官能小説風味のお話はお好きですか?(牧彦目線)
母国語を学ぶには、にほんごであそぼ、がお勧め。子供向け番組だけど一流の演者奏者が、
「これは仕事だけど、舞台の上とは違う感じで仕事できる!」
とばかりにノリノリでふざける時があるので楽しい。
牧彦は今まで、勉強なんて先生が一方的にしゃべって、時期になればテストをして生徒らの勉強の度合いを点数で測る物、というようにしか考えていなかった。
それがあの里菜子はどうだろう、国語なら国語、日本史なら日本史、理科なら理科、と区切ることなく一つの事から他の事へと考えを伸ばし、それを楽しんで自分の物にしていっている。
里菜子の話を聞いて、俺が今まで見て拒否して来たものは勉強じゃない、里菜子のやり方こそが勉強というのに当てはまるんじゃないか、と思った。
牧彦はあれからも度々、「勉強って繋がってるんです、境が無いんです、どこまでも行けるんです」という言葉を思い返していた。
里菜子は過去だろうが世界の果てだろうが空の上だろうが、勉強を通じてどこまでも飛んで行く。それが鳥肌が立つほどのショックを牧彦に与え、その里菜子の飛んで行く先には何がある、次はどこにいく、もっと知りたい、もっと学びたいと思えた。
そして今日は部活の陸上が休みだということで、牧彦は里菜子に呼び出されて図書室へと向かっている。
「まずは何を勉強するにも一番に大事なのは国語です」
と朝におはようとあいさつをしたあとに里菜子は言った。
「国語ぉ?」
と牧彦が言うと、
「母国語を理解できないで、他の事が学べるとお思いですか!」
とまるで熱血家庭教師みたいな顔つきでカッと一喝したので牧彦も黙っておいたが。
「というわけで、今日は部活休みの日なんですね?掃除が終わったら図書室集合です、私セレクトの本を用意しておきますので、本を読みましょう」
と言われたが、牧彦は里菜子の知識の行く先が知りたいと思った手前、乗らない気分を抱えながら図書室へと歩みを進める。
自分が知りたいのは昨日の夜に聞いた、世界史日本史理科など、色んな勉強が入り混じったあんな話だ。
大体にして牧彦は本を読むという行為自体あまり好きじゃない。
段々と他の事に気が移って内容が頭に入ってこないまま自分がどこを読んでいるのか分からなくなり、内容が頭に入ってこないので前のページに戻ろうと一ページ戻った辺りでもういいや、と本を閉じることになる。
ともかく図書室に入り、先に来ているだろう里菜子の姿を探した。
しかし図書室にいて本を読んだり勉強している奴ら全員が「自分は物静かな秀才だ、お前はどうだ」と言ってきているような気がして、本嫌いで頭の悪い自分が図書室にいるのが居心地悪い。
そうしてもう少し図書室の奥に歩いて行くと、里菜子の後ろ姿を見つけた。
夕日の差し込む窓辺でブラインドとブラインドの隙間から漏れた夕日が里菜子の首筋に当たって、そこだけが浮きだつように輝いている。
思わず牧彦はその場に立ち止まって里菜子のうなじをジッと見た。
「…」
思えばこのおさげの髪型ってうなじがよく見えるな、と思いながら後ろに近寄っていき、夕日の当たっているうなじを後ろから眺める。
里菜子は本を読んでいてこちらの気配には全く気づいていないようだ。
ちょっとしたイタズラ心が沸きあがり、人差し指をスッともちあげ、うなじにチョンと触れてみた。
「うわっ」
里菜子はビクッと肩を揺らして声を漏らし、驚いた顔でこちらを振り向く。そして不愉快そうに顔をしかめて首筋をボリボリとかきむしった。
「何ですか、かゆいなぁ」
思ったより色っぽい反応じゃなかったのに牧彦は軽くつまらないと感じたが、
「図書室に来いっつっただろ、里菜子が」
と言いながら椅子を引いて隣に座る。
「う、うんまあ…」
妙に照れた様子の里菜子は取り直したような顔つきになり、うん、と一回頷くと牧彦の顔を見た。
「牧彦くんはお化けが出てくる系と、エロ系、どっちがお好き?」
「…は?」
なんだその二択は、と思いながら里菜子を見ると、里菜子は自身の読んでいた本を脇に寄せて別の本を引き寄せてきた。
「人間はね、目に見えないモノ…いわゆるお化け、幽霊、妖怪の類はもう勉強の枠を超えて気になるものなんですよ。
見えないとなると気になる、それはエロも同じ。人間の欲求の元ともいえますし、それに…」
と言いながらチラと牧彦を見て、里菜子はニマニマと顔をにやつかせる。
「牧彦くんは保健体育がお好きみたいですしねぇ。やっぱり最初はエロ系からせめてみましょうか」
…なんだ、なんか妙に腹が立つし恥ずかしい。でも否定も出来ないのが悔しい。
「そんなあなたに。川端康成著、『片腕』」
と言いながら妙に古ぼけた固そうな表紙の本をスッと自分の目の前に差し出してくる。
「川端康成…」
名前だけは聞いたことがあるし、昔の作家だというくらいは分かる。
「ちなみに川端康成とはこんな人」
と言いながら里菜子はこのために用意してたらしい国語の便覧を開いて見せてくる。
そこには目玉がギョロっとして髪の毛が大きく広がっている爺さんの写真があった。
「この川端康成の目、すごくない?」
「…まあ」
目玉が横を向いてるから目が大きいくらいに思えるが、この目が真正面を向いてたらかなりの威圧感があるかもしれないと牧彦は思う。
「川端康成はね、他の美人な奥さんをジッと見続けてたら『そんなに見られたら穴が開いてしまいます』って言われたんだって」
その情報に思わずボッと口から笑いが吹き出す。
「ね、その人となりが分かったらちょっと親近感感じるでしょう?」
確かに、こんな爺さんが美人をジッと見て妙に迷惑がられてたという話を聞いたら遠い時代の作家が身近に感じられる。
「ちなみに川端康成の代表作は雪国、伊豆の踊子。トンネルを抜けるとそこは雪国だった…ってよく言うフレーズでしょ?」
言わねえよ、とツッコみたくなったが、この図書室でそんな事を言うと里菜子どころか周りの本を読んで勉強している生徒たちにも馬鹿にされそうなので曖昧に頷いておいた。
なんだ?里菜子レベルになるとトンネルを抜けるとそこは雪国だったなんてフレーズよく使うのか?だとしたらどのタイミングで使うんだと牧彦は思ったが、里菜子は我関せずとばかりに本を開いた。
その開かれたページタイトルの「片腕」というのが目に飛び込んでくる。
「けどその…トンネルの向こうは雪国とかの代表作じゃねえんだな?」
「この片腕はちょっとマニアックかもしれません。ただ、やや官能小説みたいな雰囲気だし短編なので、気負わず読めるかと思いまして」
官能小説という言葉には思わず反応してしまう。
「どんな話なんだ?」
片腕というタイトルからして片腕がでてくるのは間違いないと思うが、それでエロだの官能小説だのと言われるといやらしい想像しか膨らまない。
「女性の片腕とイチャイチャする話」
「…」
案外と自分の頭の中で考えたのと似たような話なのかもしれない。牧彦の気分はだいぶ高揚している。
いやまさか、学校でこんなに堂々とそんな本が読めるとは思わなかった、昔の作家もいい仕事をすると思いながら牧彦は片腕の二文字のタイトルしかないページを開いて最初の一文を見たが、最初の一文で度肝を抜かれた。
いきなり思った展開じゃない。
え?え?と思い読み進め、ごく普通に家に帰って行く主人公の男にも困惑した。
そして家に帰り、里菜子の言う通り女の片腕とイチャイチャしだす男…。
男と片腕の接触の仕方、これが半端じゃなくしつこい。
なんだ、川端康成は女の腕フェチか?
そう思いつつその女の腕に触れている描写で、まるで自分がその腕を触って可愛がっているように思えて来た。
そんなにその女の肌は柔らかいか、そんなにその女の爪先が気になるか、そんなにその女の腕は…。
思わず頭を上げて現実に戻る。
…意味分かんねえけどなんかすげえぞこれ。
頭の中が男の部屋のベッドの上になっていたが、頭を上げるとここは夕日の色に染まった学校の図書室だ。
隣を見ると里菜子が他の本に目を落とし、ページをめくっている。
十月末なのでもう長袖になっているが、その白いシャツの内側にこの片腕のような腕がくるまれてそこにあると思うと妙に落ち着かなくなる。
本当に女の腕ってのはそこまで柔らかいのか?本当に女の爪の先をこの本のように触ったらどうなるんだ?もし隣にあるこの腕に同じことをしたら…。
そこまで考えて、なんだかしてはいけない事をしている気分になってきたが、ここまで読んだのだから最後がどうなるのか気になる。
牧彦は本に目を戻し、最後まで読み進め、そして読み終わって背を伸ばす。
「…見終わりました?」
小声でも話しかけられて牧彦は思わずビクッと肩を揺らす。
「お、おお…」
妙な罪悪感で里菜子が見られない。
「感想は?」
「かんそ…」
牧彦は絶句して里菜子を見る。
「国語だと、この時の作者・主人公の考えをかきなさいとか、主人公はこの時どう思ったでしょうって問題がよく出るでしょ。それの練習です」
言えってか?この小説の感想を?女のお前に?こんなほかに人もいる図書室で?
困惑の目を里菜子に向けるが、里菜子の目は容赦なく牧彦の目を真っすぐに見てくる。牧彦は思わず里菜子から視線を逸らした。
「特に感想無し?心に残りませんでした?」
「いや…そんなことは…」
ない、とモゴモゴと牧彦は言うと、
「では、心に残った感想をどうぞ」
と促してくる。
これは感想を言うまで聞いてくるパターンか、と牧彦は思い、
「…なんか全体的に意味分かんねえけど色々と…すごい」
という。
すんでのところで色々とエロい、という言葉は飲み込んだ。
「ねー、意味分かんないでしょう。けどやたらと頭の中に残るでしょう」
と言って来る。
あ、なんだ、こいつも意味分かんねぇって思ってんだ、と思っていると里菜子は、
「それでも最初の一文で、はぁ?と思っても話が破綻しないで最後までそのスーッとしたテンションでいってるんですもん、文豪ってすごいですよね」
と手を前に水平につー、と動かしながら言う。
腕が伸びたので思わず制服のシャツに包まれている腕を見る。
そして、やべえ、このままじゃ川端康成と同じく腕フェチになっちまう、と牧彦は里菜子の腕から視線を逸らす。
しかし…、牧彦はふと思った。
里菜子はどんなことを考えながら腕を触っている男のシーンを読んでいたんだろう。
その事を考えると悶々としてきて、里菜子に気づかれないように大きく深呼吸して気分を落ち着かせる。
そしてハッと気づいた。
これが、里菜子の言う「その時作者・主人公が何を考えていたのかを答えよ」というものではないか?
今の状況に当てはめるとこうだ。
『川端康成「片腕」で、男が女の腕を触っている時に里菜子が何を考えていたのかを答えよ 十点』
「…なるほど…これが国語のスキル…!」
思わず呟くと里菜子の耳にも届いていたらしく、
「そうそう、その時の作者や登場人物の考えを更に考える。そうするとどんなこと考えてたのかなって更に考えるでしょう?そうなったら目の前にいる相手にも、この人は今何を考えてるのかな?って思えるようになる。そうなったら対人関係も円滑になるって寸法ですよ」
と嬉しそうな顔をしながらこちらに身を乗り出してきた。
「…」
別に自分は里菜子の考えているようなことを考えて言ったんじゃない。謎の申し訳なさを感じた。
片腕は、そこまでエロくはないよ。ただ、ねちっこいよ。
「文豪のジュニアセレクション 恋」というのに片腕が収録されていますし、分かりにくい昔の言葉などの解説もついているので気になった方は最寄りの図書館などでどうぞ。他にも色々な話があったんだけど、この片腕と泉鏡花の短い話しか覚えてない。
その泉鏡花は数年前まで女だと思ってた。名前で。