これは軽くセクハラですよ?
おーい猿田、勉強しようぜー
結局教室に戻る途中で授業の開始を告げる本鈴のチャイムが鳴ってしまい、二人が戻るころには教壇に五時間目の数学の先生が立っていた。
なので猿田牧彦を引き連れ、
「すみません、少し遅れました」
と慌てて謝ると、生徒どころか数学の先生までもがギョッとした顔でこちらを振り向いた。
なんで里菜子が猿田牧彦を引き連れてきたのか、という顔つきだったが、先生は何度か目を瞬かせたのち、そのまま授業に取りかかった。
そして猿田牧彦はそのまま里菜子の言葉通りいきなり机に突っ伏して眠りについたが、そこまで激しくいびきをかく訳でもなく静かに机に突っ伏していたので数学の先生もイライラしている様子だったがそのまま授業は終わった。
そしてその次の日から、猿田牧彦は普通に授業に出るようになった。それでも起きている時間と寝る時間、どっちが長いかと言われたら寝る時間の方が断然長い。
里菜子は横で「よく眠れる人だなぁ、眠れる森の牧彦…ブッ」と心の中で吹き出すなど、猿田牧彦にバレたら怒られそうなことを色々と考えるだけで、起こすでもなく注意するでもなく放っておいた。
しかしそれも段々と変化が起きた。
一日中ずっと寝ているだろうと思っていた猿田牧彦だったが、それは最初の三日ほどだけで、段々と起きてる時間の方が長くなった。
「どうしたんですか、寝ないんですか」
正門で声をかけたとき以来、里菜子と猿田牧彦…いや、牧彦はふとした瞬間に話すくらいの間柄になった。
里菜子のその言葉に牧彦はウンザリとした顔つきになって頬杖をつく。
「昼間ずっと寝てると夜眠れねえし、ずっと突っ伏して寝てると肩こるし腰も痛くなるし、なにより寝るのに飽きた」
「羨ましいですねぇ。寝るのに飽きたと言えるぐらい私だって外聞もなにもかも投げ捨てて寝てみたいものですよ」
牧彦は嫌味か、とばかりに里菜子を睨みつけ、里菜子はその眼圧を避けるように視線を逸らした。少し話す間柄になってもこの目力にはまだ慣れない。
どうやら牧彦は寝るのに飽きたから、ラジオを聞いているような顔で起きて黒板をジッと見るようになったらしい。
牧彦が寝ずに起きて黒板を見ている…その状況に先生たちも妙に緊張して授業をしているように思えた。
牧彦はやはりヤンキー・不良といえる体格で眼力が強いので、一番後ろの一番隅から何かしらの威圧を受けている気分になるのかもしれない。
「何か好きになれそうな授業とかできました?」
好きな科目が一つでもあればしめたものだと聞くが、
「ねえな」
と里菜子の言葉に牧彦は即答で返す。
今のところ授業に出す、というのはクリアし、それも授業中に寝ない、というのも成り行きとはいえクリアした。
それなら次は勉強をしてもらう、というのが目標だが、やっぱり授業そのものは嫌いみたいだ。
それに授業中に起きて黒板を見て先生の言葉を聞いてるといってもノートは取っていないし、その顔を見る限り右から入った言葉は左から抜けていて内容は全く身についてない。
「うーん、それでもなぁ。陸上の大会に出場するっていうならもう少し勉強した方が…」
と里菜子が言うと牧彦は途端にふて腐れた顔になって窓の外へと顔を向ける。
唐突の無視ですか、と里菜子は呆れながらも牧彦に声をかけ続ける。
「勉強だけは得意なので分からない事や興味があるものがあれば教えられますよ」
「全部分かんねえし、全部に興味ねえ」
バッサリときますね、と思いながら里菜子は手ごわい相手だと牧彦を見る。
「あ」
牧彦は途中で何か思いついたように声をだすと、机の中を引っかき回して何かを取り出し、里菜子の机の上にポイと投げつけて来た。
「それには興味あるな、教えてくれよ」
「…」
里菜子は机の上に投げつけられたその教科書を手に取り見る。
これは…保健体育の教科書…。
牧彦はどこかニヤニヤとした笑いを浮かべて、さあ教えてくれよとばかりの顔でこちらに向き直って見ている。
里菜子はガックリとうなだれて思わず額を手で押さえて首を軽く横に振る。
あなた、これセクハラって言っても過言ではないですからね?と思うが、里菜子は大人しい見かけに反して納得のいかないことを言われたらその場で言い返す性格だ。
「分かりました」
と里菜子は覚悟を決めた顔つきで、牧彦に向き直る。
牧彦は、お、と楽しそうな、何かを期待する顔つきで身を乗り出した。
「では生活習慣病や飲酒、タバコの危険性について勉強しましょう」
「ちげえよ!」
牧彦はそう言いながら自分の机をバンッと叩く。
周りからはビクッとその声と音に驚く反応が出たが、里菜子は動じない。冷めた目で眼球だけを動かして真っすぐに牧彦を見返す。
「だって、今習ってるのこの辺じゃないですか」
牧彦は保健体育の教科書をもぎ取りバラバラとページを前に戻しながら、
「もっと前のページにあるだろうが、この、男と女の体の違いだの性交だの…」
「残念ながらそこは一学期に終わりました。先を見ましょう、先を。次のテストに出るのはこの生活習慣病と飲酒、タバコ、あと麻薬や車やバイクの運転の危険性についてです」
里菜子は淡々と切り返す。
牧彦は口を尖らせ里菜子を睨みつけていたが、里菜子はその眼力を受け流す勢いで目を逸らした。色々と言い返してはみるが、この眼力の強さはやはり心臓がすくみ上る。
しかし里菜子は目を逸らしながら何となく思った。
健全な男子高校生なのだから保健体育の男女の体の違いというのに興味を持つのは普通の事だろう。それでも今、牧彦は勉強を教えてくれと言って、いざ説明しようとしたら前のめりで話を聞こうとした。
エロ目的で自分に対する嫌がらせも込められていたとはいえ、何かを学ぼうという精神はこの勉強嫌いの牧彦の中にもあるんだ。
それなら何か牧彦の好きなエロから勉学を学ばせていくのがいいのではないか。
そうだ、自分だって全く興味のないことに対してなんの取っ掛かりもなく、さあ教えてやるから覚えろと言われたって拒否反応しか出ない。
つまり牧彦は勉強が嫌いなのではなく、勉強を好きになる取っ掛かりを見つけられないだけなのかもしれない。
そうだ、まずは本人の好きな物から取りかかっていくのが一番の勉強への近道だ。
しかしそんな男女の体の違いなどの事を教えるのは流石に抵抗がある。それにこの牧彦的には自分に対する嫌がらせ目的だろうし…。
他に…他に男子が好きそうなものといったら…。
里菜子はグルグルとかんがえていて、ハタと思いついた。
あ、そう言えば今日は…。
里菜子は今日の夜にあることが起きるのを思い出した。
「牧彦くん」
ついこの間まで猿田くんと呼んでいたが、名前で呼んだ方が親しまれるかと思って今では名前呼びにしている。
その牧彦に視線を戻すとまだ強い威圧的な目がこちらを睨んでいて思わずすくみ上るが、名前を呼んで声をかけると視線の強さが少し緩んだ。
「今日は部活ありますか」
「…あるよ、んだよ」
いきなりなんだとばかりの声色で牧彦は里菜子に言うと、里菜子は食い気味に続ける。
「何時終わりですか?」
「…七時ぐらい」
「夜遊びはお好きですか」
「…は?」
牧彦は表情を崩して思わずといった変な顔つきになり、里菜子を見返す。
「八時ごろ、暇ですか」
「…まあ」
「じゃあ八時ごろ、山際公園の展望台まで来てくれますか」
山際公園とは里菜子たちが住んでいる山際町にある公園で、木々が多く、町民たちの散歩道や憩いの休息場所となっている。そして山際公園の裏山には石段が九十九段敷き詰められていて、その石段を登り切ると裏山の頂上から町が一望できる展望台へとたどり着く。
「…な、なんで…」
どこか戸惑ったような顔つきで微妙に視線を逸らしながら牧彦がしどろもどろに言い、里菜子はニヤリと笑って牧彦の心臓に人差し指を向ける。
「教えてあげます、勉強の楽しさを!」
私の学生時代、ダンディな教頭先生が保健体育の先生でした。
ダンディな教頭先生が子供の戦後の頃、米軍に「ギブミーチョコレーイト」と言っても無くなったのかチョコをくれず車に乗ってしまい、腹が立って石を投げたらそれが相手の頭に当たって、米軍兵が怒ってこちらに向かって来たけど他の人が落ち着けよ、となだめて戻っていったそうです。