十五の六 秋蓮の罠――圭春
だいぶん上流へ深く入ってきたと思われる頃、微かな声を聞いて朱貴が足を止めた。見ると、子供がうずくまってうんうん唸っている。見たところ、まだ十ぐらいか、服はぼろぼろで顔も手足も汚れきっている。
玲爽が子供に、「どうしたのですか」と、優しく声をかけた。男の子はお腹を押さえ、
「あの実を食べたら、お腹が……」
と、指差す。細い葉を茂らせた潅木で、小さな赤い実がいっぱいついていた。
「ああ、これは食べられないんですよ」
おいしそうに見えるが、毒である。ひどくはならないが、腹を下すぐらいの悪さはした。朱貴に荷を降ろしてもらって、薬を出した。旅先の用心に一通りは用意している。
「これを飲んでごらんなさい。すぐに直りますから」
竹筒の水と一緒に含ませてやる。暫く様子をみてやるうちに、腹の痛みが引いてきたらしい。子供の顔が明るくなった。男の子の名前は圭春と言った。
圭春は玲爽の服の端をぎゅっと握って、
「お兄さんはお医者様なの?」
と、訊く。非神仙のところで、医術も学んでいたから、「ええ、少しは覚えがありますよ」と答えてやる。
「おっかさんが怪我して動けないの。どうか、診てください」
圭春が必死の形相で頼んできた。どうやら、たまたま山に入っていたところへ、例の隕石で大怪我をしたらしい。それを聞いて、人のいい玲爽が断れるはずがない。
「解りました。案内しなさい」
と、立ち上がる。必要なら隣村へ運んでやってもいい。
「まだ腹が辛いだろう。おぶってやろうか」
朱貴が親切に圭春へ手を差し出したが、圭春は怖そうに見上げると玲爽の後ろに隠れてしまった。
「やっぱり、嫌がられるなあ」
自分の鱗のある腕を眺め、朱貴は苦笑いした。全てを受け入れ、慈しんでくれる玲爽と一緒にいるせいで、このところ自分の異形を忘れていたが、世間の反応はこの子供と同じなのだと改めて思い知らされる。
子供は玲爽の服をしっかと握ったまま、山道を案内した。道々、村の生き残りは、彼と母親だけらしいこと、両親と彼が山に入っている時事故に逢い、父親は死んだこと、母親は重傷で動けなくなり、それから彼が木の実を集めたり小さな動物を捕まえたりして、母親と自分の飢えをしのいでいたことなどを、ぽつぽつと話す。優しい玲爽はすっかり同情してしまった。
渓流の横の崖に洞窟があり、その中に母親が寝ていると言う。圭春が朱貴に脅えるので、彼には洞窟の入り口で待ってもらい、玲爽が一人で奥に進んだ。
洞窟は暗かったが、子供は玲爽の服を掴んだまま、たったと駆けて行く。
随分深いな、と思った時、大きな音とともに、背後の岩盤が崩れた。土煙が舞い、闇に閉ざされる。
ぎょっとして振り返ると、通ってきた道が岩で塞がれていた。
「朱貴様っ!」
君主の身を案じて塞いだ岩へ駆け寄ろうとした背に、鋭利な刃物を突きつけられて身を強張らせる。闇の中から数人の男が現れて、手際よく後ろ手に縛り上げられてしまった。
ぼっと蝋燭の火が灯り、明かりの中に白く美しい女の顔が浮かんだ。女はつかつかと近寄ると、蝋燭の灯りを玲爽の顔に近づける。
「ほんと、きれいな顔。憎らしい」
女の妖艶な貌が憎悪に歪む。
秋蓮であった。玲爽の性質、興味を調べつくした彼女は、彼ならきっと飛びついてくるだろう関心の対象を演出したのである。そして、旅人を装った手の者に酒場を張らせ、虎勇に伝えた。果たして、それを聞いた玲爽はたちまち旅に出てきた。
だが、まさか君主まで一緒についてくるとは思わなかった上に、余計な道草ばかり食う。その上、目の前まで来て温泉宿に逗留し始め、秋蓮は苛々した。密かに警護がついているらしいとの情報も入ってくる。
「いっそのこと、朱貴も一緒に殺ってしまったら」
間諜組織圭郎党を引き継いだ圭把がぎらぎらした目で提案した。圭審の弟で、朱貴一党は兄の仇と恨んでいる。冷静な兄とは違って、やや感情に走るきらいがあった。
「いいえ、あくまでも狙いは、玲爽一人に絞る。欲を出すと失敗しやすいし、それに朱貴は兄様の手柄にしたい」
秋蓮はきっぱりと言った。
その玲爽をやっと手に入れたのだ。これまでの長かったこと。秋蓮は悦びに酷薄な笑みをにっと浮かべた。その時、崩れた岩の向こうが騒がしくなったので、女は男達に合図を送る。
男達は玲爽を軽々と抱えると、洞窟の奥へと走り出した。圭春も一緒に横を走る。ちらりと玲爽に向けた視線は、子供とは思えないほど冷たく小狡い。圭春は圭審の息子だった。
「朱貴様っ! 朱貴様っ!」
声を限りに叫んだ口に、布を押し込められる。声を封じられもがきながら、玲爽は悔しがる。全てのからくりが解けた。隕石など始めからなかったのだ。彼らが川に毒を流し、罪のない村人を皆殺しにし、噂をまいたのだ。彼を朱貴から奪うために。『桂』国から軍師を奪い、滅ぼすために。
なんと残忍な、なんと酷い……。朱貴様は大丈夫なのだろうか。あの岩の下敷きになっていやしないだろうか。玲爽の思いは乱れ、不覚にもぽろぽろと涙が零れ落ちた。
***
相手が子供だっただけに、朱貴もまるで疑わなかった。いつもなら、どんな時でも玲爽の傍から離れないのに、婦人の治療ともあってつい遠慮してしまったのだ。
洞窟の中の入り口近く、壁に背を預けて玲爽の戻るのを待つ。洞窟の外は昼の明るい陽光が夏の青々とした雑木の葉を輝かせ、高く青空を鳥が鋭く鳴いて飛ぶ。はるか崖の下の渓流が岸壁を深く抉りながら勢いよく流れる、ごうごうと轟く音が聞こえる。
ふと、足下を緑色のとかげが数匹、慌しく日差しの中へ飛び出して行った。こうもりの群れが、ぱたぱたと奥の暗闇から現れ来る。背を浮かした朱貴の鋭い嗅覚に、微かな火薬の気配。直後、轟音とともに、洞窟の天井が落ちてきた。
岩盤の下敷きにならなかったのは、ひとえに朱貴の並外れた反射神経のおかげだった。しかし、転がり落ちてきた大岩に頭部を強打されて、朱貴は崖から転落する。斜面に生える楓の枝を折り、かずらを引き千切り、突き出た岩角に当たる。彼の体は大きく弾み、泡立てて流れる急流に飲み込まれた。




