十三の一 秋楊、出る――琢県の高善
先行の五将軍が峠で破れ、郭崔の五万の主軍が河戦で惨敗、まさかの百狐の百妥は眷属もろとも全滅したとの報に、『朝』の秋楊は顔色を失った。碩鳳が冷たく嘲笑うであろう顔を予想して、わなわなと身を震わせる。
ついに、彼は自ら佑県に乗り込むことにした。出発に先立って、手塩に掛けて組織してきた間諜を放つ。まず、敵を知ること。これが兵法の基本である。
百妥を討って、もはや阻む者のなくなった朱貴軍は、勢い盛んに青兎平原を渡り、桂京の近くまで踏み迫ってきていた。
佑県の住民は県主郭崔の横暴な悪政に疲弊しきっていたから、善政の名高い俳県の新県主朱貴になびき、これまでの民百姓を労わり、町村を荒らすことのない節度ある行軍を歓迎した。
朱貴軍は、県都桂京の都城を睨む平原に陣営を構え、戦場となる周囲の町や城内の民人の疎開が済むのを待っている。
主戦力の殆どを失い、手勢をまとめて城内に籠もった郭崔は、明日をも知れぬ思いで兢々と震えていたので、秋楊の到着を狂喜して迎えた。贅を尽くし全力をあげて歓待しようとする郭崔の宴を早々に引き上げて、至れり尽くせりの客室で戻ってきた間諜の報告を受けた。
朱貴軍の全容及び、これまでの戦の詳細をことごとく聞いて、秋楊は唸った。朱貴を始めとする常軌を逸した豪傑揃いはともかく、たった八千しかない軍力で、五万を越える大軍を破ったのは、ひとえに軍師玲爽の采配による。
あらかじめ地勢を熟知し、相手の出方の全てを読んで、先手先手を迅速に打ってくる。とりわけ干恢の敵を欺く逆手の計を利用して、そのまた逆を返す謀略は、秋楊にとって小面憎いほどである。
「裏切り者の秦楷が絶賛するのも、無理もないか。だが、」
と、秋楊はにやりと暗い笑みを浮かべた。
「急ぎすぎたのが弱点よ。なるほど、戦略の知恵は良く回るのかもしれぬが、やはり、まだ、若い」
くくく、と嗤う主人の前に、間諜の頭はじっと顔を伏せて膝を突き、次の命を待った。
***
琢県の県主高善は、朱貴軍に送る次の輜重の手配を済ませると、執務室に茶を運ばせてしばしくつろいだ。
高善の長男である宰相の高亥が、
「こちらから援軍を出さなくて、本当に宜しいのですか? なにしろ、相手の佑県は豊かな国力を持ち、軍事力もかなりのものです。正直、俳県のお粗末な兵力ではとても勝負になりますまい。まして、朱貴殿は県主になられてまだ日も浅い。父上、私が再三申すのは、俳県が友好国だからだけではありません。勢力を拡げている俳県が佑県に吸収されると、我ら琢県にも大きな脅威となるからです。まだ、遅くはありません。父上、ご決断を」
と、迫る。
「心配はいらぬ。朱貴殿には軍師がついている。必要があれば、きっと要請してこよう」
高善は鷹揚に一蹴した。
「玲爽先生ですか。確かに、彼は稀に見る知恵者。天下一の軍師でもありましょう。しかし、彼にも奇跡は起こせません。あの圧倒的な兵力の差は、たとえ彼が神であろうとも、いかんしがたいはず。手遅れにならないうちに手を打たないと。でないと、父上のお気に入りの玲爽先生のお命も危うくなりましょうぞ」
高善は、きっと強い視線を息子に向けた。
「わしに恥をかけと云うのか。必要もない大軍を起こして、玲爽殿に笑われたくはない。彼が自軍で足りるというからには、それなりの勝算がきちんとあるのだ。彼は根拠のない妄言は、決して言わない。お前はもっと、人間の人となりを見抜く力を養わねばならん。それに、玲爽殿は、大軍が妄りに動くと、沿道の者が迷惑をするとも云うておったぞ」
高亥は面を伏せて、黙った。
「我々は、約束通り、きちんと輜重の援助をすればよいのじゃ。そして、敵の奸計に嵌まらぬように心しておることだな」
「それも、玲爽先生が?」
頷く父に、
「なんというお方だ。まだ、少年と云っていい年なのに」と、唸る。
「彼を手放した事は、我が琢県の一大損失でしたな。せっかく手元に来たのに、たった一ヶ月半で去ってしまった。なぜ、もっと強固に引き留めなさらなかったのです」
愚痴る息子に、高善は苦笑を浮かべた。
「それは無理というもの。彼は、いわば、天の遣わした特別な者だ。彼をいつまでも引き留めて置く事は、誰にもできぬよ」
「朱貴殿にはできているではありませんか。朱貴殿はできて、父上は駄目ということはないはずです」
「高亥よ、それこそ、無理というものだ。玲爽殿が朱貴殿のもとにいるのは、彼の妻同然だからじゃ。あんなに愛し合っている二人の仲を裂くことは、わしにはとてもできぬよ」
宰相は絶句して、にこにこと笑う県主の顔を見つめた。口をぽかんと開いたまましばし言葉を失っていたが、いきなり顔を真っ赤に染めた。
「そ、そんな、仮にも、宰相で、ぐ、軍師なのに……!」
真っ赤になって焦りまくる息子を、高善はやれやれと首を振って眺めた。
「真面目で堅いのも良いが、お前は少し過ぎるようだな。もう少し、柔らかくならねば、わしの跡を取って県主になった時、苦労するぞ」
高亥はまだ赤い顔をむっとさせた。
「私は宰相で結構です。県主の器でないことは、私自身がよく知っています。次男の高礼を跡継ぎにしてください。あの子なら、県主と宰相のいかがわしい関係だって何だって、平気で受け止められるでしょう。あの子はいい県主になります」
「しかし、高礼はまだ、十三だ。それでは、わしはまだまだ隠退できぬと云うことか」
「そういうことです、父上。ますます、ご健勝でいてください」
茶を飲み干して高亥が立ち上がった時、玲爽からの使いだと云う者が来た。
噂をしていたところだったので、二人は顔を見合わせる。使者は、初めて見る目付きの鋭い男だった。
「いつも来る果門はどうしたのだ?」
当然のごとく、高善が訊いた。
「彼は軍師の命を受け、北西の孟董殿の所へ向かいました。ご存知のように、彼なら遠距離でも、驚くべき短時間で走破できますから。雛県に対して、策をお与えになさるのでしょう」
いかにもありそうなことなので、高善もふむふむと頷く。使者は果門の従兄弟の果英と名乗り、懐から玲爽の封書を出した。
「ご心配くだされた蓋青江も、瑛林も、無事突破しまして、敵には大打撃を与えました。今は、桂京を臨みながら、決戦の準備を致しているところ。取り合えず、ご報告をと、果門に代わりまして、使いにたちました」
「ほれ、わしの言うた通りじゃろう。玲爽先生がついておられる限り、なんの心配もありはせん」
高善が宰相に、嬉しそうな顔を向けた。
封書には戦いの経過と結果を簡潔に、そして輜重の礼が篤く述べられていた。面も書面も確かに玲爽本人の筆で、高善達も疑うべきところは何もなかった。
それもそのはずで、これは事実、玲爽自身が書いたものなのである。それを届ける為に走る果門を途中で待ちうけ、これを殺害して奪ったのだ。
果英と名乗る男こそは、秋楊の子飼いの間諜、圭審だった。




