十五の五 秋蓮の罠――山の麓の村で
北の俳県でも夏は一時猛暑となるが、この辺りまで南下すると日差しがずいぶん強い。峠を越えて陳村へ向かう山道は、うっそうとした木々に囲まれて、甲蝉が夏の賛歌をうるさいほどに歌っている。
峠を登りきったところで、玲爽は休みを取った。視界を遮る木々の壁がなくなり、登ってきた山々に挟まれるように広がる里が青々と見晴らせた。吹き渡ってくる風が気持ちいい。夏用の薄い衣服が汗で張り付いている。その襟を広げて、吹き出る汗を拭った。
「大丈夫か? 少し、顔色が悪いようだ」
朱貴が心配して言う。心配するくらいなら、昨夜ぐらい控えてくれればいいのにと思いながら、顔では笑顔を作り、
「葉の色が映っているのでしょう。大丈夫です」
と、答える。ここで身体の不調を悟られたら、また陳村行きが遅れてしまう。
しかし、正直、暑さがいささか応えていた。斐神仙のもとで修行を重ねた身体の調整能力でも消化しきれない。温泉宿での休みなく続いた情交が彼の体力を奪っていた。それでもけろりとしている朱貴の体力には恐れ入る。
広げた襟からのぞく肩に鮮やかな赤い痣をみつけて、朱貴はどきりとする。昨夜、彼がつけたものだ。白い首を見つめていると、どくんと欲情がこみ上げてくる。
以前は、これほどではなかった。健康な青少年として人並みの欲望はあったが、自制にも自信があったし、もっと他に関心を向けることが多かった。
それが、玲爽を得てから、すっかり変わってしまった。絶えず欲情しているような気がする。対象は玲爽に限られていた。玲爽といつでもどこでも、一日中交わっていたいと思う。
本音を捜せば、そこに彼の全てを喰いつくしたいという激しい欲望が潜んでいることを知る。竜人の、なんとおぞましくも浅ましい性であろうか。
少しでも涼を取ろうと剥きだされた首は、男と思えないほど繊細な線を描く。すっと顔を下ろしその首に口づけようとした時、玲爽が立ち上がった。
「参りましょう。ぐずぐずしていたら、山道で夜を迎えてしまいます」
緩めていた衣服を直し、僅かな身の回りの荷物に手を伸ばす。その荷を朱貴は黙って取り上げ、再び自分の荷と一緒に背負った。こんな荷物など物の数ではないことを、玲爽も知っているので、君主に素直に感謝の視線を送る。
道は麓の村へと下りが多くなるので、楽になるはずだ。村に着けば、陳村はひとつ隣。既に彼の関心は、隕石のことで一杯らしく、脚の運びも速くなっていく。朱貴は空から落ちてきたたかだか石ころ一つ、何がそんなに面白いんだろうと不思議だった。
麓の村に着いた玲爽は、借り受けた小屋で旅装を解くのも惜しんで、村の人々に隣村の様子を聞いて回った。近くに温泉も出ているので、ひょっとしたら隕石ではなく、火山の所為ではとも考えられた。素朴な村の人々は、山の祟りと信じきっているらしく、誰も陳村やその近辺さえにも足を向けようとはしなかった。
陽が落ちて、隣の家から夕飯を分けてもらって、支度して待っている朱貴の所へ戻ってきた玲爽は、もう心ここにあらずという状態だった。
主君が菜粥汁をよそって渡してくれたのにも気づかずに、無意識に受け取って、
「あれから、山は一度も火を噴かず、音鳴りもしないようです。川の水も熱くならないそうですし、魚も浮いてこない。ですから、やはり火山活動の所為ではありません。きっと隕石です。それとも、もっと別の驚くような現象かも」
と、嬉しそうに目をきらきら輝かせる。
「明日は早くに出掛けましょう。その山に、登らなければなりません」
手をつけないまま椀を置いて、そわそわと立ち上がろうとする。
「まずは、食べろ。腹に力が入らなければ、何もできぬぞ」
朱貴は苦笑した。そこで、彼は初めて気づいたらしく、
「申し訳ありません。朱貴様にこんな事をさせてしまって。後は私がやりますから」
と、慌てて汁汲みを取ろうと手を伸ばす。
「良いから、食べろ」
こんなに落ち着かない玲爽を見るのは初めてだった。毅然たる沈着冷静な軍師振りはすっかり返上して、本来の年齢に相応しい、或いはもっと年下の少年のようにすら見える。きりりと厳しい軍師の彼も、妖しく乱れる妖艶な彼も好きだが、こんな玲爽もとても可愛いと、朱貴は目を細めて眺めた。
翌朝、まだ暗いうちに出発した二人は、死に絶えた陳村を薄明に過ぎた。人の営みが突然止まったかのように、生活の痕跡を残したまま誰もいなくなってしまった村は、とても悲しかった。
村の横に川が流れる。川辺には洗い場が作られ、周囲には段々畑が並び、村人の暮らしの工夫が伝わる。だが、今は、畑も荒れ果て、枯れかけた麦を押し退けて伸びる夏草がもの寂しい。
玲爽達は川に沿って、山に入る。川の水質を変えたということは、隕石は川の中か、その直ぐ近くに落ちたはず。川は直に流れの速い渓流となった。次第に渓流の両側に切り立った奇岩がそそり立つようになって、沿うように細い山道がうねりながら続く。




