●15
「最近になって、よく思い出すんです」桧山さんは静かにそう言った。缶コーヒーと煙草を、器用に片手で持っていた。「レースの三十分前になると、よく観客席から親父について下までおりていって、爪楊枝に刺した唐揚げを頬ばりながら、パドックの柵に手をのせて頭をのぞかせてました。騎手に連れられてレースに出る馬が目の前を通ると、興奮で胸が震えましたよ。でかいんです、とにかく。見上げるような高さで、まるで崖の前に立っているみたいな圧迫感があるんです。筋肉が岩場みたいにがくがくと盛りあがっていて、毛並みが太陽の光を浴びて、艶やかに光っているんです。年月が過ぎてから、ひとりで旅行先の競馬場を訪れたときも、子供の頃に染みた印象はなかなか変わらないみたいで、忘れられないんです」
「なるほど」ぼくの缶コーヒーは底を尽きかけていた。「だから北海道なんですね。冬の間はどうされるんです?」
「車のなかで寝泊まりしながら適当に過ごそうかと思ってます。この季節なら、毎日風呂に入る必要もありませんしね」
ぼくは大きく缶を傾けてコーヒーを飲み干した。「不思議なものですね」ぼくはぼーっとしていて、頭のなかで考えていた余計なことを口走ってしまった。「半年も共に過ごしてきたというのに、ぼくはあなたのことをろくに知らなかった。共に働いて、共に従業員食堂で飯を食ってきたというのに。いつも決まって、相手のことをいくらかでも知るのは別れ際なんです」
「うーん」桧山さんは眉根を寄せた。しばらくしてから彼は言った。「これは単なるぼくの我儘なんです」
「我儘?」
彼は少し照れたように顔を背けた。「どこへ行っても、数か月も同じ時間を過ごせば、よほどいやな環境じゃない限り、情ってもんが湧いてきてしまうものです。かといって、この放浪生活をやめるわけにもいきません。勢いにのったなにかの軌道を変えるのは、自然の理に反しているような気がしますから。それ自身が力を失うのを待つことが、いまのぼくにできる精いっぱいなんですよ。だからせめて、最後だけは綺麗な終わりを迎えたいんです。汚い終わりかたをすれば、その場所で得たよき思い出は、すべて汚れたものに変わってしまいます。いやな気持は次の場所へ行っても引きずるもんです。要するに、ぼくは終わりさえよければ残りのことはすべて些事だと思ってるような、いい加減な人間なんですよ」
「なるほど」ぼくはつぶやいた。それ以上、言うべきこともなかった。