九の六 北部遠征――氷白山制覇
三日後、虎勇と厳牙は冷舟の強弩隊を含む大隊を引き連れて、氷白山へと進軍した。既に深く積もった街道の雪を蹴散らし踏みしだき、装備を凝らした身を吹きすさぶ風にさらす。凍った枝を伸ばす裸木の列の間を、二千の兵は寒々とした顔でみじめそうに進んでいく。
冷舟の部下達は強弩を肩に、こちらは黙々と進む。寒気を防ぐ長い体毛に埋もれた顔は表情も見えず、沈黙は不気味であった。
元気がいいのは熊のような虎勇とワニ族の厳牙の両将軍。寒さも堪えないのか、意気なお盛んに気鋭を飛ばし、大声で激励し、足の遅い軍兵を叱咤して賑やかである。もちろん敵に悟られないようにこっそりと進軍しようとは、はなから考えていない。両将軍ともに策や小細工を弄するよりも、力勝負の肉弾戦が好みなのである。
当然ながら、狭い林道に入った所で、賊の襲撃に出会う。動揺する兵士達を励まして、両将軍は自ら先頭を切って乱戦に突入していった。虎勇も厳牙も相手が巨大な手長熊であっても、引けを取らない。嬉々として戦闘に埋没する。その意味では両者とも、部隊の指揮官としては実に不向きであった。
乱戦に突入する前に、冷舟の強弩隊はいつのまにか姿を消していた。
白兵戦が入り乱れ、戦闘が街道から林道の奥へと長く散り、一人の賊に数人掛かりの軍兵が苦戦を強いられていた。
人々の中では猛者達とはいえ、虎勇や厳牙のような化け物じみた体力や強力を誰もがもっているわけではない。氷白山の手長熊の見上げるような巨大な体躯と、氷岩も砕く長い強靭な腕に振り回される破壊的な斧は、恐ろしい脅威であった。
斧の一振りで、とかげ族の胴は寸断され、カルタス族の首は飛び、ソル族の体がひしゃげた。血潮が飛び散り、阿鼻叫喚の地獄が山道を埋め尽くす。白い雪景色はたちまち赤く染まっていった。
その時、雪風を唸りをたてて切り裂きながら、重い鉄の太い矢が手長熊の胸に突き刺さった。鋼鉄のように堅い頑丈な胸板を貫いて背まで抜ける。手長熊はどうっと雪煙を立てて倒れた。鉄棒のような太い矢は、樹間から次々と飛来して賊を襲った。
冷舟の強弩隊である。あらかじめ、冷舟と玲爽の間で策を立ててあったのである。賊達は新たな強力な敵の出現に動揺した。しかも、敵の姿はまだ見えない。
しかし、彼等を襲う強矢は冷舟の一族のものと思われた。崩れだす手長熊賊。勢いを盛り返す軍兵。ますます暴れまわる虎勇と厳牙。戦局はいっそう混迷化し、修羅戦に突入していく。
累々と横たわる死者の上に、雪は敵味方の区別無く降り注ぎ、無残な姿を覆い隠していった。
***
その頃、朱貴、趙翼の俳県の精鋭部隊と秦楷将軍率いる中隊は、尾根伝いに激戦区を避けて、地理に詳しい冷舟の案内で賊の要塞へと迫っていた。
秦楷将軍は当てにならない副官達には本陣を守らせ、日頃から見込んでいた精鋭のみを手ずから選んで連れて来ていた。前回の法玄の不手際の雪辱もあるので、将軍の意気込みは悲壮でさえあった。
賊の主力部隊は、未だ華々しい戦闘の続いている林道に出払い、官軍に押され気味の戦場に集中しているので、尾根からの接近には警戒が緩んでいた。
突然、砦の中から火の手が上がり、思いがけない方角からの襲撃に、要塞の中は狼狽え、大混乱となった。次々と燃え上がる火に照らされて、賊の一味が逃げ惑い、女達が悲鳴を上げる中、趙翼・秦楷連合軍は砦の中に乱入し、賊どもを片っ端から伏せていく。
朱貴は自軍を趙翼の指揮に任せ、自身は始めから桂獰目当てに突入した。炎に巻かれて混乱を極める群れの中に、朱貴は目敏く桂獰の姿を発見した。
彼のほうも朱貴に気づき、物凄い形相で迫ってくるのを見るや、脱兎のごとく逃げ出した。それこそ、体裁も何もかもかなぐり捨てて、尻に帆をかけて転がるように駆けて行く。
それを追う朱貴に手長熊賊が必死の覚悟で飛びかかってくる。剣を振るってそれらを叩き伏せているうちに、桂獰の姿は右往左往する人々の影の中に消えてしまった。
「くそ! 桂獰の奴めっ!」
地団駄踏んで悔しがる朱貴。その剣幕に賊達も思わず後退った。
統率が崩れ、恐慌に陥って、烏合の集団と化した賊は一溜まりもなく、秦楷達は易々と手長熊の首領を捕虜にした。天然の要害を誇る難攻不落の要塞は、雪雲重く垂れ込める暗い空を焦がして赤々と燃え上がる。
これに気づいた戦闘中の賊達は、一様に大きくどよめいた。虎勇達も気づき、歓声を上げる。それを裏付けるように、秦楷・趙翼将軍が軍を連れて山を下ってきた。連合軍に挟まれ、逃げ場を失った手長熊の残存部隊は、ついに彼等の元に降った。
***
こうして、苦戦を覚悟した氷白山の掃討は、あっけないほどの速さで終結したのである。朱貴・秦楷連合軍は、首領を始めとする多くの捕虜を引き連れて、軍師玲爽の待つ北平の町に戻った。玲爽は本陣の門まで迎えに出ていた。
朱貴は軍師に一つ頷くと、彼を守るために残っていた白石の労をいたわる。玲爽は慣れぬ雪山に疲労している将兵を思いやって、早々に軍を解かせ、用意していた酒宴を開いた。将兵達は凍てついた顔を喜色に輝かせて、我先にと酒席に入っていった。
秦楷将軍は朱貴に戦勝の祝詞と礼を述べると、趙翼とともに酒席に下がる。趙翼とは今回の作戦で同道して、同じ狼人種の親和感からかすっかり意気投合していた。
武力も胆力も群を抜いて優れているのに、謙虚で実直な趙翼の性格が、朝の都の老獪さばかりが育まれる、権力と汚職と駆け引きの渦巻く世界に浸かっていた秦楷には、心地良かったに違いない。




