九の四 北部遠征――朱貴軍到着
里に駐屯しながら龍蘭の帰りを待っていた秦楷将軍は、早朝、ぼろぼろになった部隊の残骸を迎えた。
法玄の部隊は、兵士の損失はあったものの、比較的軽度で早々と戻ってきた。その報告を受け、部隊の労をねぎらって、割り当てられた宿舎へと引き上げさせてさらに待った頃、丙郁が部隊の生き残りを纏めてたどり着いたものである。
丙郁を始めとして負傷していない者はなく、鎧も衣服も痛ましいほどに裂け、泥だらけとなって凍えた身を引き摺ってきた。
「龍蘭殿はっ?」
叫ぶように問う秦楷に、
「深入りした仲間を追って、山の奥へと入られ、行方がしれません」
と、答えて項垂れた。
秦楷は言葉も無く唇を噛み締める。丙郁が宿舎に引き取っても、彼は一人、広間に残っていた。
立ち上がる気力も失われていたのである。龍蘭を頼みの杖としていたのだ。その龍蘭の失敗で朝都の兵士等は不安を覚えるであろうし、武将達は朝都へ戻ろうという声をこれまで以上に高めることであろう。
彼等をどれだけ抑えていられるか、正直、秦楷には自信をもてなかった。副官が軍の反乱を組織するかもしれない。今の秦楷には、朱貴の到着を首を長くして待つしか術がなかった。
果門は龍蘭出陣の朝に到着したばかりであったが、この悲報を知ると、身を休める間も惜しんで朱貴らのもとへと走って行った。
その朱貴の軍は、北平の二つ手前の青常まで進んでいた。朱貴は果門を自分の天幕の中に迎えて話を聞いた。玲爽が果門来たるを聞いて、私幕で聞くようにと助言したのである。彼は果門の戻るのが早いことから、その内容を既に察していた。
「では、龍蘭は……!」
朱貴は言葉をとぎらせた。そして、玲爽を振り返る。玲爽の顔色が青いのは、心配のせいばかりではなかった。食欲が落ちていた。体の線はいっそう細くなっている。だが、彼は自分の不調など眼中になかった。
「龍蘭殿は、貴方に会ってから出陣されたのですね?」
質問というより確認に近い。
「出発前でしたので、慌しく短い時間しかありませんでしたが、玲爽殿の助言は確かにお伝えしました」
果門の肯定に、彼は心なしほっとしたようであった。朱貴に向かい、
「龍蘭殿のことです。むざむざ命を落とされることはありますまい。しかし、窮地にあることは、確かです。それに、秦楷殿の立場も苦しいものとなっているはず。急がねばなりません」
「秦楷は兵を纏めて、都に戻るかもしれんぞ」
朱貴が難しい顔で言った。
「いいえ。秦楷殿にも、武将としての立場があります。功なくして戻ることは、今後の顔が立ちますまい」
玲爽はあくまでも鮮やかに分析してみせる。
「分かった。行軍を急がせよう。休まずに進むぞ。よいな」
玲爽へ向けた言葉は、体調のすぐれぬ彼への深い思いやりを含んでいた。
夜をも継いで進んだ強行軍は、七日の日程を四日で走破した。朱貴の到着に喜んで、宴を張って歓迎を表そうとする秦楷に、彼は言葉少なに断って割り当てた自分の宿舎に招いた。
北平の町といっても、僻地の貧しい場所である。町としても決して大きくはない。彼は、民家を取り上げるのを避け、大きな本堂を持つ寺を駐屯の場所に選んだ。兵卒達は氷白山生まれの冷舟の指導でテントを設営している。テントといっても、獣皮を張った保温に優れたもので、解体組み立てが容易く移動が楽な寒冷地用のものであった。
秦楷が訪れると家令の武官が案内した。寺の宿坊を将軍達に割り当て、武官たちに配していた。軍間として本堂を使い、彼自身はその奥の室を使っていた。部屋の中は既に暖かく暖房され、彼が入ると朱貴は立って迎えた。部屋の中は彼一人であった。
異相の竜人と勇猛な狼人が対峙した。背丈もほぼ同じくらいである。威圧的な両者であったが、部屋の中は一種穏やかな雰囲気に満ちていた。
秦楷は、まず、朱貴軍到着の歓迎の意を述べた。次いで、龍蘭惨敗と消息不明の件に触れる。失敗の原因は指揮統率の不十分な自分の兵にあると詫び、龍蘭の無事を心から願っている様子に朱貴も心を動かされた。
「龍蘭も冬が来ることを見て、焦ったのです。我々の到着まで待てなかった。時期尚早だったのです」
朱貴は自分の感想を告げた。秦楷に虚飾や駆け引きは無用であると察したのである。
「しかし、恥ずかしながら、我が軍の士気は悪く、彼が動かねばどうしようもないところまで来ていたのです」
秦楷もありのままに述べた。
「当然でしょう。腹中に虫がいれば」
朱貴はさらりと言った。秦楷はじっと彼の顔を見てゆっくりと頷いた。
「それにしても、なぜ、冬を迎えるのに北へ兵を進ませるのですか?」
秦楷が寒冷の中を推してここまで来たのは、朱貴の要請があったからなのだ。
「まさか、私の兵を全滅させるおつもりではありますまい?」
「私は、それほど非道ではありませんよ」
朱貴が答えると、隣室から、
「私がお話しいたしましょう」
と、声が掛かった。
隣室を隔てる扉が開いて、女人かと思うほどの美しい少年が現れた。地味な文官の服を艶やかに着たほっそりした若者は、深々と一礼して名乗った。
「朱貴様の軍師を致しております玲爽と申す者。お見知りおきを」
「貴方が、玲爽殿……」
秦楷は眼を見張って、端麗な若者を見つめた。龍蘭から度々とその名を聞いていた。これまでの鮮やかな采配手並みは、全てこの玲爽から発したもの。龍蘭が敬意を込めて軍師の名を口にするもので、秦楷は彼がかなり年配の学者然とした謀士と思い込んでいたのだ。これほど若く、美しい男とは……。
「私が、冬季の北部遠征をお勧めしたのです」
玲爽が静かに語った。
「これは、どうしても冬季でなくてはならないのです」
「その訳は?」
「冬場は遠征には辛いもの。しかし、山賊側の方でも、また、食料の乏しくなる厳しい時でもあるのです。里へ下りて民家を襲うのが、冬場に最も多いことがその証拠です。また、氷白山北西部は湿地帯で、夏になると一面泥質となり、歩くのは勿論、船を用いて渡るのも困難な地帯です。冬の湿地が凍りついた今でなければ、軍隊は行軍不能なのです。そして、その湿原の向こうに、北部の山賊を束ねる雲仙の一党がいます。彼を捕らえるか、服従させることができれば、北部の山賊討伐は終わったも同然となるでしょう」
これが秦楷に浸透されるのを待って、玲爽は言葉を続けた。
「そして、雲仙を服するために、氷白山の一党を制しなくてはならないのです。これらを平らげれば、将軍、全ては貴方の手柄となるのです」
秦楷は大きく頷いた。
来た時とはうってかわって、自信を取り戻して帰っていく秦楷を送り出し、朱貴は玲爽の肩を抱いた。
「寒くはないか?」
玲爽も甘えてその胸に頬を寄せていく。その姿態は先ほどの毅然とした軍師のものではなく、朱貴を慕う恋人の姿だった。
「明日、軍議を開きます。氷白山の賊は我々の到着を知ったでしょうが、先の勝利の驕りがあるはず。きっと、甘く見て掛かってくるでしょう。勝機は我々にあります。が、それより早く、龍蘭殿の捜索に掛からねばなりません。きっと、龍蘭殿は無事です。ガルド族は滅多なことでは死にはしません。私は信じています」
朱貴を仰ぎ見た彼の唇を竜舌が塞いだ。玲爽はたわいなく溶かされ、鋭利な頭脳も熱く真っ白にされていく。




