るぞ! そう願ってやる!」

「何の権限があって、そんな事するの? 放っておいてよ!」

「じゃあ、そのガラスは捨てろよ! 何で、自分を傷つける必要がある?」

「『じゃあ』って何? 私が自分をどうしようと、私の勝手でしょ!」

「好きな人を助けたいって思う事が、そんなに悪いか?」

 義人は喝破(かっぱ)するように言い、彼女は怯みかけたが、懸命に踏み留まるかのように、すぐに言葉と形相を取り戻した。

 腕はより強く緊張し、ガラスを握る左手からは、少しずつ、血が(したた)り始めている。

「かっ、軽々しく言わないで! 大切な人の腕の中で……その人が自分のために死んでいくのを実感するつらさなんて、知らないくせに! 誰かを好きになっても抱き合えないくらいなら、死んだ方がいい!」

「君のお母さんがここにいても、それを言えるのかよ!」

 恵理はもはや形相を留められず、はっとした表情になった。叫ぶような声の応酬(おうしゅう)が続いていた図書室に、静寂(せいじゃく)が訪れる。

 やがてそれは、再び漏れ出した嗚咽(おえつ)によって破られていったが、義人はうつむいた彼女が再び喋り出すまで、静かに待ち続けた。

「知ったような事、言わないでよ……聞いただけのくせに……」

 静寂明けの彼女の声は、途切れ途切れの、しゃくり声になっていた。

「ああ、俺は、見たわけじゃない。そして……ここがどんなに不思議な世界でも、亡くなった人に会って、尋ねる事もできない。だからこそ、君に聞く。お母さんは……君を助けた事を後悔しているような人なのか?」

「そんなはずない! そんな人じゃない!」

 目を強くつむって涙を押し流しながら、彼女は即座に、再び大きな声を出して答えた。

「じゃあ……もう、分かってるだろ? 今の君を見たら、お母さんは悲しむって」

「うう……」

 彼女は、目にさらに涙をあふれさせながら、怯むように一歩下がった。

 まだ、距離は詰めない。彼女を、追い込みたいわけではない。その逆だった。

「また、知ったような、事……」

「俺も、同じ気持ちだからだよ。だから今も、ここに来た。こんな体引きずって来たら、君が悲しむって分かっていても、俺はもう、君を放っておくなんて事はできない。君が何と言おうと、ここから引き下がる事なんてできない」

「わ、私は……それが苦しいって、言ってるのに……」

 泣きながら、震える声で言う彼女に対し、義人も平静でいられたわけではなかった。先ほどからずっと、喉から胸にかけて燃え上がるような熱と、乾きを覚えている。

 それでも今、言葉を届けなければならない。震えたり、かすれたりしないように、落ち着いた調子で喋るよう、義人は呼吸を整えて、努力していた。

「さっきも言った通り、あの館で君をかばって、今こんな事になったのも、深く考えたわけじゃない。観覧車で君に抱きついた時と同じで、はっきり言って、衝動だった。でも、俺は、もう……他人じゃいられないんだ。勝手だけど、俺は君に起こる事を、自分の事のように思う」

「そんな、本当に、勝手だよ……」

 彼女は徐々に力を失っていくように、うつむき加減になって、床に涙の粒を落としていった。

「ああ。だから……やめてくれないか。俺の大事な人を傷つけるのは。俺も、痛いからさ」

「あ、ああ……」

 強く嗚咽を漏らした彼女が、ついにガラスのかけらを落とした。そのまま、床に泣き崩れる。

「俺は、君の全てを受け入れる。嫌な事があったら、文句を言ってくれていい。怒鳴(どな)ってくれてもいい。何ならまた、投げ飛ばしてくれてもいい。ただし、君が自分を傷つけようとする事だけは、受け入れられない。そんな事をしたら、俺は、また怒る」

「う、うう……」

 義人は、痛みを(こら)えてゆっくりと足を引きずりながら、彼女の前まで歩いていった。彼女はもう、抵抗や、狂乱の素振りは見せていない。

 目線を合わせようと、そこにしゃがみこもうとしたが、右足の痛みから、すぐにそうできないでいた。思わず(うめ)きを漏らしそうになったのを、必死に我慢する。

「待って……待って!」

 恵理が徐々に屈みつつあった義人の腕をつかみ、立ち上がった。姿勢を戻し、彼女と向き合う。つかんできた彼女の手から、震えが伝わってくる。

 彼女はしばらく、その体勢のまま泣きじゃくったが、義人は彼女が落ち着いて喋られるようになるまで、何も言わずにじっと待っていた。

「一方的なのは、そっちもだよ……」

「……ごめん。でも……今日は、退()かないよ。ここまでずっと、俺を巻き込んできたんだから……最後まで、(そば)にいさせてよ」

「……じゃあ、約束してよ。本当に……ずっと、ずっと、いつまでも一緒にいるって。守るだけ守って、置いていったりしないって。この世界に……一人にしないって」

 目に涙を浮かべながら、自分を見上げてそう言う彼女に、義人は改めて、心を()かれる思いがした。

「分かった……そうする。言われなくても、俺にはもう、そうせずにはいられないから。でも、君が俺に抱かれる事で傷つくのなら、決してそうはしない。約束する」

「イヤ。それじゃ、イヤ……ちゃんと、抱きしめてよ……」

 彼女は義人の胸に顔を(うず)めてきたが、その背に手を回すのは、沸き起こる衝動とは逆に、どうしても躊躇(ちゅうちょ)せざるを得なかった。

「でも、それじゃ君が……」

「あそこまで言ったんだから、『君』だなんて呼び方はやめて。『朱野さん』もダメ……『恵理』って呼んでよ……義人」

 顔を上げ、目を(うる)ませながら上目遣いに言う恵理に、義人はどきりとした。彼女の涙は、先ほどまでとは違うものになっている。

「安久下君」

 それまで一言も喋っていなかった玉藻の声に反応して、義人がそちらを見ると、いつの間にか、下から上がってきたらしい因幡もその傍にいて、一緒にこちらを見守っていた。

「精神科の先生にも言われたけど、PTSDは本来、そう簡単に治せるものではないわ。素人のショック療法なんて、現実だったら、言語道断よ。でも、ここは現実じゃない。思いが、実現するかもしれない場所。そして、精神と記憶だけは一貫してるから、もし、ここで治せたら……きっと、現実でも大丈夫になるはずよ」

「玉藻……」

「私達も、祈るから。恵理を……お願い」

 因幡は何も言わず、ただ、義人に向けて、うなずきを見せている。

 義人は視線を恵理に戻して、彼女の両肩に手を置き、再び目を合わせた。

「恵理……本当に、いいの?」

「言ったら聞かない女だって……知ってるでしょ。何があっても、絶対に離さないで」

 そう言うと、恵理は自分から、義人に抱きついてきた。義人も覚悟を決め、抱擁(ほうよう)を返す。背中に、彼女の腕からの血がにじんでいくのが分かった。

 肩を痛めた右腕からは、どうしても力を出せなかったが、彼女の背中に回した右手を左手で持つようにして、その輪の中で、強く抱きしめた。

「ふ……ううっ」

 恵理は、歯を強く食いしばって、耐えているようだった。震えとともに吐く息が、義人の首元へと漏れてきている。

 彼女の震えは止まらず、強く閉じられた目から流れ出てきたものであろう涙が、何度も義人のシャツを濡らした。

「大丈……」

「離さないで!」

 義人は心配になって、思わず腕の力を緩めかけたが、それに対し、彼女はより強く抱きつきながら叫んだ。

「もっと強く、抱きしめて。震えが止まるまで。止めてくれたら……彼女になってあげる」

 押し当てられた彼女の顔から、涙が押しつぶされるようにして、義人の体へと移っていく。熱いそれが、自分の体の中へとにじんでくるような気がした。

「分かった……じゃあ俺もそうしてみせるって、約束するよ」

 義人はそう言い、目を閉じた。

 因幡と玉藻は、静かに見守ってくれている。目を閉じていても、それが分かった。二人とも、安易な励ましの言葉を送ってきたりはしていない。

 段々、時間の感覚が、失せていった。もう、どのくらいそうしているのか分からないが、彼女の震えを止めようと、ただただ一心に、強く抱き続ける。

 腕の痛みは、怪我によるものだけではなくなっており、疲労が限界まで来ているのは分かったが、彼女と約束した以上、決して、やめるわけにはいかない。

 この世界の事だから、筋肉の感覚の実感こそあるが、本当に耐えると決めたなら、どこまでも耐えられるはずだった。

 彼女も、耐えている。震えながら恐怖と戦い続け、義人のシャツを、強くつかみ続けていた。

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