【第1巻 第0章】滅びし帝国
本作を読んでくださり、本当にありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、とても嬉しいです。
それでは、『異世界の陰謀』をお楽しみください。
― プレム・ピパル
アキラ・ヴェルクリス。
その名は、一人の皇帝を示すだけのものではない。
それは、終わることのない戦乱に引き裂かれていた大陸へ、初めて真の平和をもたらした男の名であった。
かつて、この大陸には百を超える王国が存在していた。
王は領土を奪うために剣を振るい、貴族は権力を求めて裏切りを繰り返す。
昨日まで同盟を結んでいた国が、翌朝には敵となる。
国境は幾度となく塗り替えられ、そのたびに失われるのは、戦う力を持たない民の命だった。
焼け落ちる村。
戦火に飲まれる街。
泣き叫ぶ子どもたち。
家族を失い、明日を生きる希望さえ奪われた人々。
この世界で「平和」という言葉は、誰もが願いながらも決して手にすることのできない幻想に過ぎなかった。
誰もが、そう信じていた。
――あの日までは。
一人の青年が立ち上がるまでは。
その男の名は――
アキラ・ヴェルクリス。
彼は歴代の王たちとは違っていた。
武力による征服を望まない。
恐怖による支配も望まない。
彼が望んだのは、人と人が手を取り合い、未来を築ける世界だった。
「剣は国を奪えても、人の心までは支配できない。」
その信念を胸に、アキラは各国を巡り続けた。
敵国の王とも語り合い。
争う部族には和解の道を示し。
互いを憎み続けた者たちへ、共存という未来を説き続けた。
もちろん、その道は決して平坦ではない。
理想論だと笑われたこともあった。
命を狙われたことも、一度や二度ではなかった。
それでも彼は歩みを止めなかった。
何度拒絶されても。
何度裏切られても。
人を信じることだけは、最後まで諦めなかった。
そして長い歳月の末――。
百二十もの王国は、一つの旗の下へ集う。
こうして誕生したのが、
ヴェルクリス帝国。
大陸史上、かつて存在したことのない最大の統一国家だった。
帝国の誕生は、大陸そのものを変えた。
戦争は終わりを迎え。
国境には商人たちの笑顔が戻る。
各地を結ぶ街道には旅人が行き交い、異なる文化と言葉を持つ人々が、互いを恐れることなく交流するようになった。
かつて剣を交えていた国々は、今では同じ食卓を囲み、未来について語り合う。
それは、誰も想像できなかった景色だった。
だが、アキラが築こうとしたものは、「統一国家」だけではない。
彼が本当に目指したのは――
すべての者が平等に生きられる世界。
貴族だから偉い。
平民だから劣る。
そんな価値観を、彼は決して認めなかった。
「人の価値は、生まれでは決まらない。」
「その者が、どう生きるかで決まる。」
それが、アキラ・ヴェルクリスという男だった。
帝国法もまた、その理念を映すものとなる。
身分によって裁きが変わることはない。
王族であろうと。
貴族であろうと。
平民であろうと。
すべての民は、等しく法の下にある。
各王国にも同じだけの発言権が与えられ、小国だからと軽んじられることはなかった。
前例のない政治だった。
しかし、それこそが人々の心を動かした。
「この国なら、子どもたちを安心して育てられる。」
「もう戦争に怯える必要はない。」
そんな声が、大陸中へ広がっていく。
人々は次第に、彼を皇帝としてではなく、一人の希望として見るようになった。
いつしか誰かが、こう呼び始める。
――『平和の王』。
その呼び名は瞬く間に帝国全土へ広まり、やがて歴史書にも刻まれることとなる。
時は流れ、帝国はかつてない繁栄を迎えた。
市場には活気が満ち、
子どもたちは戦争を知らないまま成長し、
旅人は安心して大陸を渡り歩く。
誰もが信じていた。
この平和は、永遠に続くのだと。
だが――。
光が強ければ強いほど、影もまた深くなる。
豪華な屋敷の奥深く。
煌びやかな宴の席。
笑顔を浮かべる貴族たちの胸には、誰にも見せることのない黒い欲望が静かに芽生え始めていた。
「平等……か。」
一人の老貴族が、静かに酒杯を揺らす。
「実に美しい言葉だ。」
その口元には、冷たい笑みが浮かんでいた。
「だが、その理想は我ら貴族を滅ぼす。」
部屋にいた者たちは誰も否定しなかった。
静寂だけが流れる。
やがて、一人の男が低い声で呟く。
「もし平民も我らと同じ権利を持つのなら……。」
「貴族である意味は、どこにある?」
その一言が、
長き平和の時代に、初めて落とされた小さな火種だった。
そして誰もまだ知らない。
この小さな囁きが、
やがて帝国そのものを滅ぼす"史上最大の陰謀"へと変わっていくことを。
その囁きは、最初こそ些細なものだった。
酒宴の席で交わされる不満。
閉ざされた書斎で語られる愚痴。
誰もが「ただの不平不満」で終わるものだと思っていた。
だが、その小さな火種は、ゆっくりと、確実に広がっていく。
帝都の片隅。
陽の光さえ届かない地下の一室。
重厚な扉が静かに閉ざされる音が響いた。
長机を囲むように、数人の貴族たちが席につく。
誰一人として笑顔はない。
部屋を支配するのは、張り詰めた沈黙だけだった。
やがて、一人の男が口を開く。
「……このままでは、我ら貴族に未来はない。」
低く押し殺した声が、石造りの部屋へ静かに響く。
「皇帝陛下は、平民にも貴族と同じ権利を与え続けている。」
「税も。」
「裁判も。」
「発言権すらも。」
「このままでは、我らは"特別な存在"ではなくなる。」
別の貴族が苦々しく呟いた。
「民は皇帝を崇拝している。」
「今さら誰が反対しても無意味だ。」
再び沈黙が訪れる。
誰もが理解していた。
正面からアキラに挑めば敗北する。
彼は英雄だった。
帝国そのものだった。
民も兵士も王たちでさえ、彼を信頼している。
剣では勝てない。
戦争でも勝てない。
だからこそ――。
「ならば。」
部屋の奥に座っていた一人の男が、静かに笑った。
「剣ではなく、人の心を奪えばいい。」
その言葉に、全員の視線が集まる。
男はゆっくりと立ち上がった。
「人は事実では動かない。」
「感情で動く。」
「恐怖。」
「疑念。」
「憎悪。」
「それさえ植え付ければ、どれほど強固な帝国も、内側から崩れる。」
部屋の空気が凍りつく。
誰も否定しなかった。
その計画が、あまりにも現実的だったからだ。
それから数か月。
陰謀は、誰にも気づかれることなく進められた。
市場では、
「最近、アストレヴィア家の兵が増えているらしい。」
酒場では、
「皇帝陛下の政策に不満を持つ者がいるとか。」
貴族の屋敷では、
「もし皇帝がお倒れになれば、次に帝国を継ぐのは誰だ?」
そんな噂が、ごく自然に語られるようになっていく。
誰が最初に言い出したのか。
誰が広めたのか。
それを知る者はいない。
しかし、人々は少しずつ疑い始めていた。
目には見えない毒は、
言葉となって帝国中へ広がっていく。
ある夜。
再び秘密の会合が開かれた。
机の上には、一枚の羊皮紙が置かれている。
そこには、たった一つの名前が記されていた。
――アキラ・ヴェルクリス。
誰一人として口を開かない。
その名が持つ重みを、全員が理解していた。
長い沈黙の末、一人の貴族が震える声で言う。
「……本当に、やるのか。」
答えたのは、最初に計画を口にした男だった。
「ここまで来て後戻りはできない。」
「皇帝が生きている限り、我々の理想は決して叶わない。」
「ならば……。」
男は一本の小瓶を取り出す。
月明かりを受けて、
透明な液体が静かに揺れた。
「剣は英雄を生む。」
「だが毒は、英雄さえ静かに葬る。」
誰かが息を呑む。
部屋は静まり返った。
「これは即死する毒ではない。」
男は淡々と説明を続ける。
「少しずつ体を蝕み、病と見分けがつかない。」
「宮廷医師であろうと原因は分からない。」
「そして皇帝は……自然死したように見える。」
その言葉を最後に、
誰も反対しなかった。
静かに、一人、また一人と頷く。
その瞬間。
ヴェルクリス帝国の運命は、大きく動き始めた。
数日後。
夕暮れに染まる皇宮。
窓の外では、美しい夕日が帝都を黄金色に照らしていた。
いつもと変わらぬ一日。
いつもと変わらぬ晩餐。
侍女たちは料理を並べ、
近衛騎士は静かに持ち場を守る。
誰一人として異変には気づかない。
食卓へ運ばれる一皿。
香ばしく焼き上げられた肉料理。
湯気の立つ温かなスープ。
焼きたてのパン。
どれも、いつもと変わらない。
ただ一つだけ違っていた。
その中には、
誰にも見えない"死"が、静かに混ぜ込まれていた。
アキラは穏やかな笑みを浮かべる。
「今日も良い香りだ。」
そう言って、静かに食事を口へ運ぶ。
誰も止められない。
誰も知らない。
この一口が――
平和の時代の終わりを告げる、一口になることを。
翌朝――。
皇宮は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
窓から差し込む柔らかな朝日。
庭園では小鳥がさえずり、噴水の水音が穏やかに響く。
誰もが、平和な一日の始まりを疑わなかった。
だが、その頃。
皇帝アキラ・ヴェルクリスの体には、すでに異変が起こり始めていた。
「……少し、疲れているだけだ。」
朝の執務中。
アキラは胸元を押さえ、小さく息を吐く。
わずかな眩暈。
全身を襲う倦怠感。
それでも彼は机に向かい、書類へ目を通し続けた。
側近たちは休息を勧めたが、アキラは静かに首を横へ振る。
「まだ終わっていない仕事がある。」
「民を待たせるわけにはいかない。」
それが、彼という男だった。
自らの苦しみよりも、常に民を優先する。
その姿を見ていた者たちは、胸を痛めながらも何も言えなかった。
しかし――。
日を追うごとに、皇帝の容体は目に見えて悪化していく。
食事の量は減り、
夜には激しい咳が続き、
歩くだけでも息が切れるようになった。
宮廷医師たちは昼夜を問わず診察を繰り返す。
薬草。
魔法治療。
各地から集められた名医。
考え得るあらゆる手段が試された。
それでも――。
原因だけは、誰にも分からなかった。
「あり得ない……。」
白髪の老医師が震える声を漏らす。
「皇帝陛下ほど健壮なお方が……。」
「このような短期間で衰弱するなど……。」
誰も答えられない。
それは病ではなかった。
だからこそ、誰にも治せなかった。
やがて、その知らせは帝国中へ広がる。
『皇帝陛下が倒れられた。』
その報は、まるで雷鳴のように人々を震撼させた。
市場では商人たちが商売の手を止め、
農民たちは畑で祈りを捧げ、
教会には連日、多くの人々が集まる。
「どうか陛下を……。」
「神よ、あのお方をお救いください……。」
帝国中が、奇跡を願っていた。
その知らせを受けた皇太子――
シアル・ヴェルクリスは、
国境視察の任務を途中で打ち切り、昼夜を問わず帝都へ馬を走らせた。
皇宮へ到着した彼は、埃にまみれたまま父の寝室へ駆け込む。
扉を開いた瞬間。
目に飛び込んできた光景に、彼は言葉を失った。
「……父上。」
ベッドに横たわるアキラは、
わずか数日前とは別人のように痩せ細っていた。
頬はこけ、
呼吸は浅く、
それでも穏やかな微笑みだけは、以前と何一つ変わっていない。
「帰って……来たか。」
弱々しい声だった。
それでも息子を見つめる眼差しには、深い優しさが宿っていた。
シアルは震える手で父の手を握る。
「申し訳ありません……。」
「もっと早く戻るべきでした……。」
アキラは静かに首を振る。
「謝る必要はない。」
「お前は……よくやっている。」
その一言だけで、
シアルの胸に押し込めていた感情が溢れそうになる。
だが、彼は必死に涙を堪えた。
父の前でだけは、弱い姿を見せたくなかった。
それから数日。
シアルは一歩たりとも寝室を離れなかった。
昼も。
夜も。
眠ることなく父の傍らに座り続ける。
医師が薬を運べば自ら飲ませ、
熱が上がれば冷たい布を取り替え、
眠れぬ夜には静かに祈りを捧げた。
「どうか……。」
「父上を連れていかないでください……。」
その願いが届くことは、なかった。
帝国暦一四〇三年九月十二日。
夜明け前。
静かな雨が、皇宮の窓を優しく叩いていた。
部屋にはシアルと数名の近臣だけが残っている。
アキラはゆっくりと目を開き、
最後にもう一度だけ息子を見つめた。
「……シアル。」
「はい。」
「民を……守れ。」
その言葉を最後に。
アキラ・ヴェルクリスは、
静かに目を閉じた。
握られていた手から、
ゆっくりと力が抜けていく。
「……父上?」
返事はない。
「父上……。」
もう一度呼ぶ。
それでも、
返事は返ってこなかった。
部屋は、静寂に包まれる。
やがて一人の医師が、震える声で告げた。
「――陛下、崩御。」
その瞬間。
シアルは父の手を強く握りしめたまま、
声にならない涙を流した。
こうして、
大陸に真の平和をもたらした英雄、
アキラ・ヴェルクリス。
後に『平和の王』と語り継がれる偉大なる皇帝は、
誰にも真実を知られることなく、
静かにその生涯へ幕を下ろした。
アキラ皇帝の崩御は、
ヴェルクリス帝国全土を、かつてない悲しみで包み込んだ。
七日七晩――。
帝国中の教会では鐘が鳴り響き、
街という街から笑顔が消えた。
市場は閉ざされ、
酒場では誰一人として杯を交わそうとはしない。
各王国の旗は半旗となり、
人々は花を手に教会や神殿へ集まり、静かに祈りを捧げていた。
「どうか安らかに……。」
「平和をありがとうございました。」
幼い子どもは母の胸で泣き、
老人は震える手を組みながら天を見上げる。
誰もが信じられなかった。
あの偉大な皇帝が、
もうこの世にはいないという現実を。
しかし――。
その深い悲しみの裏側で、
静かに笑みを浮かべる者たちがいた。
帝都の地下。
灯火だけが揺れる密室。
「あとは最後の一手だ。」
一人の貴族が低く呟く。
別の男が静かに笑った。
「王は死んだ。」
「民は悲しみに支配されている。」
「今なら、誰も冷静には考えられない。」
机の上には、一枚の書状が置かれていた。
そこには、
あらかじめ用意されていた"証拠"が並んでいる。
偽造された文書。
改ざんされた報告書。
そして、
最初から決められていた一つの名前。
――アストレヴィア家。
「皇太子は父を失ったばかりだ。」
「悲しみは、人から判断力を奪う。」
「その隙を突く。」
部屋には誰一人として異論を唱える者はいなかった。
計画は、
最後の段階へ進もうとしていた。
一方――。
皇宮では、
即位を目前に控えたシアルが、
父の棺の前から離れようとしなかった。
広い霊廟には、
静かな祈りだけが響いている。
「父上……。」
掠れた声が漏れる。
「私は……。」
「まだ何も返せていません。」
彼は棺へ手を添える。
幼い頃。
剣を教えてくれたこと。
初めて政務へ同行した日。
失敗して落ち込むたび、
父は笑ってこう言った。
「失敗を恐れるな。恐れるべきは、何も学ばないことだ。」
その優しい声が、
何度も脳裏によみがえる。
「どうして……。」
「どうして父上が……。」
涙は止まらなかった。
だが、
悲しみに浸る時間は長くは続かない。
霊廟の扉が静かに開く。
近衛兵が深く頭を下げた。
「殿下。」
「諸侯の皆様がお目通りを願っております。」
シアルは静かに涙を拭う。
「……分かった。」
ゆっくりと立ち上がり、
そのまま玉座の間へ向かった。
広間には、
帝国でも指折りの有力貴族たちが並んでいた。
誰もが重苦しい表情を浮かべている。
沈黙が続く中、
年老いた一人の侯爵が前へ進み出た。
「陛下……。」
その呼び方に、
シアルはわずかに表情を曇らせる。
まだ即位した実感などなかった。
父を失った悲しみの方が、
遥かに大きかったからだ。
侯爵は静かに頭を下げる。
「恐れながら……。」
「皇帝陛下を害した者が判明いたしました。」
その一言で、
広間の空気が凍りつく。
シアルの瞳が鋭く揺れた。
「……誰だ。」
短い問い。
誰も息をしようとしない。
侯爵は苦しげな表情を作りながら、
ゆっくりと言葉を続ける。
「我々も信じたくはありません。」
「ですが……。」
「調査の結果。」
「犯人は――」
一瞬、
広間は完全な静寂に包まれた。
「アストレヴィア家でございます。」
「……何だと?」
シアルは思わず立ち上がる。
その顔には、
怒りよりも驚きが浮かんでいた。
「それは……何かの間違いではないのか。」
「ガイが……父上を裏切る?」
誰よりも彼自身が信じられなかった。
ガイ・アストレヴィア。
王家最大の盟友。
幼い頃から兄のように慕い、
父もまた、
最も信頼していた男。
その人物が、
皇帝を暗殺したなど――。
到底、受け入れられる話ではなかった。
しかし、
侯爵は静かに一枚の書状を差し出す。
「こちらをご覧ください。」
「証人の証言。」
「毒物の流通記録。」
「そして……。」
「アストレヴィア家の紋章が押された密書です。」
もちろん、
そのすべてが偽物だった。
だが、
シアルにはそれを見抜く余裕がない。
父を失った悲しみ。
眠れぬ日々。
積み重なる疲労。
冷静な判断力は、
少しずつ奪われていた。
彼は書状を見つめたまま、
拳を強く握り締める。
「……ガイ。」
震える声で、
親友の名を呼ぶ。
その姿を見つめながら、
貴族たちは誰にも気付かれぬよう、
静かに口元を歪めた。
計画は、
彼らの思惑どおりに進み始めていた。
その知らせは、翌朝には帝都中へ広がっていた。
「アストレヴィア家が皇帝陛下を毒殺した。」
その一文だけが、人々の記憶に刻み込まれていく。
誰が最初に言い始めたのか。
誰が広めたのか。
それを知る者はいなかった。
だが、悲しみに沈む民にとって、その噂はあまりにも信じやすかった。
「まさか……。」
「アストレヴィア家が……?」
市場では商人たちが囁き合い、
酒場では旅人たちが声を潜め、
教会では祈りの合間に同じ話題が交わされる。
疑念は、瞬く間に帝国全土へ広がっていった。
数日後。
アストレヴィア公爵邸。
ガイ・アストレヴィアは、山のように積まれた報告書を前に、眉をひそめていた。
「……何だ、これは。」
一枚目を開く。
『西部にて支持者が襲撃されました。』
二枚目。
『商隊が暴徒に焼き払われました。』
三枚目。
『各地でアストレヴィア家の旗が引き裂かれています。』
ガイは静かに息を吐いた。
「理由は?」
側近が苦しそうに答える。
「民は……我らが皇帝陛下を暗殺したと信じています。」
その言葉に、ガイは目を見開いた。
「……何を言っている。」
「そんな馬鹿げた話があるか。」
彼は立ち上がり、机を強く叩いた。
「私はアキラ陛下と共に育った。」
「幼い頃から兄弟のように過ごしてきた。」
「その方を裏切るなど……。」
拳が震える。
怒りではない。
あまりにも理不尽な現実への、深い悲しみだった。
「誰かが……。」
「誰かが、この帝国を壊そうとしている。」
その言葉に、部屋は静まり返る。
しかし、その"誰か"の正体は、まだ誰にも分からなかった。
一方、皇宮では――。
シアルは新たな皇帝として、休む間もなく政務に追われていた。
だが、彼の机には毎日のように新たな報告が届く。
「アストレヴィア家の密偵を捕らえました。」
「反乱軍が武器を集めています。」
「各地の貴族も証言しております。」
報告は尽きない。
しかも、そのすべてがアストレヴィア家を犯人と断定する内容だった。
シアルは書類を閉じ、深く目を閉じる。
「……ガイ。」
心の中で、その名を呼ぶ。
信じたい。
だが、目の前に積み重なる"証拠"が、その想いを揺らしていく。
その様子を見つめる貴族たちは、静かに口を開いた。
「陛下。」
「決断の時です。」
「帝国を守るためには、反逆者へ裁きを下さねばなりません。」
シアルは何も答えない。
数日後――。
皇宮・円卓会議室。
帝国を代表する王族や有力貴族たちが集められていた。
重苦しい空気が部屋を包む。
誰一人として笑顔はない。
やがてシアルが立ち上がる。
その表情は、数週間前とは別人のようだった。
父を失った悲しみ。
終わらない混乱。
そして、人々を守らなければならないという責任。
そのすべてが、若き皇帝の肩にのしかかっていた。
長い沈黙の末――。
シアルは静かに口を開く。
「……アストレヴィア家を。」
その声は、小さく震えていた。
「帝国より……追放する。」
広間は静まり返る。
やがて、一部の貴族が一斉に頭を下げた。
「陛下、ご英断にございます。」
「反逆者に帝国の地を踏む資格などありません。」
「直ちに討伐軍を編成すべきです。」
だが、その時だった。
「……お待ちください。」
広間の後方から、一人の老王が前へ進み出る。
白髪の老人は、まっすぐシアルを見つめた。
「私は、その決定に賛成できません。」
その一言に、空気が張り詰める。
「ガイ・アストレヴィアは、私が若き日から知る男です。」
「彼が皇帝陛下を裏切るなど……到底信じられません。」
続いて、別の王も立ち上がる。
「証拠が不十分です。」
「このまま決めれば、帝国は取り返しのつかない過ちを犯します。」
さらに、一人。
また一人。
反対の声が広間に響いていく。
「我らは真実を知るべきだ。」
「感情だけで裁いてはならない。」
「今こそ冷静になるべきです。」
賛成派と反対派。
互いの怒号がぶつかり合う。
机を叩く音。
怒鳴り声。
誰も相手の言葉を聞こうとしない。
かつてアキラが築き上げた"団結"は、
今、この瞬間にも音を立てて崩れていた。
その頃。
帝都の外では、さらに深刻な事態が起きていた。
噂は憎しみへ変わり、
憎しみは暴力へ変わる。
アストレヴィア家の紋章を掲げた屋敷は焼き払われ、
支持者たちは石を投げられ、
罪なき民までもが"裏切り者"と罵られた。
やがて、その暴力に耐えかねた者たちが武器を取る。
そして――。
帝国各地で、小規模な衝突が相次いで発生した。
それはまだ戦争とは呼べない。
だが、誰もが理解していた。
この火は、
もう誰にも止められないことを。
こうして――
ヴェルクリス帝国は、
ゆっくりと、しかし確実に、
内戦への道を歩み始めた。
内戦が始まってから、一か月――。
その短い期間で、ヴェルクリス帝国は見る影もなく変わり果てていた。
朝日が昇れば、各地から悲報が届く。
「北部の村が焼き払われました。」
「西方街道が封鎖されました。」
「避難民が帝都へ押し寄せています。」
報告は、一日たりとも途切れることがない。
広大な帝国は、静かに悲鳴を上げていた。
戦場では、兵士だけが命を落としていたわけではない。
炎に包まれた村から、幼い子どもを抱えて逃げ惑う母親。
瓦礫の下で、家族の名を叫び続ける老人。
焼け落ちた教会の前で、祈りを捧げながら涙を流す神官。
剣を握った者も。
何も持たない者も。
等しく、この戦争の犠牲となっていた。
かつて笑顔に満ちていた帝国からは、笑い声が消えていた。
聞こえてくるのは、
泣き声と、
怒号と、
燃え盛る炎の音だけだった。
アストレヴィア公爵邸。
窓辺に立つガイ・アストレヴィアは、遠く立ち昇る黒煙を静かに見つめていた。
その表情には疲労が色濃く刻まれ、
かつての穏やかな笑みは、もうどこにもなかった。
「……これが。」
彼は静かに呟く。
「アキラ陛下が望んだ未来なのか……。」
答える者はいない。
ただ冷たい風だけが、部屋を吹き抜けていく。
ガイは拳を強く握り締めた。
「私がどれだけ潔白を訴えても、もう誰も耳を貸さない。」
「このままでは……。」
「帝国そのものが滅びる。」
その言葉は、自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
やがて一人の側近が、静かに部屋へ入ってくる。
「ガイ様。」
「本日の被害報告です。」
羊皮紙を受け取ったガイは、ゆっくりと目を通した。
焼失した村――二十七。
死亡者――数千名。
行方不明――多数。
ページをめくるたびに、その数字は増えていく。
ガイは最後まで読み終えると、
静かに目を閉じた。
「……もう十分だ。」
「これ以上、民を死なせるわけにはいかない。」
長い沈黙が流れる。
そして彼は、ゆっくりと机へ向かった。
そこには、一枚の白い羊皮紙が置かれている。
ガイは羽根ペンを手に取り、
深く息を吐いた。
「残された道は、一つしかない。」
静かな筆音だけが部屋に響く。
親愛なる兄弟、シアル・ヴェルクリスへ。
私は、この悲劇を望んだことなど、一度もない。
どれほど言葉を尽くそうとも、
今のあなたが私を信じることは難しいだろう。
それでも、伝えたいことがある。
戦いが続くたび、
罪なき民が命を落としている。
彼らは王家の争いなど望んではいない。
ただ、家族と共に平穏な日々を生きたいだけなのだ。
もし、この戦争を続ければ――
我々が手にするのは勝利ではない。
誰も住まぬ廃墟だけだ。
だから、お願いしたい。
各王国に、自ら未来を選ばせてほしい。
どちらへ従うかも、
彼ら自身の意思に委ねよう。
それこそが、
これ以上血を流さずに済む唯一の道だと、
私は信じている。
――ガイ・アストレヴィア
書き終えたガイは、
しばらく封筒へ手を伸ばすことができなかった。
視線は、机の上に置かれた一枚の古い写真へ向けられる。
そこには、
まだ幼かった頃のシアルと自分、
そして二人の肩を抱き、優しく微笑むアキラの姿があった。
「あの日に……戻れたなら。」
掠れた声が漏れる。
「私は何度でも、この命を懸けて陛下を守った。」
拳が震える。
だが、過去は変えられない。
ガイは静かに封を閉じると、
伝令へ手紙を託した。
「必ず……シアル陛下へ届けてくれ。」
「命に代えても。」
伝令は深く頭を下げる。
「はっ。」
そして、夜の闇へと駆け出していった。
数日後――。
その手紙は、皇宮へ届けられた。
玉座の間。
シアルは静かに封を切り、
一行ずつ読み進めていく。
読み進めるほどに、
その表情は苦しげに歪んでいった。
そして最後の一文へ辿り着いた、その瞬間――。
遠い昔の記憶が、静かによみがえる。
まだ幼かった頃。
皇宮の庭園で、
アキラは二人の少年――シアルとガイの肩へ手を置き、穏やかに笑っていた。
「お前たちは、いつかこの帝国を支える。」
「だから忘れるな。」
「互いを疑うよりも、信じることの方が、何倍も難しい。」
「だからこそ、最後まで信じ抜け。」
父の優しい声が、
まるで昨日のことのように胸へ響く。
シアルはゆっくりと目を閉じた。
一筋の涙が、静かに頬を伝う。
「……父上。」
その手には、
ガイからの手紙が強く握り締められていた。
彼は知っていた。
この決断が、
父の遺した理想を壊すことになると。
それでも――。
民を救うためには、
誰かが、その罪を背負わなければならなかった。
長い沈黙の末、
シアルはゆっくりと立ち上がる。
「……分かった。」
「これが、民を救う唯一の道なら。」
「私は……受け入れよう。」
その一言が、
ヴェルクリス帝国の運命を決定づけることになる。
シアルの決断から数日後――。
帝国全土へ、一通の勅命が届けられた。
「帝国の未来を決するため、すべての王国の王、
および領主は帝都へ集結せよ。」
その知らせは、瞬く間に大陸中へ広がる。
誰もが理解していた。
この会議こそが、
ヴェルクリス帝国の未来を決める最後の機会になるのだと。
帝都。
皇宮・大謁見の間。
建国以来、これほど多くの王と領主が一堂に会したことは一度もなかった。
広間を埋め尽くす百十九の席。
その中央には、
二つの玉座が静かに置かれている。
一つは、
シアル・ヴェルクリス。
もう一つは、
ガイ・アストレヴィア。
二人は互いに向かい合うように立ちながらも、
決して視線を交わそうとはしなかった。
憎しみがあるからではない。
見れば、
かつて兄弟のように笑い合った日々を思い出してしまう。
だからこそ、
二人はただ沈黙を選んだ。
広間を包む静寂は、
まるで息を潜めるように重かった。
やがて、
帝国宰相がゆっくりと前へ進み出る。
「本日の議題は一つ。」
「今後、各王国がどちらへ従うかを決定することである。」
誰一人として声を上げない。
ただ、
重苦しい空気だけが流れていた。
宰相は深く息を吸う。
「それでは――。」
「投票を開始する。」
最初に前へ進み出たのは、
北方の小国の王だった。
彼は迷うことなく頭を下げる。
「我が国は。」
「シアル陛下へ忠誠を誓います。」
一票。
続いて、
東方の王が前へ出る。
「我が国は、ガイ殿を支持します。」
また一票。
その後も、
一人。
また一人。
王たちは静かに意思を示していく。
誰も叫ばない。
誰も争わない。
それでも、
一票が投じられるたびに、
帝国は少しずつ二つへ裂かれていった。
数時間後――。
すべての投票が終わる。
広間は、
再び静寂に包まれた。
宰相は震える手で結果を読み上げる。
「シアル・ヴェルクリス陛下支持――」
「八十六王国。」
広間にざわめきが走る。
「ガイ・アストレヴィア殿支持――」
「三十三王国。」
その瞬間、
誰もが息を呑んだ。
これで、
すべてが決まった。
そう思われた――。
「……お待ちください。」
静寂を破る声が響く。
一人の男が、
ゆっくりと立ち上がった。
視線が一斉に集まる。
男は、
ファルコン王国の代表だった。
彼は二人を真っ直ぐ見つめ、
静かに頭を下げる。
「我々は――。」
短い沈黙。
そして、
力強く言い放つ。
「自由を望みます。」
広間が騒然となる。
「何だと……?」
「どういう意味だ!」
王たちがざわめく中、
代表は一歩も退かなかった。
「我々は。」
「ヴェルクリス帝国にも。」
「アストレヴィア帝国にも属しません。」
「自らの意思で、自らの未来を選びます。」
その宣言は、
誰も予想していなかった。
シアルは目を閉じる。
ガイもまた、
苦しそうに拳を握った。
もし、
この独立を認めれば、
他国も続くかもしれない。
帝国はさらに細かく分裂する。
それだけは、
アキラが最も望まなかった未来だった。
しかし、
拒絶すれば。
再び戦争が始まる。
長い協議の末――。
シアルが静かに口を開く。
「……認めよう。」
ガイも、
小さく頷いた。
「これ以上、血を流すわけにはいかない。」
こうして、
ファルコン王国は、
両帝国から独立することとなった。
――だが。
運命は、
まだ終わってはいなかった。
その日の夕暮れ。
空が突然、
黒い雲に覆われる。
冷たい風が大地を吹き抜け、
やがて一粒の雨が落ちた。
その雨は、
止まらなかった。
一日。
二日。
三日。
雨は激しさを増し、
川は堤防を越え、
濁流となって町を飲み込んでいく。
「洪水だ!」
「逃げろ!」
人々は家族の手を引き、
必死に高台を目指した。
しかし、
自然はあまりにも無慈悲だった。
濁流は村を押し流し、
橋を砕き、
城壁さえ飲み込んでいく。
助けを求める叫び声も、
濁流の轟音へ消えていった。
数日後。
雨は静かに止んだ。
だが、
そこに残っていたのは、
かつて人々が暮らしていた街ではない。
泥と瓦礫だけが広がる、
静かな廃墟だった。
そして、
シアル側へ残ることを選んだ八十六王国のうち、
二十八王国が、大洪水によって完全に消滅した。
誰も言葉を失った。
まるで、
天そのものが、
統一帝国の終焉を告げたかのようだった。
その日を境に――。
アキラ・ヴェルクリスが命を懸けて築き上げた、
一つの帝国は、
永遠に歴史から姿を消す。
そして、
その灰の中から、
二つの新たな帝国が誕生する。
一つは、
ヴェルクリス帝国。
皇帝シアル・ヴェルクリスの下、
五十八王国を擁する新たな国家。
もう一つは、
アストレヴィア帝国。
皇帝ガイ・アストレヴィアが治める、
三十三王国の帝国。
かつて百二十の王国が一つだった時代は、
この日、
静かに終焉を迎えた。
統一帝国が滅びてから――。
幾十年もの歳月が流れた。
戦火はやがて収まり、人々の暮らしにも再び平穏が戻ってくる。
しかし、それは決して「平和」ではなかった。
憎しみは消えなかった。
むしろ、世代を重ねるたびに深く根を張っていく。
ヴェルクリス帝国では、
「アストレヴィアは皇帝を殺した裏切り者だ。」
そう教えられ。
アストレヴィア帝国では、
「ヴェルクリスは我らを陥れた偽りの正義だ。」
そう語り継がれていく。
幼い子どもたちは、
生まれた時から「隣国は敵である」と教えられた。
誰も疑わない。
誰も真実を知らない。
百年前に起きた出来事は、
長い年月の中で少しずつ姿を変え、
やがて歴史は"勝者が語る物語"となっていた。
アキラ暗殺の真実も、
陰謀を企てた者たちの存在も、
歴史の闇へ埋もれていく。
人々に残されたのは、
互いを憎む理由だけだった。
そして――
帝国暦一四九七年。
歴史の歯車は、
再び静かに動き始める。
ヴェルクリス帝国。
帝都に鳴り響く祝福の鐘。
人々は新たな皇帝の誕生を祝い、
街は華やかな装飾で彩られていた。
玉座へ歩み寄る一人の青年。
レオン・ヴェルクリス。
シアル・ヴェルクリスの息子であり、
ヴェルクリス帝国第二代皇帝。
若く、聡明で、
父と同じく民を思う心を持つ青年だった。
その同じ日――。
国境の向こう、
アストレヴィア帝国でも、
新たな皇帝が即位する。
ジェイソン・アストレヴィア。
ガイ・アストレヴィアの息子。
誰よりも剣に優れ、
民から厚い信頼を集める若き皇帝。
二人はまだ出会ったことがない。
互いの顔さえ知らない。
しかし、
二人が受け継いだものは、
王冠だけではなかった。
百年という歳月をかけて積み重ねられた、
終わることのない憎しみ。
そして、
誰にも語られることのなかった、
一つの"真実"だった。
だが――。
これは、
レオンやジェイソンの物語ではない。
ヴェルクリス帝国と、
アストレヴィア帝国の戦いを描く物語でもない。
これは――
二人の英雄の物語。
まだ何も知らず、
運命に導かれることさえ知らない、
二人の少年の物語である。
その頃――。
この世界から遥か彼方。
青い海に包まれた、
もう一つの星。
地球。
西暦二〇二七年。
人類は、
自分たちの運命が、
遥か遠く離れた異世界と結びついていることを、
まだ誰一人として知らなかった。
しかし、
運命はすでに動き始めている。
それは誰にも止めることのできない、
悠久の時を超えた物語。
やがて二つの世界は交わり、
失われた真実が、
再び歴史の扉を開くことになる。
そして、
世界の命運を背負う二人の少年は、
まだ何も知らないまま、
それぞれの日常を生きていた。
――彼らの本当の物語は、ここから始まる。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
**『異世界の陰謀』第0章「滅びし帝国」**を楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
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そして――
**第1章「神との出会い」**をお楽しみに。
また次の章でお会いしましょう。
― プレム・ピパル




