廃屋
義人は恵理と一緒に、途上のコンビニに自転車を停めた後、夢の中で白兎と玉藻が飛び越えた民家をこっそり通り抜けて、藪の中へと入っていった。山へと続く道が他にあるはずだが、知らないので仕方がない。
案の定、彼女が例の館へ行くと言い出したのである。
ナップサックで来ていたのも、そのためだろう。服装も、水族館に行った時とは違い、丈夫な厚手の長袖にジーンズであり、その上、軍手まで用意していた。
一方、何も言われていなかった義人は、いつもどおりの適当なワイシャツに、生地の薄いスラックスである。一応、彼女が軍手を余分に用意してくれていたので、それを着け、草をかき分けて進んでいた。
「あんたら、こんな所で、何しとるの?」
黙々と藪の中を進み続けていたが、突如として、藪の奥の方から声をかけられ、義人は恵理とともに驚き、顔を見合わせた。自分達が立てる音しか聞こえておらず、周囲に人がいる事には、気付いてなかったのである。
恵理に、声がした方向を指差しながら、首を屈めてうかがうと、うなずきを返してきたので、その方向に出る事にした。
出た先は、藪が開けており、どうやら、いくらか人の手の入った道のようである。
そして、そこにいたのは、顔にはっきりと年齢が出た、老人と老婆の二人だった。ただし、足腰はしっかりしているようで、まっすぐ立っている。
「えーと……こんにちは」
何を言っていいのか分からず、とりあえず頭を下げながら、あいさつをした。
「おう、こんにちは。学生さんかね?」
「ええ。平山高校です」
「おお、あの平高かね」
老人が、大仰に驚く。全国的に見れば、数ある進学校の中に埋もれ、そう大した所でもないが、地元、特に高齢者に対しては、一種のブランドとして、高い信用を得る事ができた。
「それで、平高の学生さんが、こんな所に何の用?」
老人の隣に出てきた老婆が、ぶしつけな言い方で尋ねてきたが、表情と声色は柔和で、敵意は見られない。単に、遠慮がないだけのようである。
「あ、ええ、その……」
義人が口ごもると、すぐに恵理が前に出てきた。
「実は明日、家庭科で調理実習があるんですけど、そこで、旬の野菜を一つ、それぞれ持ってくる、っていう課題なんですよ。それで私達、せっかくだから、自然の山菜を採ってこようかなあって」
老人達は、感心しながら聞いている様子であり、義人も、『上手い事言うなあ』と、内心で感心していた。
「おお、それかね。てっきり、あそこの廃屋でも見に来たんかと思ったが」
老人が、道の奥を指差して言う。義人は、恵理に目配せをし、返ってきた視線から、話を続ける事にした。
「この道が、そこに続いてるんですか?」
「ああ。入り口は、封鎖されとるけどね」
「ちょっと、興味が出てきたんですけど……外から見るだけなら、大丈夫ですかね?」
「そりゃあ、中に入らんなら、大丈夫と思うよ。この山は、もともと、その館の一族が所有しとったみたいだけど、その血縁が絶えてから、国有地じゃしね」
「なるほど。それで、よくご夫婦で、山菜採りを?」
恵理が、再び口を挟んだ。
「夫婦だなんて、やあねえ」
老婆が老人を叩き、互いに顔を見合わせ、笑い合った。
「僕らね、お隣さんなんだけど、それぞれ、妻と夫に先立たれて、互いに独り身でね。そんで、互いの家を、いっつも行ったり来たりしたり、天気のいい日には、こうして山菜を一緒に採りに来たり、仲ようしとるの」
「こういうのをね、内縁って言うの」
老婆が手を倒しながら付け足し、二人でまた笑い合っている。義人と恵理は、乾いた笑いを返した。
「あー、あんたらも、内縁かね?」
老人はそう言って、老婆と一緒に、一層、大きく笑いだした。この年代の、一番やっかいな所である。
義人は、再び乾いた笑いを返したが、恵理からのそれは、聞こえてこなかった。
当然のように鎖を越えていく恵理の後に、若干気後れしつつも、義人は続いていった。
側面に後方にと、義人は注意を払い続けていたが、そんな義人に構わず、恵理はまっすぐに、玄関へと歩いていく。
「これ、壊れてるね」
「ああ」
彼女が言う通り、玄関の扉は、片側が傾いて、外れている状態である。彼女はそのまま引いて開いたが、どちらかというと、外れて角が外の地面に接しているそれを、引きずるような形だった。
「鍵も、壊れてるみたい……経年劣化か、誰かが、いつかの時点で壊したのか、分からないけど」
ドアノブの上にあったそれを、彼女がいじったが、回しても、ガチャガチャと音がするだけで、錠の部分は、全く降りてくる様子がない。
「心霊スポットとして言われるくらいなら、少なくとも、先客が来た事はあるだろうね。あのおじいさんも、『廃屋を見に来たと思った』って言ってたし」
「でもこれじゃ、ホラーものによくあるような、入った途端に閉じ込められるってシチュエーション、楽しめないね」
「いや、それ、楽しくないから……」
「あ、入った後に、扉の上の辺りが崩れるってパターンなら、行けるね!」
急に、楽しい事を思いついたという風に、彼女が明るい笑顔を見せた。
「いや、何でそんな、楽しそうに言うの……」
「むしろ、何でそんなに冷めてるの? こういうのって、男の子の方が、わくわくするものじゃないの?」
「俺はもう、昨日の人骨で、懲り懲りです……」
「出てきたら、また空飛んで、助けてくれるんでしょ? さ、いこいこ!」
彼女はナップサックから懐中電灯を取り出すと、それを右手に持ちつつ、左手で義人の手を握って、館の中へと引っ張った。
「えっ?」
入った先の間取りが、夢で見たものと同じだった事に驚き、義人は声を上げた。
「どうしたの?」
義人を引っ張っていた恵理が振り向き、首をかしげてくる。
「いや……朱野さん、ここのうわさを知ってたみたいだけど、来るのは初めてだよね?」
「そうだよ?」
「じゃあ……夢の中で見たのと同じ間取りなのって、おかしくない? この中に関する俺達の知識は、昨日や一昨日の時点では、なかったわけだよね?」
「ああ、そっか。安久下君、頭いいー」
彼女はのんきな様子で、笑みを見せてきた。
「えっ、いや、そんな、軽い調子で……」
「謎を解く過程なんだから、材料が出てくるのは、いい事でしょ。これで、あの白兎君が現実と関連している事が、分かったからねー」
「前向きだね……」
「うん。ナップサックの白兎君が暴れだしたら、安久下君が何とかしてくれるだろうし」
「そうせずに済むよう、祈るよ……」
「後ろ向きだねー。とりあえず、本当に間取りが同じかどうか、昨日の地下の部屋、確認してみようよ」
「えっ、よりにもよって、あの人骨に囲まれた、いわく付きの部屋から行くの?」
「そうだよ。こことそこ以外に、館内で知ってる場所、ないでしょ?」
彼女も昨日、その部屋で人骨に襲われている最中には、苦しい反応を見せていたはずだが、喉元すぎて熱さを忘れたのか、現実ではオカルトのような事はないと確信しているのか、やたらと楽しげである。
しかしどうあれ、白兎が現実に紐付いている以上、どんな事が起きても、おかしくはない。そもそも、一緒にあの明晰夢を見ている事自体が、一種のオカルトでもある。
「……確認だけだよ。俺達はあくまでも今、生身なんだからね」
「分かってるって! ええと、方向としては、こっちの扉の方かな」
再び、恵理に引っ張られて歩き始めたが、床が傷んでいるためか、一歩歩くごとに、きしむ音がした。物理的にも、不安な所である。
「あれ? 上に行く階段しかないね」
扉を開けた先で、彼女が懐中電灯で隈なく照らしたが、確かに、下に行く階段は見当たらない。そこそこ広いが、連絡用の広間のようなものらしく、奥には扉が立ち並んでいる。
一方、彼女が言った階段の方からは、光が漏れていた。踊り場で折り返す形で、二階の窓際に通じているのだろう。
「昨日上がったのも、因幡が空けた穴を通してだったからね……」
「まあ、いいや。じゃあ、上に行こう」
「えっ? 地下の部屋を探すんじゃなかったの?」
「安久下君だって、わざわざそんな所から行かなくても、みたいな反応だったでしょ。どうせ、全部見て回るんだから、先に分かれ道が少なそうな、上を済ませちゃおう」
「確かにまあ、地下の階段から先に探し回るのは、面倒そうだね……」
そもそも、普通の階段によって通じているのかも分からない。昨日落ちた時も暗かったので、階段含め、部屋の全容は分からなかった。
「うん。にしても、この階段、光が漏れてるから、外周側だねー」
「懐中電灯いらずなのは、助かるかな」
外はいい天気なので、日差しは強い。階段を上がり終えると、十分な明るさだった。館には木々の枝葉が迫ってきているが、入り口のある南側の方は、十分に開けている。
「一個しかないからね。軍手は二個用意したけど、これも二個持ってくればよかったなあ」
「最初から予定も書いてくれてたら、俺も自分で持ってきたんだけど?」
「ふうん。メール見て、返信もせずにすぐ飛び出たような人が?」
「うっ……」
振り返った恵理が、反撃を受けて言葉に詰まった義人を、にやにやと楽しそうに見ている。しかし、そうしながら廊下を歩く内に、突然、後ろ向きに歩いていた彼女の姿が、下に下がった。
「うおっ?」
「いたっ!」
床が抜け、彼女の体がずり落ちたのである。義人は瞬時、無意識の内に握力を強めて彼女を支えていたが、引き込まれるようにして、床に左手と、ひざを打っていた。強い痛みを覚えたが、痛がっている場合ではない。
「つっ……うう……」
「朱野さん!」
彼女の右腕からは、血が滴っていた。落ちる瞬間、床に手をつこうとして、破れてささくれた板材で、切ってしまったようである。同様に、ナップサックの細い肩紐も、それで切れてしまったらしく、懐中電灯ともども、階下に落ちてしまっていた。
彼女を支える義人の腕に対しても、刃を突き付けるかのように、それが向いてきている。そのせいで、彼女を引き上げるのも難しい。
その上、義人の足の辺りの床もきしみ始め、ゆっくりとではあるが、亀裂が広がりつつあった。床にひざを打った時、その部分が大きくへこんだが、そこからも特に、嫌な音がし始めている。
「安久下君、離して!」
一転して、悲壮な表情になった彼女が、階下に血を滴らせながら叫ぶ。吹き出るほどではないが、出血量は多い。
「そんな事、できるわけないでしょ!」
「このままじゃ、崩れる! 一緒に落ちちゃうよ! 私だけなら軽いし、今の体勢なら、足から降りられるから!」
「普通の家の高さじゃない! 足からでも、怪我するよ!」
「だから離してって言ってるのに! このままじゃ、安久下君まで!」
彼女が言った直後、ひときわ大きな音がし、床が一気に崩れた。
義人は瞬時に彼女を抱き寄せ、その頭部を守りながら、自分の体の方を差し出すように、肩から床へと落ちていった。




