四の一 玲爽の秘密――役人になった朱貴
四、玲爽の秘密
官吏朱貴が、俳県の首都関都の役所の一室で、ぼうっと頬杖をついていた。そこを通りかかった、まだ少年といっていい年の若い文官が声をかけた。
「退屈そうですね。朱貴殿」
目を上げた彼は、十六歳の文官に見蕩れてぽかっと口を開けた。
ほっそりした身を渋い灰色の単衣に黒の筒胴を重ねた地味な服で包んだ彼は、しかし、恍惚となるほどに美しかった。
磁器のように滑らかな白い肌に切れ長の紫の目、繊細な輪郭は神の手による奇跡であり、きりっと意志の強い唇は少女のそれのように艶やか。
もう見慣れているはずなのに、顔を合わせるたびに朱貴は見惚れる。
「女官の姿がありませんが?」
辺りを見回した玲爽に問われ、朱貴は締りのなくなっていた口をぎゅっと引き結んで、苦笑いを浮かべた。
「いつものことさ」
玲爽は彼の顔を見ながら、ため息をついた。これで、確か六人目になる。
朱貴は二十四歳、異相である。うねるような黒髪の生え際に一対の竜触角。鋼の刃で刻んだような切れ長の目は銀色で、黒い三日月の瞳孔が走る。男らしい引き締まった口を開くと牙が覗き、先の割れた蛇のような舌が伸びた。肌は青白く、腕や脚に銀色の鱗が光る。
竜人の血を濃く現していたのである。
彼が就任したその日に、女官が辞めさせてくれと半狂乱になって訴えたので、朱貴の女官辞めは有名になってしまった。
女達は朱貴の姿が怖いのだ。化け物だという。
愚かな女ども。彼がどんなに優しい男か見抜けないなんて。
それで、規則だからと、役所では朱貴に女官を宛がい続けた。そうすれば、朱貴の機嫌をとれると言わんばかりに。
愚かな官僚ども。少しも現実の本質を見ようとしないで、表面の取り繕いばかりに右往左往している。彼らの関心は、己の出世といかに利潤を多く得るかだけである。これでは、民人はたまったものじゃない。
「それは、租税の台帳ですね」
手元を覗いた玲爽に言われ、朱貴は、
「そうなんだ。租税徴収の確認を取ろうと」だがな、と、続ける。
「どう見ても腑に落ちない。実際はもっと台帳が多いはずなんだ。だけど、どこを捜しても、みつからない」
「分かりきったこと。役族達の懐に入っているんですよ」
玲爽はしらっと答える。
「しかし、いくらなんでも……。ひどすぎるじゃないか」
「朱貴殿、貴方は、旅を続けて何をご覧になりました? 地に這うような崩れた家屋、痩せこけた人々、病気になっても薬も買えない農民。彼らの貧困が何処から来ていると思います? 私は、山を下りて、まだ、一年余りしか経っていませんが、それでもこの有様を知るには十分でしたよ」
朱貴はむうっと顔をしかめた。まだ若い額に、ぴしりと癇性の筋が立つ。それが、怒気もあらわに唸るように言った。
「役族どもめ。山賊よりも性質が悪い。影でこそこそやるならまだしも、どうどうと賄賂を要求し、横流しに、上乗せ、金でも女でも他人のものなどおかまいなし。鰻のようにのらりくらりと言い逃れて、不正を言い立てれば権力を盾に片っ端から牢にぶち込んでしまう」
大の男でも恐怖に身を竦ませるような形相の彼に、玲爽は微笑んでやんわりと指摘した。
「貴方も、その役人ですよ」
「俺はなりたくてなったんじゃない。させられたんだ!」
思わず大声を張り上げた朱貴を、玲爽は穏やかに眺める。その美貌に寂しげな影が浮かんだ気がして、朱貴は眉をひそめた。
不本意に役人になってしまって以来、なんだか玲爽は元気がない。仕事が忙しくて疲れているのだろうか。
玲爽の職務は簿記で、会計や書類管理一切を引き受ける役職である。天才的な彼の能力は、たちまち重宝がられ、位は下だが、あらゆる書類が回ってくるようになった。
多々ある書類管理を面倒臭がる役族達は、重要書類も何もかも一切かまわず、玲爽に押し付ける。彼は超人的な早さでそれらを処理していくが、それでも毎日目が回るほどに忙しいはず。
朱貴が心配して口を開きかけたとき、玲爽が口調を厳しく改めて言った。
「せっかく集めた台帳です。総計して不足分を出してください。私のほうで、実際に徴収した各戸の税の集計を調べてみましょう。何年か遡って調べれば、よりいっそうはっきりするでしょう。税のごまかしは慣例的に行われていますから、たいてい同じ人物が関わっているはず」
「ええ? 俺がやるのか?」
嫌いな書類処理なうえに、苦手な計算を言いつけられて、朱貴は情けなさそうな顔になった。
朱貴の配下として官吏に組み込まれた龍蘭達は、それぞれのやり方で武興や大臣役族達の汚職や悪行の証拠集めをしていた。龍蘭は警らの手伝いの名目で出向し、刑罰関係を当たっている。
趙翼は農村を回り、虎勇はもっぱら酒場を渡り歩っていた。彼が暴れた民安の飯屋には、その後、謝罪に行き、怪我をさせた長毛族の老人とも見舞いに行って和解していた。彼が飯屋に行くと、とかげ族の主人はいつも鶏の焙った料理を出してくれた。
***
じめじめと雨が降る。晴れればこれからくる夏の季節を予感させるような日差しもあるのだが、今日は少し肌寒かった。朱貴の義弟龍蘭の官舎に朱貴達が集まった。玲爽は書類整理のため、県府に残ると言って、欠席している。
短気な虎勇がばんっと卓を叩いた。酒の壷が倒れ、盃が転げる。だいぶ酒が入り、丸くいかつい虎髭の顔が熟柿のように赤らんでいた。
「もう、我慢できん! いったい、いつまで待ったらいいんだ?」
「そうだ、俺も十分に証拠を集めたと思う。これ以上、何を待とうと言うのだ?」
豪傑龍蘭も、虎に似た見上げるような巨体を窮屈そうに椅子に押し込みながら頷いた。
組織の中に入ってみると、今まで外面でしか判らなかった役人の腐敗が如実に見えてきて、朱貴達の怒りは高まっていた。だが、実質的な実権のない名前だけの官吏では、何の手立てもできず、いつも煮え湯を飲まされるばかりだったのである。
そこで、朱貴達は、玲爽を参謀に汚職役人の証拠固めを推し進めているところだった。
「しかし、玲爽先生は、まだ、うんとは言わぬ。軍師が動かぬうちは……」
朱貴が困ったように言った。
「昨日、税が払えないんで、たった一人の男手がしょっぴかれ、残された母子と年寄りが首を吊って死んだ。家には食べるものも着る物もなかった。その隣では、借金が払えなくて娘を高利貸しに連れて行かれた。それなのに、役人どもは贅沢な服を着て、うまいものを食っている。こんなの、我慢できるかよ」
虎勇が悔しそうに吐き捨てた。一家の働き手が連れて行かれるのを阻止できず、みすみす親子を死なせてしまったことが、悔しくてならない。
「以前だったら、あんな腐った連中、片っ端から蹴散らしてやるんだがなあ」
「それに、不穏な動きもあるぞ」
と、龍蘭が頭を寄せてささやいた。
「なんだか、盛んに徴兵しているぞ。あっちこっちに立て札が立ってるし、税を払えないとか何か理由をつけちゃ、片っ端から引っ張っているみたいだ。さっぱり仕事らしい仕事もない俺達を、こうして置いておくのも、考えてみりゃ、随分、おかしいぜ」
「玲爽先生は、そこのところ、何か言ってなかったか?」
虎勇が朱貴に訊いた。虎勇が玲爽を先生と呼ぶのは、朱貴と違って若干の揶揄がある。
既に伝説と化している斐神仙の一番弟子ではあるだろうが、何と言っても若い。ここに集まっている中で、最も若い虎勇が二十二なのに、玲爽はまだたったの十六。それを義兄の朱貴が先生、先生と師事するもので、苦々しい。
自分は、その玲爽に命のないところを助けてもらってもいるのだが、それはそれで別だと、調子よく割り切っている。
豪勇を自慢にしている虎勇にすれば、華奢な文官肌の玲爽は、男として認める範疇に入らないのだ。
「趙翼、お主、確か先生に何か頼まれて、使いに出なかったか?」
朱貴は一人で静かに酒を飲んでいる趙翼にお鉢を回した。黒い体毛に被われた狼族の趙翼は寡黙である。水を向けなければ、いつまでも黙っているような男だった。
彼は精悍な顔を上げ、
「ああ」と、答えた。
これで十分な答えだと言わんばかりに、再び盃のほうへ俯く。
「何処へ、何を頼まれたんだ?」
虎勇がせっつく。
「隣県へ。書簡を運んだだけだ」
「琢県か? 何か、公用のか? それとも、内密の?」
「そんなの知るか」
うるさそうに言って、虎勇の形相を見、
「県主宛てだったよ」と、付け足す。
「わざわざ、おぬしに頼むくらいだ。内密の他聞を憚るものだろう。玲爽殿は、あそこの県主と知り合いなのかな?」
龍蘭が首を傾げる。
「らしいな。高善殿直々の接待だった」
県主高善の親しげな歓待の中で、玲爽がしばらく逗留していたと聞いた。だが、書簡の内容に関しては、とうとう何も触れなかった。帰り際に、「当てにしていてよいぞ」と、言われたことが印象に残っている。
「どうも最近の玲爽殿は、なんだか、歯切れが悪いなあ。山賊退治で歩っていた頃は、もっとてきぱきと、明快だったのに。賊がころころと策に嵌まって、痛快だったなあ。ところが、今の玲爽殿は、何を考えているのか、さっぱりわからん」
龍蘭が太い首を横に振った。
「そうさ。このままじゃ、身体が鈍っちまう。ああ、ひと暴れしたいなあ」
虎勇がぶんと、ごつい手を振り上げる。
朱貴は、ふむ、と、頬杖をついた。
確かに今の玲爽は、なんだかすっきりしない。いつまでたっても、行動を起こす気配もみられない。何か悩みでも抱えているのだろうか?




