第30話 明日の朝も、迎えに来てください
依頼番号 D-0417(再発行)
依頼名 第三迷宮 第四層 記録および遺品の回収
申請等級 B
申請者 アルヴェント支部長 ヴェンツェル・グラーフ
六つ半、開門。
監査会の翌朝でも、開門の刻限は変わらない。前庭の石畳を掃いて、掲示板の古い貼り紙を剥がして、受付台に朱肉を出す。昨日と違うのは、二階の窓が開いていることだけだ。支部長が朝から書類を燃やす人ではないと分かる程度には、この支部を長く見ている。
わたしは掲示板に一枚貼ると、三年前に消された番号が、紙の上に戻ってきた。
等級はB、第四層まで、報酬は支部負担。申請者は支部長で、査定はわたしが入れた。押した朱印は角が欠けたままで、替えていない。
扉の右側、柱一本ぶんのところに灰色の影が立っていた。
「早いな」
「グレン様こそ」
「グレンでいい」
はじめの朝から毎朝している応酬だ。数えてはいないし、数えるのは依頼票だけでいい。
包みを受け取ると、まだ温かい。開くと、胡桃の焼き菓子が二つ入っていた。
「これ、受ける」
彼は掲示板のD-0417を見ていた。
「編成が要ります。第四層は四人以上です。揃うまで貼っておきます」
「揃う」
「はい。……遺品の欄に、名前を入れなければいけません。分かるだけで結構です」
「全員分かる」
「では、書いていただけますか」
「ああ」
彼は受付台で羽根ペンを取った。書くのは速く、完了報告書と同じ字で、訊く前に書いてある人の字だ。書き終えてから、彼はしばらく紙を見ていた。それから顔を上げて、いつもの位置へ戻っていった。
九つ半に本部の使いが来たが、封蝋は昨日と同じではない。監査官の印ではなく、本部そのものの印だ。
告示だった。わたしは声に出さずに二度読んで、それから掲示板に貼った。
——番鑑定制度の改正について、本部にて審議を開く。開催は次の月。各支部より参考人一名を招致すること。
参考人の欄は空白だった。
支部長が横から覗いて、頭のうしろを掻いた。
「一名だそうだ」
「はい」
「……アルヴェント支部は、ここのところ、めだつのでね」
「そのようです」
「行きたいかね」
「分かりません」
「結構。分からんと言える者を出すのが、いちばん安全だ」
支部長は二階へ戻っていったが、段の途中で一度止まって、また上がった。
昼の窓口には人が並んだ。査定が支部に戻ったと聞いた者が、まとめて申請を持ってきたからだ。
「差し止めなら早めに言ってくれよ。編成を組み直す」
「本日中にお返しします」
「頼むわ。……あんた、昨日すごかったんだって?」
「台帳を出しただけです」
シャノンが隣の窓口から手を伸ばして、わたしの列から三人ぶんの札を勝手に取っていった。取ってから、こちらを見ずに言った。
「今日は流すわよ。あんた、昨日から水しか飲んでないでしょ」
「飲みました。二杯」
「それが水なのよ」
夕方の六つに、メリルが来た。
抱えていたのは鑑定簿ではなく、糸の緩んだ古い綴りで、鑑定院の書庫のいちばん奥にあったものだという。
「鑑定院ができる前の、王立記録所の名簿です。ギルドや商会に査定官を出していた家が四つ載っています。……このうちのひとつが、ルーンです」
わたしは名前の行を見た。鏡台の裏に彫ってあるのと、同じ字だった。
「マイカ・ルーンさんは、この家の四代目にあたります。名簿の現況が空欄だったのは、囲われる前に家を出たからです。嫁いで名字が変われば、院は追いません」
「母は逃げたんですね」
「逃げて、あなたを産みました」
わたしが頁を繰ると、四つの家の名の下に、細かい字が並んでいる。
「この四家の者は、番鑑定の水晶が反応しません。香を出さないからです。……理由が書いてありました」
メリルが指で行をなぞって、声が少し震えていた。
「——番の香に酔わぬこと。危険を匂いにて量らざること。査定に適す」
わたしはその一行を三度読んだ。
欠けているのではなく、そういう作りだった。番の香に引かれないから、香も出ない。匂いで危険を測らないから、記録で測るしかない。母の家は何代も、そうやって坑に入る人数を数えてきた。
鑑定院はこれを該当なしと呼び、記録所は査定に適すと書いた。同じことを二通りに書いて、後のほうだけが残った。
母は香のことを一度も言わなかった。訊けば答えたのかもしれないし、答えるつもりのまま死んだのかもしれない。母はわたしの耳をよく撫でて、あんたの耳はあたしの耳だねと言って笑い、耳の話だけをした。
「再鑑定を申請なさいますか」メリルが言った。「今なら判定の見直しが出せます。あなたなら通ります」
「いいえ」
わたしは首を振った。
「札はそのままで結構です。……該当なしは、間違っていませんので」
「間違っていない、と」
「はい。わたしに対はいません。それは本当のことです」
メリルが目を伏せて、それから、初めて頭を下げた。
「東分館の十一人は」
わたしが訊くと、彼女は頭を上げた。
「本部の審議が始まるまで、動かせません。名簿はわたしが引き継ぎます。……十一人ぶんの現況の欄を、記録課付から書き換えるのが、わたしの次の仕事です」
「十四人です」
わたしは言った。
「三人は除と書いてありました。その三人も数に入れてください」
メリルは何か言いかけて、やめて、うなずいた。うなずくのに、少し時間がかかった。
閉店の刻に灯りを落とした。
外に出ると、いつもの位置に立っていた。扉の右側、柱一本ぶんだけ離れたところ。はじめの夜と同じで、あの夜は街灯の下、今日は西日の残りの中だった。
「終わったか」
「終わりました」
わたしは扉に鍵をかけた。かけてから、鍵を握ったまま振り返った。
「グレン。ひとつ伺ってもいいですか」
「ああ」
「三年前、票を握って引き返したとき、書いた人の名前は見ましたか」
「見てない。朱印の欠けだけ覚えた」
「それで三年、探したんですか」
「ああ」
わたしは息を吸った。
「あれは、わたしがあなたを選んだのではありません。わたしはあなたのことを知りませんでした。あの票は、坑に入る全員に向けて書いたものです」
「知ってる」
「毎朝迎えに来たのも、あなたが決めたことです。わたしは一度も頼んでいません」
「頼まれてない」
「はい」
風が来た。前庭の石畳はまだ昼の熱を持っていて、番鑑定を受けた日の帰り道と同じ温度だ。あの日わたしは歩く速度を上げて、この場所で足を止めた。
わたしはもう一度息を吸った。査定票に判を押すときと、同じ手順で吸った。
「明日の朝も、迎えに来てください」
彼の耳が動いた。
それから灰色の尻尾が一度だけ大きく揺れた。はじめの夜と同じ揺れ方で、今度はわたしの正面だった。
「……ああ」
彼はうなずいた。それだけだった。
番の証はどちらにも無く、札は該当なしのままで、鑑定院の名簿にわたしの対はいない。制度はどこも壊れていないし、明日も同じ札が誰かの上に掲げられる。
それでも明日の朝、この人は来る。来なければ、わたしがもう一度言う。
翌朝、六つ半。
鍵を回すと、扉が思ったより軽かった。上のほうを大きな手が押していた。開店前だから入らないと言っていた人が、扉だけ一緒に開けて、それから柱のところへ戻っていった。
わたしは灯りを入れて、今日の依頼票の束を受付台に出した。
本部の改正審議は次の月に開かれる。参考人の欄は、まだ空いたままだ。




