プロローグ
「隣の席なんだから、お前が面倒見ろよ」
あまりにも当然だろ?とでもいうような目の前の男子の言葉に一瞬頭がフリーズした。
…はい?
普段は優等生とばかりの笑顔を振りまいているが、今は目の前にいるこの学級委員長を、腕を組んで見下すような顔つきの学級委員長を、里菜子は眼鏡越しにジッと見つめ返した。
北島里菜子、十六歳。
眼鏡をかけ、ボリュームのある髪の毛を押さえつけるための三つ編みおさげをふたつ背中まで伸ばした、どう見ても大人しい雰囲気の女の子。
しかしぱっと見では人に何か頼まれたら断れなさそうな大人しい雰囲気をまとっていても、この里菜子は子供の頃から言いたいたことはその場でハッキリいう性格だ。
「それさっきあなたが言われてましたよね?猿田くんをどうにかしなさい、学級委員長なんだからって」
この学級委員長の菱沼が猿田牧彦をどうにかしろと先生に言われていたのはトイレの帰りに聞いていた。
そして教室に着くや否や普段接触してこないこの菱沼という学級委員長がこちらにずんずん近寄ってきて声をかけてきてからの、
「隣の席なんだから、お前が面倒みろよ」
といきなりの言葉だった。
ちなみにその猿田牧彦とは里菜子の隣の席の男子生徒だが、里菜子は未だに猿田牧彦とは一度も話したことが無い。
しかし授業をサボり続けている、いわゆるヤンキー・不良といった男子だと認識している。
体格もヤンキー・不良と言っても相違ないほどで、顔はろくに見たことがないが高校に入学してこのクラスに入って、随分と体格のいい男の人がいるなぁ総合格闘技でもやってるのかな、と思ったのがその猿田牧彦だった。
ちなみに猿田牧彦は格闘技ではなく、陸上の短距離の推薦でここの学校に入学したそうだ。
どう考えても体格的に短距離ランナーではなく砲丸投げと言われた方が合ってる気がすると思った。
その猿田牧彦はこの学校には来ているが、授業そっちのけで校内をフラフラとさ迷ってサボり続けていると、生活指導の先生が何度か呼び出し説得しても素行が治ることが無いため先生もかなり手を焼いているらしいと聞いている。
そろそろ親が呼び出されるだろうとクラスの中では話題になっているけれど…。
その猿田牧彦は教室の一番後ろの一番窓際というベストポジションの席であり、里菜子はこれ以上猿田牧彦が教室に来ないのなら、その場所に移動してもいいかと先生に言おうと思っていた所だった。
そして学級委員長の菱沼は里菜子が言い返してきたことに少し驚いたように目を見開いた。
まさか食ってかかってくるとは思っていなかったとばかりの顔つきだが、すぐさま腕を組んで少しあごを上げて里菜子を見下ろす。
「学級委員長って忙しいんだよな。色々と。ほら、お前猿田の隣の席なんだし?隣の席のお前が色々と世話かました方がいいじゃないか?それに男より女のお前に世話される方が猿田だって嬉しいだろ、男なんだし」
それどんな理論?と里菜子は渋い顔で学級委員長の菱沼を睨みあげた。
学級委員長の仕事といっても、ホームルームなどの話し合いの時に前に立って進行する程度しかやることなんてろくにない。
それにその進行の役割だって副学級委員長の可愛らしい雰囲気を持つ金田さんに全て押しつけているのは担任の先生だって勘付いてる。
そんな状態なのになんでこの菱沼が学級委員長をやっているのかと聞かれたらただ一つ。
偏差値をあげるため。
だからせめて担任の先生は何か役割を持たせようと猿田牧彦の事を言ったんだろうに、こともあろうかそれを私に押し付けようとしている。
里菜子は激怒した。
「あなたが言われたんだからあなたがやればいいじゃないですか、そうやって面倒なこと全部人に押し付けて狡いですよね?
大体にして学級委員長の仕事って何やってるんですか?ただ教壇の上で金田さんの進行を椅子に座ってどこかいやらしい目でニヤニヤと見てるだけですよね?」
この学級委員長の金田さんを見ている目つきは、まるで自分がこの女を支配しているとでも言いたげな粘着質な目つきで、教室の後ろから見ているだけでいつも不快に思っていた。
「…あぁ?」
イラッとした感情をそのまま言葉に出す菱沼に対し、里菜子の怒りも否応なしに高まっていく。
「何が『あぁ?』ですか、こっちの方こそそう言いたい気分ですね。まるで私が反論するのが気に入らないとばかりの対応で」
里菜子もイライラとして菱沼を睨みあげ続ける。菱沼がチッとこれ見よがしに顔を歪め舌打ちした。
「勉強しかできねえネクラ眼鏡ブスのくせに…」
菱沼が少し視線を逸らし、ボソッと毒つく。
イラッとした。
自分でも自分の事は勉強しか取り柄は無く、女としての魅力は皆無と自覚はしている。だがそれをわざわざこのタイミングで、それもネクラ眼鏡ブスと悪口を言われて頭に血が昇る。
だが里菜子も子供の頃から言いたいことはその場でハッキリいう性格だ。口は止まらない。
「ほぉ~?勉強できることは認めてくれてるんですねえ?ありがとうございますぅ~。私あなたよりも頭いいですもんねぇ~?」
「んっだ、てめえブス、んなわけないだろバカが」
学級委員長はそう言って睨み下ろしてくるが、里菜子の口は止まらない。
「高校生なんですからそんな悪口じゃなくてレベルの高い言葉使って反論してくださ~い、どこの小学生男子ですかぁ~?本当に私より頭いいんですか~?そんな低レベルの語彙力ごときで人に頼み事だなんて…」
嫌味で応対し精神的に追い詰めてやろうと思ったが、そこでふとある考えが浮かんで口をつぐんだ。
もし自分が猿田牧彦を普通に授業を受けさせ、そして無事に勉強もそれなりにできるように教育したら、私は菱沼というこのゲスを見返せるのではと。
そうだ、今ここで嫌味を言ってこんなつまらない男を精神的に追い詰めたところでこのイライラした感情は消えない。それだったら素行不良の問題児をまっとうな生徒に仕立て上げれば間接的にこの菱沼というゲス男に勝ったことになる。
それも担任の先生は菱沼に猿田牧彦のことを頼み込んだのに、なぜか私のおかげで猿田牧彦が更生したという話を聞いたら、先生は菱沼に言うだろう。
「なんでお前に頼んだことを北島が代わりにやっていたんだ?菱沼、お前は学級委員長はクビだ」
と。
…いやいや、会社じゃないからクビはないか。
里菜子はそう思い直すとニンマリとほくそ笑み、菱沼を見上げた。
「分かりました。まあいいつけならその役目、しっかりと果たしましょう」
里菜子の嫌味返しでキレかかっていた菱沼はその言葉で少し怒りが和らいだらしく、まるで「お前みたいな女は俺みたいな男のいう事を聞いてりゃいいんだ」とでもいうような顔つきで、
「じゃあやっとけよ」
と言ってくるが、里菜子は人差し指を菱沼の顔に向けた。
「ただし、この件は私に一任されました。猿田くんが更生したらそれはあなたではなく、私の手柄です。なのであなたはこれ以降一切手を出すんじゃないですよ。いいですね?」
どこの会社員のセリフだ、とツッコむ者は周りにはいない。
面倒なことを女子に押し付ける男子って、いたよね!それで断ったら「…あぁ?」ってイラッとしてくる感じでね!
社会人になった今、きっとそんな男子は若輩者の若造として職場のおばちゃん方に鍛えられてる最中だろうぜ!