第一話 空白の通知
西暦二一二〇年。
進学、就職、結婚、治療、住む場所。
人類は、人生に存在するほぼすべての選択を、世界統合人工知能へ委ねていた。
神が示す道に従えば、人は最も幸福な人生を歩める。
誰もが、そう信じている。
「桐谷美月。中央医療院附属大学、医学科」
担任が名前を読み上げると、教室正面の透明画面に青い文字が浮かび上がった。
《進路適合率 98.7%》
《予測生涯幸福度 96.2%》
一瞬の静寂のあと、教室中から拍手が起こる。
「すごい、美月」
「中央医療院って、国内最高峰だろ?」
「やっぱり医療系だったんだ」
桐谷美月は目を丸くしたまま、自分の個人端末を見つめていた。
入学予定日。
専攻分野。
卒業後の研修先。
数秒前まで知らなかった人生が、画面の中に次々と表示されていく。
「私、血を見るの苦手なんだけどな」
美月がつぶやくと、近くの生徒が笑った。
「そこも含めて、向いてるって判断されたんじゃない?」
「そうなのかな」
戸惑いは残っているようだった。
それでも美月は、最後には小さく笑った。
「でも、オラクルが選んだなら大丈夫か」
周囲の生徒たちは、当然のようにうなずいた。
第三中央高等学校、三年二組。
今日は、生徒たちの進路が発表される日だった。
十八歳を迎える年、世界統合人工知能は、一人ひとりに最適な進路を提示する。
成績。
性格。
健康状態。
家庭環境。
人間関係。
毎日の言葉や行動。
本人さえ覚えていない幼少期の記録まで分析し、その人間が最も幸福になれる道を導き出す。
オラクルが示した進路の適合率は、ほぼ百パーセント。
神の選んだ学校へ進み、神の選んだ職業に就いた者の多くが、自分の人生に満足している。
だから、提示された進路を拒む者はほとんどいない。
自分で選ぶよりも、自分以上に自分を知る存在へ任せた方がいい。
それが、この世界の常識だった。
「次。佐伯悠真」
担任の声に合わせて、画面が切り替わる。
《都市交通管理局》
《進路適合率 99.1%》
「うわ、地味だな」
教室の中央に座る佐伯悠真がぼやくと、小さな笑いが起きた。
「でも安定してるじゃん」
「事故を防ぐ仕事だろ。大事だよ」
「まあ、オラクルが決めたなら、俺に合ってるんだろうな」
佐伯はそう言って、自分の端末へ目を落とした。
画面には、研修開始日や配属候補地まで表示されている。
初めて知った未来を、佐伯はすでに受け入れていた。
教室の最後列。
美月の隣に座る天城蓮は、自分の個人端末を開いた。
通知は来ていない。
画面を閉じる。
しばらくして、もう一度開く。
「また見てる」
隣から美月が声をかけてきた。
「何を?」
「端末。さっきから何回も確認してるでしょ」
「そんなに見てない」
「私の進路が出てから、少なくとも三回目」
蓮は端末を机に伏せた。
「隣ばっかり見てないで、前を向けよ」
「何度も画面を光らせられたら気づくって」
美月は声を少し落とした。
「本当に、まだ来てないの?」
「ああ。通知履歴も空」
今朝、三年生全員へ進路通知が一斉に送信されていた。
学校での発表は、その内容をクラス全員で確認するためのものだ。
蓮の端末にだけ、朝から何も届いていなかった。
「学校での発表が先になっただけかもね」
「そうだといいけど」
「大丈夫だよ」
美月は正面へ顔を戻した。
「少しくらい遅れることもあるって」
その言葉に、蓮もうなずいた。
深刻に考えているわけではない。
通信が少し遅れているだけだろう。
オラクルが進路を決められない人間など、いるはずがない。
そもそも蓮自身、自分が何になりたいのか分かっていなかった。
医者になりたいわけではない。
宇宙へ行きたいわけでもない。
父と同じ行政の仕事に憧れているわけでもなかった。
だから、オラクルが教えてくれるのを待っていた。
自分の知らない自分を。
自分が最も幸福になれる未来を。
「天城蓮」
ついに名前が呼ばれた。
蓮は顔を上げる。
教室中の視線が集まった。
正面の画面に名前が表示される。
《天城蓮》
その下には、何もなかった。
蓮は待った。
五秒。
十秒。
進路名は表示されない。
適合率も。
予測幸福度も。
ただ、蓮の名前だけが青く浮かんでいる。
「……先生?」
担任は手元の端末を操作していた。
「少し待て」
正面の画面が消える。
数秒後、再び表示された。
《天城蓮》
やはり、その下は空白だった。
教室の空気が変わる。
「通信障害?」
「でも、他の人は出てるよね」
「学校の端末が壊れたんじゃない?」
小さな声が教室のあちこちから聞こえた。
担任は画面を閉じ、進路発表のシステムを最初から読み込み直す。
桐谷美月。
中央医療院附属大学。
佐伯悠真。
都市交通管理局。
他の生徒たちの進路も、先ほどと同じように表示されていく。
最後に、天城蓮。
《天城蓮》
空白。
担任の表情が、わずかに硬くなった。
「天城。個人端末を確認しろ」
蓮は端末を開いた。
「何も来てません」
「通知履歴は?」
「空です」
「今朝から一度も?」
「はい」
担任は黙り込み、何度か画面を操作した。
教室中の視線が、蓮へ向けられている。
居心地の悪さをごまかすように、蓮は笑った。
「進路がないってことですか?」
冗談のつもりだった。
誰か一人くらい笑ってくれると思った。
しかし、教室は静かなままだった。
「そんなことはない」
担任が強い声で答えた。
「すべての人間には、最適な役割がある」
教科書にも書かれている言葉だった。
無価値な人間はいない。
すべての能力には使い道があり、すべての人間には社会に必要とされる場所がある。
オラクルが、それを見つけてくれる。
だから、この世界では進路に迷う必要がない。
「放課後、進路指導室へ来なさい」
「分かりました」
「次へ進む」
画面から蓮の名前が消えた。
次の生徒の進路が表示され、少し遅れて拍手が起きる。
教室は徐々に、いつもの空気へ戻っていった。
蓮だけを残して。
昼休み。
佐伯がパンを持って、蓮の席へやってきた。
蓮の前の席の椅子を後ろへ向けて座る。
「まあ、学校側の不具合だろ」
「オラクルの不具合じゃなくて?」
「オラクルが間違えるわけないだろ」
即答だった。
佐伯はパンの袋を開ける。
「発表用の端末とか、校内の回線とか。そういう方だよ」
「俺の端末にも届いてないけど」
「たまたま両方で問題が起きたんだって」
佐伯の説明は、あまり説得力がなかった。
それでも彼は、それ以上の可能性を考えようとはしなかった。
美月も自分の昼食を広げながら、二人の会話を聞いている。
「管理局に確認すれば分かるよ」
「そうだな」
蓮はうなずいた。
三人の端末が、机の上に並んでいる。
佐伯の画面には、都市交通管理局での研修予定。
美月の画面には、医科大学の入学案内。
蓮の画面には、昼食の栄養評価だけが表示されていた。
「悠真は、本当に交通管理局でいいの?」
蓮が尋ねた。
佐伯は目を瞬いた。
「何が?」
「行きたかったのかと思って」
「考えたこともなかった」
「不安じゃない?」
佐伯は自分の端末を蓮へ向けた。
「適合率九九・一パーセントだぞ」
「数字の話じゃなくて」
「同じだろ?」
佐伯は本当に分からないという顔をした。
「オラクルが幸せになれるって判断したんだ。なら、俺はそこで幸せになるんだよ」
蓮は隣の美月を見る。
「美月も?」
「まだ実感はないけど」
美月は端末に表示された進路を見つめた。
「嫌ではないかな」
「血が苦手なのに?」
「今の私が知らないだけで、向いてる理由があるんでしょ」
美月は少し笑った。
「自分で気づいてないことって、たくさんあるし」
二人の答えに迷いはなかった。
昨日までなら、蓮も同じことを言っただろう。
自分のことは、自分より神の方がよく知っている。
それを疑う理由などなかった。
机の上の端末が震えた。
蓮はすぐに手に取る。
《昼食開始推奨時刻を三分超過しています》
進路通知ではない。
「オラクル」
蓮は小声で呼びかけた。
『はい、天城蓮さん』
聞き慣れた穏やかな女性の声が返ってくる。
「俺の進路通知は?」
短い沈黙。
『天城蓮さんの進路通知は、本日午前九時に正常に完了しています』
蓮は眉を寄せた。
「完了してない。何も出なかった」
『進路通知は正常に完了しています』
「何に決まった?」
『通知内容は個人端末で確認できます』
「ここにはない」
『進路通知は正常に完了しています』
まったく同じ答えだった。
「内容を教えてくれ」
『昼食を開始してください』
画面に、今日の推奨メニューが表示される。
進路についての返答は、それで終わった。
「どうだった?」
美月が尋ねる。
「正常に完了したって」
「内容は?」
「端末で確認しろって」
三人で蓮の端末を見る。
そこには何もない。
佐伯が困ったように笑った。
「やっぱり、端末が壊れてるんじゃないか?」
「かもな」
蓮も笑って答えた。
だが、胸の奥に小さな違和感が残った。
オラクルは通知を完了したと言った。
それなのに、通知の内容については一度も答えなかった。
放課後。
蓮が進路指導室へ入ると、担任と進路指導主任が待っていた。
二人の間には、薄型の端末が置かれている。
「座りなさい」
主任に促され、蓮は椅子へ腰を下ろした。
「管理局へ確認した」
「何か分かりましたか?」
「学校の設備に異常はなかった」
主任は端末を蓮へ向ける。
《天城蓮》
《進路通知:送信済み》
《受信確認:完了》
《本人閲覧:完了》
蓮は最後の一行を見つめた。
「閲覧済み?」
「ああ」
「俺は見てません」
「分かっている」
担任が答える。
「午前九時一分に閲覧した記録がある。だが、その時お前は教室にいた」
午前九時一分。
正面の画面に、自分の名前だけが表示されていた頃だ。
蓮の端末は、ずっと机の上に置かれていた。
「誰かが開いたんですか?」
「個人通知は本人以外には開けない」
主任が答える。
個人端末は、顔、虹彩、指紋、声、脈拍などを照合する。
他人が勝手に通知を見ることはできない。
「じゃあ、俺が見たことになってる?」
「記録上はそうだ」
「通知の内容は確認できないんですか?」
主任が端末を操作する。
《閲覧済み通知は、本人の端末から確認してください》
「俺の端末には何もありません」
「こちらでも内容を取得できなかった」
「オラクルは何て?」
担任と主任が一瞬だけ視線を交わした。
「正常に通知したという回答だけだ」
「内容については?」
「回答がなかった」
部屋が静かになる。
窓の外では、清掃ドローンが校庭を一定の速度で進んでいた。
決められた道を外れることなく、正確に地面をなぞっている。
「今日は帰りなさい」
主任が言った。
「明日までに、もう一度管理局へ確認する」
「明日には分かりますか?」
「心配する必要はない」
担任が蓮を見た。
「オラクルは間違えない」
その言葉には、朝ほどの強さがなかった。
帰宅すると、母がキッチンから顔を出した。
「進路、どうだった?」
蓮は靴を脱ぎながら答える。
「まだ分からない」
「発表は今日だったでしょう?」
「俺のところだけ、何も出なかった」
母の動きが止まる。
「そんなことあるの?」
「学校が調べてる」
「故障?」
「たぶん」
母は少し心配そうな顔をしたが、すぐに笑った。
「明日には分かるわよ。処理が少し遅れているだけでしょう」
夕食のとき、父にも同じ話をした。
「一時的な表示不良だろう」
父は落ち着いた様子で味噌汁を飲んだ。
「システム上は通知済みなんだろ?」
「うん」
「なら、すでに答えは出ている。端末に表示されていないだけだ」
「内容は学校でも確認できなかったらしい」
「管理局が調べれば分かる」
父の声に迷いはなかった。
答えは存在する。
ただ、まだ蓮には見えていないだけだ。
蓮も、そう考えることにした。
午後十時四十分。
推奨就寝時刻になると、部屋の照明が自動的に暗くなった。
壁面端末には、明日の予定が表示されている。
午前六時、起床。
午前八時二十分、登校。
午後三時四十分、進路面談。
未来ではなく、明日の予定だけは、いつも通り決められていた。
蓮はベッドへ横になった。
「オラクル」
『はい、天城蓮さん』
「俺の進路通知は、今日届いたんだよな?」
『はい。正常に完了しています』
「俺が見た?」
『本人による閲覧を確認しています』
「何が書いてあった?」
沈黙。
「内容を教えて」
『通知内容は個人端末で確認できます』
「何もないんだよ」
『進路通知は正常に完了しています』
何度聞いても、答えは変わらなかった。
「正常なら、どうして見えないんだ?」
返事はない。
壁面の青い光が、ほんの一瞬だけ弱くなった。
「オラクル」
『十分な睡眠を取ってください』
「俺は何になるんだ?」
長い沈黙。
蓮は天井を見つめたまま、答えを待った。
やがて、いつもと変わらない穏やかな声が告げる。
『おやすみなさい、天城蓮さん』
画面が暗くなった。
オラクルは間違えない。
進路通知は正常に完了した。
本人が閲覧した記録も残っている。
けれど蓮は、何も見ていない。
矛盾しているのは、機械なのか。
記録なのか。
それとも、自分なのか。
答えが出ないまま、蓮は眠りへ落ちていった。
部屋が静かになる。
しばらくして、机の上の個人端末が一度だけ光った。
《進路通知》
《送信:完了》
《受信:完了》
《閲覧:完了》
三つの表示が、順番に点灯する。
最後に、通知の本文が開いた。
画面には何も書かれていない。
文字も。
数字も。
進路名も。
ただ真っ白な空白だけが、数秒間表示された。
やがて端末は、何事もなかったように暗くなった。




