十六の一 朱貴、宣戦布告する――趙翼将軍の猛追
戦闘描写あります。お気を付けください。
異変に気づいて、趙翼は手勢を率いて駆けつけたが、既に洞窟は埋まっていた。彼は直ぐに崩れた岩盤の下や、崖などの周辺を捜索させる。
自身は天井と岩塊の間のわずかな隙間を、槍の柄で広げて奥を窺った。
声が聞こえる。必死に目を凝らすと、蝋燭らしい灯りが見え、それに照らされて軍師の貌が一瞬見えたような気がした。幾人かいる。それが、洞窟の奥へと駆け去っていく。
くそっと、顔を上げると、部下が崖の所で呼ぶ。下草が潰され、枝がそこかしこで折れて、何かが落ちて行った跡があった。指差す方を見ると、ずっと下の枝に引っかかって揺れるものがある。朱貴の服の切れ端だと気づく。
朱貴はこの下に落ちたのだ。
ぞっとして遥か眼下を見つめる。聳立する荒々しい岸壁。大地の裂け目を削るように流れる川は深く、速かった。まず、助からない。
だが、竜人の強靭な生命力は、ひょっとしたら彼を生き延びさせているかもしれない。趙翼は配下の武将らに、川の下流を徹底的に捜索するように命じた。
改めて彼は道案内に連れてきた隣村の男に、あの洞窟はどこに通じているのだと問い詰めた。山の祟りを恐れてびくびくしているところへ、将軍の恐ろしい形相に怖さのあまり蒼白な顔を引き攣らせて、しどろもどろにようやく一つ山の向こうの海側へ通じていることを話した。
この山奥にいると分からないのだが、この山の向こうはもう東の海岸へと出るのである。船に乗せられてしまったら、軍師を取り戻せなくなると判断した趙翼は、残りの手勢を連れて山越えを敢行した。
天蓋山脈の山奥で猟をしていた趙翼は山駆けは得意である。飛ぶように山道を走る。部下達は大きく遅れてしまったが、気の急く彼はかまわず単身先行した。
峠を越え、尾根道から再び樹林の中の獣道に入ってしばらくすると、山の匂いに潮の香りが混じりだす。うっそうと茂る木々の間の粘土道を駆け下って突然、視界が開けた。
崖下の岩の転がる砂浜を、男達の一団が渚に泊めてある船へと向かっていた。細い水の流れがあり、洞窟は丁度この足下に開いているらしい。
男達の間に、縛られた軍師が抱えられている。女と子供もいた。崖を回っている余裕はない。趙翼は、浜辺に身を躍らせた。
***
玲爽を手に入れ、ひょっとすると朱貴も倒したかもしれず、全て計画通りに事が進んで、秋蓮は満足だった。これで、兄様の気も晴れるだろう。
そこへ、空を飛んで、男が降り立った。黒金の縁のある黒い甲冑を単衣の上に着込んだ上背のある逞しい狼人で、黒い毛並みの顔は精悍だった。眼光鋭い目を怒りにらんらんとさせて、刀を抜く。
「貴様ら、何者だ! 丞相を放せっ! 放さなければ、全員ぶった斬るぞっ!」
だが、秋蓮は冷ややかにせせら笑った。圧倒的優位を確信している。
「ずっと警護についていた男だね。よくもここまで来れたもの。褒めてやるわ」
趙翼は女がボスらしいと解って、女に向き直る。
「女、何者だ?」
何処かで見たような顔だが、思い出せない。
「私は秋蓮。秋楊の妹よ。いつぞやは、兄様がお世話になったわね。借りを返してやるわ。やっておしまいっ」
総勢十二人、何れも手練の男達が得意の武器を手に襲い掛かる。動きも速い。
趙翼は鬼神のように刀を振るって暴れまわるが、さしもの彼も苦戦する。そのうちにも女と子供は玲爽を連れて船へと向かった。
圭把の肩に抱えられた玲爽が身を捩る。口に含まされた布の塊をなんとか吐き出すと、
「趙翼殿!」と、叫んだ。
突っ込んできた一人を斬り伏せ、返す刃でもう一人の腕を斬り落としながら、
「軍師殿! 今、お助けします!」
趙翼が叫び返す。
「朱貴様は? 朱貴様は、よもや……」
朱貴の姿がないことに、不吉な予感を掻きたてられる。
趙翼はまた一人の胴をまっ二つにしながら、
「朱貴殿は川に。大丈夫です。今、お捜ししてますから」
と、答える。
返り血と己に受けた傷から噴き出す血で黒い毛の全身を朱に染めながら、それでも趙翼は敵を斬り倒し、斬り伏せ、砂浜を玲爽を追って走った。鎧はずたずたに裂け、砂浜に残る足跡は血にまみれている。背後には、彼に斬り倒された男達の屍が続いた。
趙翼の凄まじい奮闘猛追に、恐れをなした秋蓮は船へ急いだ。
玲爽が激しく身もがき、圭把の足がよろめいた。どさりと砂浜に落ちる。
圭把が拳を鳩尾に打ち込み、ぐったりした軍師を抱え上げるのを、趙翼は最後の敵を屠りながら見た。
秋蓮はもう船に乗り込み、圭把も走り出す。
圭把は意識のない玲爽を船に放り込むと、自身も飛び乗って弓を取る。
追いすがってくる趙翼にきりりと弓を引き絞り、矢を放った。
矢は趙翼の右肩を射抜く。圭春と船頭は、その間にも船を岸から離そうと急いで櫓を漕ぐ。
趙翼は矢も抜かずに、海へ駆け入った。矢は次々と彼を射抜く。それをものともせずに、趙翼は追った。
命に代えても軍師を守る。彼の中にあるのは、この一つだけだった。
矢を突き立て、海の水を自らの血で赤く染めながら、なおも船へと泳ぎ迫る狼人を見て、秋蓮は心底恐怖に震えあがった。
「圭把! 早く! 早く、あの狼を殺しておしまいっ!」
その叫びに、意識を失っていた玲爽が気づいた。
ぐらっと船が傾いだ。血のりにべったりと濡れた手が、船ばたにかかる。
満身創痍の武将は、矢を立てたまま船べりに身を上げた。
圭把が斬り捨てようと剣を振り上げた。
玲爽は後ろ手に緊縛された身体ごと圭把にぶつかっていく。
よろけた彼は、叫びを上げて船べりへ倒れた。
趙翼がその首を抱える。
ごきりと、嫌な音がした。圭把の体はずるりと海に落ちて沈む。
船の上に立ち上がった趙翼の胸に、しかし、剣が深々と埋まった。
「趙翼殿!」
玲爽が悲鳴を上げる。
秋蓮は冷酷な笑みを浮かべて、剣を引き抜いた。
趙翼の胸と口から鮮血が噴き出す。
趙翼はそのまま仰向けに倒れた。船べりを越え、海へと飛沫をあげて落ちた。
急いで玲爽が船べりから身を乗り出して見ると、ぼこっと真っ赤な血が大量に浮かぶ。
「趙翼殿! 趙翼殿!」
叫ぶ玲爽を、圭春が船の中へ引き戻す。海に飛び込まれでもしたら困るのだ。
海の中から黒い手が伸びて、なおも船べりを掴んだ。
ぎょっとした秋蓮は、その指を剣で切り落とす。
縁に血まみれの指を残して、手が沈む。
玲爽は圭春を振り切って、船べりから赤く染まった海に叫んだ。
「趙翼殿! 『桂』へっ! 桂京に戻って、皆に伝えてください! 朱貴様に伝えてください! どうか、死なないでっ! 私も、私も決して死にません! 死にませんから!」
海面は、ぼこっぼこっと血を噴き上げながら波打つ。玲爽は堪えきれず、わああ! と、声を上げて泣き伏した。




