ごめんなさい(牧彦目線)
家の周辺には私が生まれる前からずっとそこにあるというスーパーが無いことに気づきました。世知辛い世の中です。
「五千九百二十円でーす」
レジの人にそう言われたので牧彦は金を渡してお釣りを受け取る。
これくらい買えば一週間以上は持つだろう。これで今月分の食費はだいぶ抑えられるはずだ。
まさか子供の頃から来ていたこのスーパーヤオチョウが三十年やっているとは思わなかったが、予想以上に物が安く買えたし、特売のものやタイムセールの物もおばさんの軍団になんとか競り勝って手に入れた。
それも陸上で鍛えた瞬発力と脚力、そして生まれつきのこのガタイがあるからこそだ。
壁際にかかっている時計を見る。
五時二十分過ぎか。
タイムセールのものはあっという間に片付いてしまったし、他に欲しいものもあらかた手に入れたのでもうここに用はない。
家に帰ろうとスーパーから出て家の方向に向かって歩き出す。
「なんでローマ帝国って崩壊したか、知ってる?」
学校帰りらしい男子中学生二人がそう言いながら隣を通り過ぎていく。
「知らねえ、何で?」
「領土広げ過ぎてまとめられなくなったからだって。来年あたりに世界史で習うぞって先生に言われた、ほら部活の先生、世界史の先生だから」
「ふーん」
一人は興味が無かったのかそのまま生返事を返すばかりであとは何も言わず、すぐにゲームの話題へと変わっていく。
ローマ帝国が何で滅びたのか、という質問を里菜子にしたらどのような答えが返ってくるだろう。
今あの中学生が言ったような教科書の模範的回答が返ってくるのか、それとも別の雑学的なものが返ってくるのか…。
牧彦はふっ、と息を吐いた。白い吐息が風に流され消える。
ファミレスで里菜子が、
「あの学級委員長を見返してやるため」
と言い、それを聞いてカッと頭に血が昇って言いたいことを言い放って家に帰った。
しかし家に帰って一人になって冷静になってみると、利用されたにはされたが、それでも実際に里菜子は自分のために放課後や休日の時間を割いて勉強を教えていたのは事実であるし、こちらとしても勉強などまともにやってこなかったから勉強を一対一で教えてくれる相手がいるというのはとてもありがたい状況だった。
それもほとんど勉強もろくにできず、赤点の常習犯とでもいうレベルの低い自分に対してあんなに親身になって…。
里菜子も度々この程度なら分かるだろうと教えてくることもあったが、それでも分かって無さそうと思ったらレベルを下げた言い回しでこちらに物事を教えてきていた。
それが申し訳なくもあり、ありがたかった。
補習の先生だって、
「お前この漢字も読めないのか、小学の時に習っただろ?」
と呆れることもあったというのに、里菜子はそのように言うことなく、根気強くこちらが分かるまで付き合っていた。
もし里菜子の状態が自分だったとしたらと国語のスキルを応用して考えてみた。
誰かに一生懸命勉強のあり方を教え、俺はそいつを利用しようとしてたんだということが相手にばれ、相手が激怒して文句を言って来たとしたら。
自分だったら、
「それでも赤点から少し脱出できただろうが!それは誰のおかげだと思ってやがんだ!」
と逆切れしてしまうかもしれない。
なのに里菜子は怒るどころかポカンとした顔で、手を振り払ったあとはひどく傷ついた顔をしていた。一瞬胸が痛んだが怒りは収まらずさっさと自分はファミレスを後にした。
そのうちに始業式の日になったが、里菜子とどのような顔をして教室で会えばいいのか分からず、始業式の日は別に休んでもいいだろうと休んだ。
里菜子からラインが来ていたが、もしかして当初の頃のような淡々とした言葉で、
「今まで勉強を一生懸命教えてきましたが、そんなにお嫌ならもうやめにしますね。これからも勉強頑張って二年生になって卒業してください」
という静かに見捨てられるような文面が来ているのではと思うと怖くて開けられなかった。
ラインのアプリを見るたびに未読のものがこれくらいあるという数字が表示がされていて、それが妙な圧迫となって最近では気づかないふりとばかりにスマホはベッドの上に置きっぱなしだ。
そうしているうちに始業式の日から二日たっている。行かなければと思っているが始業式の日の一日休んだだけで妙に行きづらくなってきて、それから一日、二日とたつと余計行きづらくなってきた。
冬の重い空を見上げて牧彦はまた口から白い息を流しながら歩いて行く。
何だったら学校は辞めて働いた方が良いのかもしれない。おふくろは昔から朝早くから夜遅くまで働いていていつ寝ているのかと疑問に思うほど子供の頃から働きづめだった。
その生活は自分が小学生の頃から変わっていない。
自分が成長したというのもあるが、先日おふくろが鏡台に向かってかがんで化粧直しをしているのを後ろからふと見た時、母はこんなに小さくて細かったかと妙にショックを受けた。
石川啄木が母を背負ったらあまりに軽くて泣けた、という句を詠んだと里菜子は言った。
啄木の妹が言うにはそんなことは無かった、と言っているらしいが、背負わずとも成長した男が自分より一回りも小さい母を見下ろせばどれほど軽いかなど分かるものだろう。
あんなに小さく細い母にこれ以上迷惑はかけたくもない。それならいっそ高校をやめて働いた方がいいのでは…。
と、隣に疾風が走って誰かが隣にキキィッと自転車のブレーキ音を出して止まったので、思わず首を動かして隣を見た。
するとそこには髪を振り乱した女が目を見開き、こちらを凝視している。
「誰」
見知らぬ女がいきなり隣に止まってこちらを凝視しているのに驚き、牧彦の口から思わずそんな言葉が漏れて一歩引いた。その女はショックを受けた顔をする。
「…顔も思い出したくないですか」
いや待て、この声にこのショックを受けたこの顔に、この眼鏡のフレームは…。
「里菜子…?」
髪の毛を降ろしているのを見たことが無いため一瞬誰か分からなかったが、里菜子だ。
里菜子はショックを受けた顔のまま自転車を降り、そして自転車を脇に寄せて止めてからこちらに歩いてきて、軽く髪の毛をわさわさと手櫛で整えてから深々と頭を下げた。
「ごめんなさい…」
いきなり頭を下げられて牧彦は体を硬直させる。
「牧彦くんの言う通りです。私は学級委員長のあの男を見返すため、牧彦くんを利用しようとしました。
…色々と言い訳したい気持ちもありますが、まずそのことで牧彦くんを、ひどく傷つけて不快な気持ちにしてしまったこと、ここで深く…お詫びします…」
牧彦は里菜子に謝られてたじろいだ。
そりゃ利用されたことは腹立ったが、それでもそれ以上に勉強に対して前向きに取り掛からせ、勉強に対するやる気をださせ、そして教わった。それなのに勉強を教わっていた身分の俺が勝手に怒ってしまっただけだ。
菱沼と里菜子、どちらを信用するかと言われれば断然里菜子だったのに、菱沼というあの男の口車で疑心暗鬼になってただ喚いただけだ。
「それでも」
里菜子は続ける。
「私は牧彦くんと二年生になりたいです、三年生にもなりたいです、そして同じ学年のまま共に学校を卒業したいです」
里菜子は真っすぐに牧彦を下から見上げた。
「ですから、明日からまた学校に来てください。ミリもノアも、蟹江くんも、臼井くんも、尾田くんも、栗田くんも、蜂須賀さんも牧彦くんが学校に来ないの心配してますよ。皆大丈夫かって言ってますよ」
「…」
真っすぐに里菜子に見上げられ、そして髪を振り乱しながら自分を見つけこのように言う里菜子に対して素直に嬉しいという感情と、やっぱり里菜子が好きだという想いが沸きあがる。
「…悪い」
牧彦は一言謝ると里菜子は黙って自分を見ている。
「悪い、色々…教わってたのに好き勝手に怒って…なんか、傷つけたと思うのに、こうやって頭下げさせて…」
里菜子は頭を振る。
「私が悪いんです、親切心からではなくあんな男を見返すためと牧彦くんを利用しようとした私が悪いんです」
「いやそれでも、今まで色々と教わってたお前を信用しきれてなかった俺が悪かった」
「だけど私は牧彦くんを利用しようと…」
「もういい」
牧彦が怒ったように強く言うと、里菜子は顔を強ばらせ泣きそうな顔で牧彦を見ている。
牧彦は慌て、
「収集つかねえからもういい」
と付け足す。
すると里菜子の顔から力が抜けて、ふっと微笑んだ。
「良かった…酷く嫌われたと思っていたので…」
俺の方こそ見捨てられると怯えていた。
しかしそれを言うのは男のプライドに関わるため口をつぐむ。
そして吹いた風で里菜子の髪が乱れて顔にかかり、里菜子は一度耳の後ろにかけたが、それでも風が吹くとまた顔にかかっていく。
「…繋いでないと邪魔そうだな」
「なんでいつも三つ編みにしてるか分かっていただけましたか」
また耳の後ろに髪をかけながら里菜子は普通に牧彦と話せるのが嬉しいというような、それでもまだ申し訳なさそうな顔つきでいる。
「髪の毛のボリュームがあるので広がりやすいんです。けど短くすると髪質的にもっと広がっちゃうので伸ばしてるんですが…」
そう言いながら邪魔そうに髪の毛をかき上げる仕草がなんだかいいな、と思える。
「けどおろしてる方が俺は好きだな」
その髪の毛をかき上げる仕草が。
「えっ」
「あ、いや…」
何を言っていると牧彦は里菜子から視線を逸らす。
しかもこんなスーパーのビニール袋だのエコバックだのを大量に手にぶら下げて。
里菜子はボリュームのある髪の毛を何度かなでつけながら視線を逸らしつつ、
「…おろしてる方が好きですか」
と言う。
「や、別にどうでも…あ、いや、どうでも良くねえけど、普段見ねえから…」
「そうですか…はい…」
里菜子はちょいとマフラーで顔を隠しながら体を横に向けている。
そして牧彦の持っている袋を見て、
「一つぐらいおうちまで運ぶの手伝いましょうか、かごに入れてもいいですよ」
と牧彦を下から見上げる。
その上目遣いの破壊力に牧彦は思わず目を逸し、
「いい別に」
と返す。家まで近いし、この程度ならそこまで重くもない。
「いえ、ほんの罪滅ぼし代わりに少しだけでも持たせてください。じゃないといつまでもこの申し訳なさが消えません」
そう言われるとおかしくなって、牧彦はそれじゃあ、と里菜子の自転車のかごに荷物を一つ入れた。
そして歩き出し、里菜子も自転車を押しながら隣を歩いている。
お互い無言だが、それでもこの無言で歩いているこの時間が前の関係性に戻れたんだと、安心した心持でいられる。
「…ローマ帝国って、なんで滅びたんだ?」
ふと牧彦は先ほどの中学生の言葉を思い出して聞いてみた。
「領土を広げ過ぎて、他民族の反乱などが相次いで国を維持できなくなったからですね」
先ほど中学生の一人が言ったのと同じような事だ。
「…ちなみにローマ帝国は水道の管理がしっかりしていました。しかしその水を通す管には鉛が使われていて、鉛の毒のせいで人々が弱体化して、それが滅びた理由の一つではないか、という説もあります」
「…毒か」
「毒です。ちなみに中世ヨーロッパ時代も鉛のカップでお酒を飲んでいたり、水銀の混じった白粉を使っていたせいで中毒になる事例が多かったらしいです。
江戸時代の白粉にも水銀が混じっていました。どうやら水銀を混ぜると白粉がよく伸びるらしいんですよ。もちろん現代では有毒だと分かってるので白粉には水銀は含まれていません」
牧彦は黙って里菜子を見る。やっぱり里菜子のこういう話を聞くのが好きだ。
「里菜子」
「はい」
里菜子も牧彦を見る。
「一緒にあの菱沼って野郎を見返してみねえか」
「えっ」
「俺もあいつ嫌いだ。お前もあいつが嫌いだし、事の発端はあいつなんだろ?それなら見返してやろうぜ、テストで」
そう言ってから牧彦は少し口をつぐみ、
「つーか菱沼ってあいつ、頭いいのか?」
と聞いた。
里菜子は、
「多分…?前にテストを受け取った時、『あーあ最悪、九十八点か…あと二点で満点だったのになぁ』ってこれ見よがしに皆に聞こえるように何度も言ってましたから…」
「ウッゼ」
牧彦の一言に里菜子は笑う。すると里菜子は顔つきを改めて牧彦を見た。
「それでもあの学級委員長のテストの総合点なんて知る術なんてありませんよ。各教科の高得点取った人の名前なら学年からのお知らせみたいなものに上位五名の名前と点数が載りますけど…」
そんなシステムがあったのかと牧彦は思った。ろくに学校から渡されるものなど見もしないでその辺に置きっぱなしにしているせいだが。
「…それならまあ、気分的に勝ったって思えるぐらいになればいい」
里菜子は適当だなぁと苦笑いしたが、それでもどこか悪どいことを考える顔つきになって牧彦を見る。
「だけどそれなら、全力でバックアップします」
「頼んだ」
牧彦が片手の手の平を里菜子に差し出す。
里菜子は一瞬キョトンとしたが、あ、と考えついたのか片手を上げて、パァンッと手を叩いた。
ローマ帝国滅亡の話は、前の職場の方の息子さんが帰ってきて急に、
「なんでローマ帝国が滅びたか…知ってる?」
と言い出し、知らないと返したらそんな事を語りだしたそうで、それをそのまま載せました。
職場の方は「おかしくてww」と笑っておられました。




