四の二 玲爽の秘密――文官玲爽
朱貴達の誘いを断った玲爽は、じめじめと降る雨の中、県府を重い足取りで出る。
道を変えたい。引き返してしまいたい。行けば何が待っているか知っている。だが、行かねば何が起こるかも判るのだ。
武興のほうは何の損失もない。身分の高さで、全て戯れとして許されてしまう。だが、玲爽は彼の一言で全てを失ってしまうのだ。
県主武興は関都の最も良い場所に、広大な屋敷を構えていた。彼が門に入るといそいそと召使が服の雨を払い、奥の部屋へと案内する。
武興が中で待っていた。ぜいたくに設えた居間である。飾り彫りの椅子にどっしりと落ち着き、玲爽にも座るよう鷹揚に勧めた。
直ぐに円卓の上に酒や料理が運ばれる。武興は上機嫌で盃を傾け料理を平らげながら、料理に手をつけようとしない彼に遠慮せずにどんどん食べろと何度も催促した。
良く手入れされた形のいい口髭が自慢で、いつも無意識に髭を撫でている。『朝』から派遣されてきた生え抜きの官僚で、体格も立派な偉丈夫である。五十一、まだまだ男盛りで、眼光鋭く容赦ない冷酷さも持つ。民人を搾取し、懐を肥え太らせることに生きがいをもっている男だった。
この男が、なかなか油断できない切れる男だということを、玲爽は苦い後悔とともに、身にしみて実感していた。
武興は食後の茶を飲みながら、獲物を捕らえた猫のように玲爽を眺める。手を引いて寝室に連れて行くときも、玲爽は逆らわなかった。
だが、いざ、服を脱がせようとすると、彼は隠し持った短剣を抜いて、武興へ構えた。
「もう、これ以上、私に触れないでください!」
だが、武興は彼の必死の抵抗をせせら笑った。
「ふん、わしを刺せるかな。そんな細い腕、素手で折れるぞ。刺せるものなら、刺してみろ」
と、にじりよる。追い詰められた玲爽は、短剣を自分の首に当てた。
「近づかないで! それ以上近づいたら、自害します!」
「わしに逆らうとは、いい度胸だ。だが、忘れてはいないかな。わしは県主だ。何でも思い通りにできるのだぞ。お前の仲間達を牢に入れるのも、縛り首にするのも、わしの胸三寸だ。わしの一言で首も落ちる。お前が自害したら、あいつらも後を追わせてやろうよ。冥土の入り口で、恨み言でも聞いてみるか?」
玲爽はあまりの言葉に、顔を青ざめ絶句した。
「連中の命など、わしにとっては石ころのようなもの。どうなっても痛くも痒くもないわ。あの連中を飼っておくのは、少しばかり上がった名前と、お前のためだ。そうだ、お前が逆らうごとに、一人ずつ首を落としてやろう。そして、盆に入れて進呈してやろうか」
「ひどい……」
玲爽はわなわなと身を震わせた。酷薄な武興のこと、平気で実行するだろう。武興はにやりと冷酷な笑みを浮かべて命じた。
「仲間の首を落とされたくなかったら、せいぜいわしの言うことを聞くのだな。さあ、服を脱げ。全部だぞ」
是非もなかった。短剣がぱたりと床に落ちる。玲爽は震える指で帯を解いた。
***
夜道を疲れ果てた身体を引きずって、どうにか帰宅した彼は心配して待っていた使用人の綿杉族の夫婦にも口を利かず、まっすぐ部屋に入って扉を閉めた。帳を払い、古い粗末な寝台に身を投げ出すようにして倒れこんだ。
武興は玲爽を好き放題にできた。しかし、彼は黙って耐えるしかない。そして、それは今夜だけで終わるものではなかった。武興は明日でも明後日でも、その気になったらいつでも呼べるのだ。これからもずっと、武興は玲爽を手放す気はないのだ。
悔しくて、悔しくて、情けない。
激しい絶望が彼を浸す。
唇をいくら食い縛っても、歯の間から嗚咽の呻きが洩れ出て行った。
涙があふれて止まらない。
呻きはやが、押さえ切れない咽びになり、彼はついに悲痛な声を放って、泣き続けた。




