第十話 家族の証言
記録には存在しない医療センターを、父は覚えていた。
生後三日の蓮を抱き、名前も顔も思い出せない職員とともに、その施設を訪れたという。
正式な記録ではなく、自分の記憶を選んだ父。
その直後、蓮の適性演算は初めて一〇〇へ近づいた。
家へ戻った蓮たちは、もう一人の証言者に話を聞く。
蓮の母親に。
無人車両の中では、誰も話さなかった。
窓の外を、夕方の街が流れていく。
歩道を歩く人々。
一定の間隔で交差点を通過する車両。
建物の壁面に表示される帰宅推奨時刻。
すべてが、決められた予定に従って動いていた。
蓮の端末には、更新された数字が残っている。
《適性演算中》
《完了率 99.963%》
管理局へ向かう前より上がっていた。
今日の行動は、ほとんどが推奨外だった。
父との合流予定を無視した。
美月と佐伯を連れて管理局へ向かった。
記録から消えた榊を探した。
非公開の本人登録情報について問い続けた。
これまでなら、数字は下がるはずだった。
だが、父が中央第三区医療センターへ行った記憶を認めた直後、演算は一〇〇へ近づいた。
その下に一瞬だけ現れた文章。
《周辺情報の整合性が向上しました》
「父さん」
蓮が口を開いた。
向かいに座る父は、窓の外を見ている。
「さっきの表示、どういう意味だと思う?」
「分からない」
「父さんが、病院へ行ったことを認めたから上がったのかな」
「推測で決めつけるな」
以前と同じ言葉だった。
だが、声に強さはない。
父は自分の端末を開いた。
蓮が生まれた頃の家族記録。
出生。
退院。
最初の健康診断。
そこには、中央第三区医療センターの名前が存在しない。
「父さんは、本当に行ったんだよな」
「ああ」
「記録がなくても?」
父の指が止まった。
「あの日、お前を抱いて車に乗った」
父は画面から目を上げた。
「それは覚えている」
佐伯が隣から尋ねる。
「その車は、病院の無人車両だったんですか」
父は眉を寄せる。
「いや」
「違うんですか」
「人が運転していた」
車内に沈黙が落ちた。
今では、公道を走る車両のほぼすべてがオラクルによって制御されている。
人間が直接運転するのは、管理外区域や特殊な緊急時に限られていた。
「本当に?」
蓮が聞き返す。
「記憶ではそうだ」
「誰が運転してた?」
「知らない男だ」
父は目を閉じる。
「前に運転手が一人。後ろに、私とお前と白衣の職員が乗った」
「白衣の人は、病院から来た人?」
美月が尋ねる。
「そう説明された」
「顔は覚えてますか」
父はすぐに答えなかった。
「思い出せない」
「名前は?」
「分からない」
「病院までの経路は?」
「それも残っていない」
父が位置情報の履歴を開く。
出生三日後。
父の端末は、蓮が生まれた病院から一度も動いていないことになっていた。
蓮の位置情報も同じだった。
「端末を置いていったんじゃないですか」
佐伯が言う。
「持っていた」
父は即答した。
「検査の説明も、端末で確認したはずだ」
「その説明は?」
「残っていない」
父の画面には、何も記録されていない一時間があった。
父も蓮も、出産した病院にいたことになっている。
だが父は、別の場所へ移動した記憶を持っていた。
「そのとき、オラクルに聞かなかったの?」
蓮が尋ねる。
「追加検査は必要なのか、と聞いた」
「何て答えた?」
「推奨される検査だと」
「オラクルが言った?」
父は口を閉じた。
「どうしたの?」
「声を聞いた覚えがない」
「でも、推奨されたんだろ」
「端末に表示されていた」
父は額へ手を当てる。
「いや……病院の職員が、オラクルも推奨していると言ったのかもしれない」
出来事は覚えている。
だが、細部だけが曖昧だった。
誰が話したのか。
何を端末で確認したのか。
職員の顔。
運転手の姿。
父の記憶には、ところどころ空白がある。
「母さんは、病院へ行ったことを知ってる?」
蓮が尋ねる。
「お前を追加検査へ連れていくことは伝えた」
「中央第三区医療センターの名前も?」
「分からない」
「帰ったあと、何を話した?」
「検査に問題はなかったと」
「それだけ?」
「ああ」
父は端末を閉じた。
「まず、家で母さんに確認する」
車両が桐谷家の前へ到着する。
《桐谷美月さん。目的地へ到着しました》
扉が開く。
美月は立ち上がらなかった。
「私も天城家まで行きます」
父が美月を見る。
「予定では、ここで降車する」
「蓮のお母さんに、私たちが見たことを説明した方がいいと思います」
「家族だけで確認する」
「私たちの証言が必要になるかもしれません」
周辺証言。
その言葉に、父の表情がわずかに動いた。
蓮を天城蓮本人として仮承認するため、美月と佐伯の証言が必要だった。
「二人とも来てほしい」
蓮が言う。
「俺一人が聞いたことにしたくない」
父はしばらく三人を見ていた。
美月と佐伯の端末には、帰宅を促す警告が表示されている。
《推奨帰宅時刻に遅延します》
《翌日の活動効率へ影響する可能性があります》
父は自分の端末を操作した。
「保護者へ連絡しなさい」
美月が目を見開く。
「一緒に来てもいいんですか」
「今日は私が責任を持って送る」
美月はすぐに家族へ連絡した。
佐伯も予定変更を伝える。
二人の端末に、新たな警告が表示された。
《家族面談への第三者参加は推奨されません》
父は画面を見た。
数秒後、通知を閉じる。
「出発してください」
父が車両へ告げた。
無人車両の扉が閉まる。
《経路を再設定します》
《目的地:天城家》
蓮は父を見た。
「推奨されてないけど、いいの?」
「話を聞く必要がある」
父は窓の外を向いた。
「必要かどうかは、私が決める」
その言葉は、管理局で蓮が口にしたものと同じだった。
天城家へ到着すると、母が玄関の前で待っていた。
車両から美月と佐伯まで降りてきたのを見て、驚いた表情を浮かべる。
「どうしたの?」
「中で話す」
父が答える。
「管理局から、蓮が予定外の場所へ行ったって連絡が来てるけど」
「それも含めて話す」
母は蓮を見る。
「何があったの?」
「俺が生まれたときのことを聞きたい」
「生まれたとき?」
「中央第三区医療センター」
その名前を聞いた瞬間、母の顔から血の気が引いた。
玄関の壁へ手をつく。
父が母の肩を支えた。
「知ってるの?」
蓮が尋ねる。
母はすぐに答えなかった。
「どうして、その名前を知っているの」
「俺の登録情報に書いてあった」
「見られないはずよ」
全員が動きを止めた。
父がゆっくり聞き返す。
「見られないはず、とはどういう意味だ」
母は自分が口にした言葉に気づき、視線を落とした。
「母さん」
蓮が言う。
「何を知ってるんだ」
母は唇を結んだまま、玄関の扉を開けた。
「中に入りましょう」
リビングへ入る。
母は美月と佐伯へ飲み物を出そうとしたが、佐伯が断った。
「すみません。俺たちも、蓮の登録情報を一緒に見ました」
母の手が止まる。
「あなたたちも?」
「蓮の本人確認に、私たちの証言が必要だったんです」
美月が答える。
母はゆっくり椅子へ座った。
父も向かいに座る。
蓮は二人の間に端末を置いた。
中央第三区医療センターに関する表示は、すでに消えている。
残っているのは、現在の登録情報だけだった。
《出生登録》
《初回生体登録:完了》
その後の記録には、同じ言葉が並ぶ。
《生体照合:未確定》
「生後三日で、父さんが俺を別の病院へ連れていった」
蓮が言う。
「正式な記録はない。でも父さんは覚えてる」
母は父を見る。
「あなた、覚えていたの?」
「ああ」
「今まで、何も言わなかった」
「検査に問題はなかったと説明されたからだ」
「それでも……」
母の声が震えている。
父が尋ねる。
「君は何を知っている」
母は両手を強く握った。
「蓮を連れていく前の日、病室に人が来たの」
「誰だ」
「病院の職員」
「名前は?」
「覚えていない」
父と同じ答えだった。
「顔は?」
母は目を閉じる。
「女性だったと思う」
「私のところへ来たのは男だった」
「別の人よ」
母は答えた。
「私のところへ来た人は、出生時の検査で追加確認が必要な項目が見つかったと言った」
「何の検査?」
蓮が尋ねる。
「神経反応か、生体情報か……」
母は首を横へ振る。
「難しい説明だった。すぐに終わるし、健康には影響しないと言われたの」
「オラクルは推奨してた?」
父が尋ねる。
「端末に承認画面が出た」
「何て?」
「追加検査を推奨します、って」
母は自分の端末を開く。
過去の医療承認履歴を確認する。
だが、そこに該当する記録はない。
「消えてる」
美月がつぶやく。
「以前は残っていたんですか」
「分からない」
母は画面を動かす。
「確認したことがなかったから」
「中央第三区医療センターって名前は、どこで知った?」
蓮が尋ねる。
母は少し迷ってから答えた。
「検査が終わったあと、書類を渡されたの」
「書類?」
父が身を乗り出す。
「そんなものがあったのか」
「あなたには話したと思ってた」
「聞いていない」
「検査結果と、その後の認証についての説明が入っていた」
「認証?」
蓮の声が低くなる。
母はうなずいた。
「成長に伴って、生体認証が不安定になる可能性があるって」
朝、母が話していたことだった。
学校や病院から後になって説明されたのではない。
生後三日の時点で、将来の認証不良について知らされていた。
「生まれたばかりなのに、成長したあとのことまで分かったの?」
美月が尋ねる。
「そう説明されたの」
「その書類は?」
佐伯が聞いた。
母は立ち上がる。
「保管してあるかもしれない」
「どこに?」
「蓮の出生資料と一緒に」
母は廊下の奥へ向かった。
父も続く。
蓮たち三人はリビングに残された。
数秒後、天井からオラクルの声が流れる。
『天城蓮さん』
「何だ」
『現在、家族による過去情報の確認が行われています』
「分かってる」
『未確認情報に基づく判断は推奨されません』
「書類を見るだけだ」
『現在の医療情報を基準として判断してください』
「現在の情報には何もない」
『必要な医療情報は正常に管理されています』
「中央第三区医療センターは?」
『該当する医療施設を確認できません』
「母さんは、そこから書類をもらった」
『個人の記憶には、誤認が含まれる可能性があります』
美月が天井を見上げる。
「蓮のお父さんも覚えています」
『複数人の記憶が、同一の誤認へ影響される場合があります』
佐伯が苦い顔をした。
「何人覚えてても同じ答えかよ」
蓮は尋ねる。
「書類が見つかったら、記録より信用できる?」
『真正性を確認できない資料は、正式な医療記録として使用できません』
「本物でも?」
『真正性を確認できない資料は、正式な医療記録として使用できません』
「真正性を確認するのは誰だ」
『指定された認証機関です』
「その認証機関が、病院は存在しないって言ってる」
返答はなかった。
廊下の奥から、何かが落ちる音がした。
三人は立ち上がる。
「母さん?」
返事がない。
蓮が廊下へ出る。
奥の収納室の前で、母が床に座り込んでいた。
その前には、古い保管箱が置かれている。
父が箱の中身を一つずつ床へ並べていた。
出生証明。
母子の医療記録。
退院時の資料。
幼い蓮の写真。
「書類は?」
蓮が尋ねる。
母は空になった箱を見る。
「ない」
「別の場所じゃないの?」
「ここに入れたの」
母は何度も箱の底を確認する。
「絶対に、ここに入れた」
「最後に見たのはいつだ」
父が尋ねる。
「蓮が小学校に入る前」
「そのときはあった?」
「あった」
母ははっきり答えた。
「入学前の本人確認がうまくいかなかったとき、学校へ見せようと思って取り出したの」
「学校へ持っていった?」
「端末から照会できるから必要ないと言われて、持っていかなかった」
「そのあと、箱へ戻した?」
「戻したわ」
母は保管物一覧を開く。
《天城蓮・出生関連資料》
出生証明書。
予防接種記録。
退院資料。
家族写真。
母が覚えている書類は、一覧にも存在しなかった。
「最初からなかったことになってる」
佐伯が言う。
母は強く首を横へ振る。
「違う。あったの」
「どんな封筒だった?」
美月が尋ねる。
「灰色」
「書類の内容は?」
「中央第三区医療センター。追加生体検査。認証についての注意事項……」
「担当者の名前は?」
蓮が尋ねる。
母の呼吸が止まった。
「書いてあった」
「誰?」
「思い出せない」
「最初の文字だけでも」
母は目を閉じる。
「ミ、だったと思う」
「名字?」
「たぶん」
「三浦とか、三島とか?」
「分からない」
母は頭を押さえた。
「思い出そうとすると、違う名前ばかり浮かんでくる」
父が母の肩へ手を置く。
「無理に思い出すな」
「でも、あったのよ」
母は父を見る。
「どうして、私たちは今まで気にしなかったの」
父は答えられない。
「蓮が病院で認証できなかったときも、学校で保護者確認を求められたときも、全部あの説明どおりだった」
母の声が震える。
「それなのに、成長のせいだと思ってた」
「そう説明されたからだ」
父が言う。
「誰に?」
母が聞き返す。
「病院に? 学校に? オラクルに?」
父は黙った。
説明された記憶はある。
しかし、誰から聞いたのかが分からない。
蓮は箱の中から、一枚の写真を取った。
退院後、自宅で撮影された写真。
母に抱かれ、眠っている赤ん坊。
写真の裏には、母の手書きで日付が書かれている。
その下に、もう一行。
《検査、問題なし。蓮はよく眠っている》
「これは?」
蓮が写真を見せる。
母は目を見開いた。
「検査のあとに書いたの?」
「たぶん……そう」
日付は、出生三日後。
登録情報が更新された日と一致していた。
端末の記録では、その日、蓮は出産した病院から一度も移動していない。
だが、母の手書きには、検査と書かれている。
「証拠になる」
美月が言った。
「病院名はないけど、その日に検査があったことは分かる」
佐伯が写真へ手を伸ばしかけ、止める。
「端末に読み込まない方がいい」
「また消えるかもしれない」
美月もうなずいた。
父は写真を透明な保護袋へ入れた。
電子登録は行わず、そのまま封を閉じる。
「この写真を持って、中央統合資料保管区へ行く」
蓮は父を見る。
「本当に行くの?」
「ああ」
父は答えた。
「まず、立ち入り申請を出す」
「オラクルは推奨しないと思う」
「分かっている」
父は自分の端末を開く。
《中央統合資料保管区・来訪申請》
《一般来訪は受け付けていません》
父は音声入力を始める。
「保護者として、過去の医療記録の照合を申請する」
《対象施設は医療機関ではありません》
「同じ場所に存在した医療施設について確認したい」
《該当する医療施設を確認できません》
「中央第三区医療センター」
《該当する医療施設を確認できません》
「出生三日後の天城蓮が検査を受けた」
《該当する医療記録を確認できません》
父の表情が硬くなる。
「記録が存在しないことを確認するため、来訪を申請する」
数秒間、画面が止まる。
《来訪目的を確認できません》
「それでも申請を続ける」
《申請は推奨されません》
《許可されていない区域への接近は、法令違反となる可能性があります》
「許可される範囲で確認する」
《申請を続行しますか》
《中止》
《理由を入力して続行》
父は蓮を見る。
「何と書く」
蓮は少し考えた。
「記録にない家族の記憶を確かめるため」
父はそのまま入力した。
《記録にない家族の記憶を確かめるため》
《申請を続行します》
円形の印が回る。
数秒。
十秒。
これまでの自動処理より長かった。
やがて、表示が変わる。
《来訪申請を受理しました》
《審査結果は後日通知します》
「受理された」
母がつぶやく。
《申請番号:C-0718-042》
《申請者:天城家保護者》
《対象者:天城蓮》
《来訪目的:未確認記録の照合》
その下に、小さな文字が追加された。
《対象者本人の同行には、厳密な本人確認が必要です》
「また本人確認か」
佐伯が言う。
「蓮は入れないの?」
美月が尋ねる。
父が画面を動かす。
《代替確認方法》
《保護者証言》
《継続的関係者による証言 二名以上》
《本人情報の仮固定》
「俺たちが必要になる」
佐伯が言った。
美月も表示を確認する。
「保護者と、継続的な関係者が二人」
父は美月と佐伯を見る。
「君たちにも同行してもらう可能性がある」
「行きます」
美月はすぐに答えた。
佐伯も一拍置いてからうなずく。
「ここまで知って、行かない方が無理です」
母が不安そうに三人を見る。
「危険なことにならない?」
「申請は受理された」
父が答える。
「禁止されてはいない」
蓮は父を見る。
「俺と同じことを言ってる」
父は少しだけ苦い顔をした。
「お前の言い方が移ったのかもしれない」
その瞬間、蓮の端末が振動した。
《適性演算情報を更新しました》
《完了率 99.963%》
数字が変化する。
《完了率 99.972%》
「また上がった」
美月が画面をのぞく。
完了率の下に、新しい項目が表示された。
《本人情報の仮固定を更新しています》
《保護者証言 二名》
《継続的関係者証言 二名》
《整合性 99.972%》
佐伯が数字を見比べる。
「適性演算と同じ数字だ」
部屋にいる全員が、蓮の画面を見る。
進路の適性を計算しているはずの数字。
本人情報の整合性。
二つが完全に一致している。
「進路を計算してたんじゃないの?」
美月が言う。
「天城蓮が誰なのかを確かめてた?」
佐伯が続ける。
蓮は天井へ向かって尋ねた。
「俺の適性演算は、進路じゃなくて本人確認なのか?」
数秒後。
『進路適性演算を継続しています』
「本人情報の整合性と、数字が同じなのはなぜ?」
『演算には、確定された本人情報が必要です』
初めて、関係を否定しなかった。
「俺が天城蓮だと確定できないから、進路を決められない?」
長い沈黙。
『確定されていない本人情報に対して、厳密な進路指定を行うことはできません』
誰も動かなかった。
空白の進路通知。
終わらない再演算。
進路保留。
すべての原因が、初めて言葉になった。
オラクルは、蓮の未来を計算できないのではない。
目の前にいる人間を天城蓮本人だと確定できない。
だから、天城蓮の未来を割り当てられない。
「俺が天城蓮だと確定できたら、進路は決まる?」
『本人情報の確定後、進路適性演算を再実施します』
「どうすれば確定できる?」
『必要な情報を収集中です』
「中央統合資料保管区にある?」
返答はなかった。
「中央第三区医療センターの記録が必要なのか?」
『該当する医療施設を確認できません』
答えは再び閉ざされた。
それでも、進路と本人確認がつながっていることは認めた。
父が蓮を見る。
「お前の進路が空白なのは、お前に適性がないからではない」
父はゆっくりと言った。
「オラクルが、お前をお前だと確認できないからだ」
母が蓮の手を握る。
「私たちには分かる」
「何が?」
「あなたが蓮だってこと」
「証明できなくても?」
「証明なんてなくても分かる」
母は迷わず答えた。
オラクルにとっては、ただの周辺証言。
厳密な本人確認には届かない、不確かな情報。
それでも蓮にとっては、どの記録よりも確かな言葉だった。
端末に、来訪申請の状態が表示される。
《中央統合資料保管区・来訪申請》
《審査中》
《対象者本人情報の仮固定:99.972%》
その下に、新しい項目が現れた。
《不足証言数 一》
「あと一人?」
美月が言った。
「誰の証言が必要なんだ」
佐伯が尋ねる。
蓮は詳細を開く。
《必要証言》
《対象者の出生直後に本人確認を行った者》
父と母の表情が変わる。
生後三日。
中央第三区医療センター。
両親以外に、蓮を本人として確認した誰か。
名前も顔も思い出せない、病院の職員。
《該当証言者の登録状態を確認しています》
円形の印が回る。
数秒後。
《該当証言者 一名》
母が声を漏らす。
「まだいるの?」
《現在の所属》
表示が切り替わる。
《世界統合管理局》
父が立ち上がった。
「管理局の職員なのか」
蓮が詳細を開こうとする。
《閲覧権限がありません》
「名前は?」
『回答できません』
「榊さん?」
『回答できません』
「有村さん?」
『回答できません』
「中央第三区医療センターにいた人間が、今も管理局にいる?」
『該当証言者の情報は非公開です』
「その人に会えば、俺を確定できる?」
『証言内容により判断します』
来訪申請の状態が更新される。
《審査保留》
《理由:必要証言者への確認中》
部屋の照明が、就寝時間を知らせる明るさへ変わる。
『推奨就寝時刻が近づいています』
誰も動かなかった。
その頃。
中央管理局第七地域支部の地下区画で、一件の通知が開かれていた。
《証言要請》
《対象者:天城蓮》
《確認事項:出生直後の本人情報》
《回答期限:二十四時間》
画面の前に座る人物は、長い間、その文字を見つめていた。
胸元に名前はない。
表示されているのは、古い所属だけだった。
《元・生体情報統合部》
人物は回答欄を開く。
《現在の人物は、天城蓮本人ですか》
選択肢は二つ。
《はい》
《確認できない》
指が、《はい》の上で止まる。
しかし、触れることはなかった。
代わりに、自由記述欄へ短い文章を入力する。
《本人であると確定すれば、彼は再びオラクルの中に戻される》
送信しようとした瞬間、警告が表示された。
《回答形式が不正です》
《指定された選択肢から回答してください》
人物は画面を閉じた。
証言要請は、未回答のまま残った。




