1: 婚約破棄
「エリカ·ラキュネイン公爵令嬢、きみとの婚約を破棄する!」
レオン·セルヴァネイン第一王子は苦渋に満ちた面持ちで、声はわずかに震えていた。
「殿下……」
エリカの漆黒の髪は腰まで届き、深い紫の瞳は宝石のように澄んでいる。
冷たい美貌はまるで夜を統べる女王のようだった。
「エリカ……」
レオンの緑色の瞳に、なぜか葛藤が浮かび上がる。
金糸のような髪を持つレオンは、祝典用の正装をまとい、鍛えられた長身をまっすぐに伸ばしていた。
端正な横顔には王族らしい威厳がある。
それでも今は、その緑の瞳に苦悩が宿っている。
「レオン殿下……」
レオンの傍らでエリカを哀れむような視線を向けてくるのが、侯爵令嬢のアンフィサ·ロアネインだ。
彼女が動くと、甘い百合の香水が香る。
「どうかエリカ様を責めないでください」
その声は弦楽器のように可憐で、蜂蜜色の巻き毛が肩で揺れる。
「王家の分家でありながら、怪異を引き寄せる特殊体質……もう我慢ならん。目を開いて周りを見てみろ」
まるで嵐が吹き抜けたようなあと、三百年の伝統を誇る王立ラヴォリア魔導学院の入学式会場はスラム街のような惨状を晒した。
薙ぎ倒された数百客の椅子。
少し崩れた壁。
怯えている生徒たち。
うろたえる来賓たち。
それを宥める教師たち。
記念すべき入学式が、たった一人の女子生徒のせいで台無しになった。
「やっぱり」
「怪異を呼ぶ女だから」
「レオン殿下も大変だったのね」
物見高い生徒たちが、、レオンに名指しされたエリカの表情を窺う。
エリカがゆっくりと顔を上げると、黒髪が揺れる。
「婚約破棄ですって?」
エリカは、なんと、堂々と胸を張ってレオンに反論した。
「その通りだ」
見物人や壊れた椅子に囲まれた場所で、レオンはアンフィサを守る騎士のように立っている。
エリカは一歩前に出る。
「理由をお聞かせください」
エリカの紫の瞳がレオンを見据えると、彼は落ち着かない。
「きみは学院の秩序を乱し……」
と言いかけたところで、エリカが問いかける。
「その程度の理由で、王家とラキュネイン公爵家の婚約を白紙になさるおつもりですか?」
エリカの美声はよく通る。
会場が静まりかえる。
「婚約とは、個人同士の約束ではありません。王家と公爵家の盟約です」
エリカの言い分は正当性があるだけ、そう簡単に覆せないはずだ。
「それを公衆の面前で一方的に破棄なされば、父は当然説明を求めるでしょう」
レオンが少し動揺するが、隣にいるアンフィサが腕に手を添えると元気を取り戻した。
「もちろん、覚悟はある」
レオンはエリカの眼差しを見返した。
その目つきはしっかりとしている。
そして学院長が立ち上がる。
「ラキュネイン公爵家には、すでに国王陛下から話が通っている」
あんまりなことにエリカが言葉を失う。
つまり、エリカの父親もこの婚約破棄を知っていた。
指先が小さく震えた。
「ど、どうしてお父様が?」
呼吸が浅くなる。
(お父様だけは私の味方だと思っていたのに)
初めて動揺するエリカに、レオンの傍らでアンフィサが涙ぐみながら言う。
「エリカ様、あなたは悪くないんです」
真剣に聞くレオン。
胸打たれる生徒たち。
「聖女様はお優しい」
「不吉な怪異令嬢とは違う」
エリカは周囲から切り取られたように冷めていた。
レオンに寄り添うアンフィサの手首に注目する。
彼女の手首に、一瞬だけ黒い痣のような模様が浮かぶ。
エリカは小さく呟く。
「……怪異?」
しかし次の瞬間には消えている。
「ゴホン!」
学院長が咳払いし、皆の注目を集めてから沙汰を下した。
「婚約破棄に伴い、エリカ·ラキュネイン公爵令嬢を怪異学科に編入する」
エリカは息を呑む。
生徒たちが聞こえよがしに言い出す。
「怪異学科?」
「あそこは呪われた者の行くところだ」
「終わったな」
まるで処刑場に引かれる者を見送るような目で、生徒たちはエリカを見物した。
*
エリカは教師に連れられ、普段は立ち入り禁止の旧校舎へ。
「ようこそ、怪異学科へ……と言いたいところだが、歓迎はしない」
「はい、わかりました」
校舎の雰囲気が一変する。
昼なのに薄暗い。
壁には封印のお札がべたべたと貼ってある。
廊下には誰もいない。
途中、鉄格子の向こうから誰かの笑い声がする。
「あ、新入生?」
教師は無視する。
怪異学科の扉を開ける。
教室には五人いる。
誰も制服をきちんと着ていない。
「あはははは!」
包帯だらけの少女が笑う。
「すん、すん。ラベンダーの匂い」
獣人のように耳としっぽがある少年がエリカの匂いを嗅ぐ。
「静かにしてや」
目を閉じたまま本を読む少年が注意した。
教室の隅には鎖が。
まるで病棟のような、おどろおどろしい雰囲気だ。
教室の隅には肖像画が黒く塗り潰されている。
「この人たちは?」
教師は答えない。
エリカは恐怖を感じてそれ以上言えなかった。
「今日からきみたちの仲間だ。ほら、自己紹介を」
「エリカ·ラキュネインです。よろしくお願いします」
「はーい」
とりあえず返事をしただけの声音ばかりだ。
「君の席はあそこ」
教師が指さした場所に赴くと、雨の日の森のような香りがした。
窓際の席であくびをした少年に、エリカは息を呑んだ。
白磁のような白い肌、長い睫毛、金色の瞳は眠たげなのに、不思議と目が離せない。
均整の取れた身体つきは、一流芸術家が作った彫刻のようだ。
「綺麗……」
思わず、そんな言葉が漏れそうになるほどだった。
「近づかないでほしい。お願いだから」
彼の麗しい声を出す唇は少しだけ赤い。
「……え?」
しかし、彼はエリカに近づこうとしない。
教師が紹介する。
「フィン·ジークハイム。血液依存症候群」
エリカはフィンを見た。
一見儚そうだが、芯の強い目をしている。
フィンだけが立ち上がる。
「席を離せ。決して近づくな」
「どうして?」
「僕は……血を吸わないと眠れない」
その瞬間、フィンが倒れる。
「またか」
と教師が呟いた。
生徒たちはフィンの様子を気にしている。
「大丈夫ですか?」
エリカはフィンを助け起こそうとする。
「フィン、寝るな!」
獣人のような少年の包帯だらけの少女が叫んだ。
「起きて、お願い!」
生徒たちが騒ぐ。
教師が警告する。
「エリカくん、離れろ!」
フィンは苦しそうにエリカの首へ手を伸ばす。
エリカはどうしても、その手を拒むことができなかった。
「逃げろ」
エリカだけがフィンの目を見る。
すると、怯えている。
「いえ、これは助けを求めているのよ」
そう見えた。
だから、首を差し出した。
フィンの唇が首筋に触れた瞬間、冷たいはずの身体がわずかに震えた。




