第9話:【閑話】死に場所を求めた騎士と、密林に響く希望の音
第9話:【閑話】死に場所を求めた騎士と、密林に響く希望の音
むせ返るような熱気と、肺にへばりつくような湿気。
視界を覆い尽くす巨大なシダ植物と、どこからともなく聞こえる魔物の不気味な鳴き声。
『悠久の大迷宮』第4階層――地底の密林は、準備を怠った者にとって、まさに緑の地獄だった。
「……はぁ、はぁっ……」
大木の根に背中を預け、ガレスは荒い息を吐いた。
かつては王国騎士団の小隊長として、大柄で筋骨隆々だった彼の体は、今や見る影もなく泥と血に汚れ、頬は痩せこけている。
唇はひび割れ、喉は焼け付くように乾いていた。最後に水を口にしたのは、もう二日前のことだ。食料に至っては、迷宮に入る前からまともに胃に入れていない。
(俺は……こんな所で、野垂れ死ぬのか……)
薄れゆく意識の中、ガレスの脳裏に浮かぶのは、忌まわしい数日前の記憶だった。
***
ガレスは誇り高き騎士だった。平民の出でありながら、その豪腕と実直な人柄で小隊長の地位まで上り詰め、部下たちからも慕われていた。
事件が起きたのは、王都の裏社会で横行していた「違法魔導具の密輸」の調査を命じられた時だ。
ガレスたちは決定的な証拠を掴み、黒幕である高位貴族の隠れ家へと踏み込んだ。しかし、それは巧妙に仕組まれた罠だった。
踏み込んだ先には密輸品などなく、代わりに大量の『狂暴化薬』を投与された魔物の群れが放たれていたのだ。さらに、出入り口は強力な結界で封鎖され、後から駆けつけた貴族の私兵たちによって、ガレスたちは「反逆者」の汚名を着せられた。
『小隊長! ここは俺たちが食い止めます! あなただけでも逃げて、真実を……!』
結界がわずかに綻んだ一瞬の隙。部下たちは身を呈して魔物の群れに突っ込み、ガレス一人を外へと突き飛ばした。
背後で響く部下たちの断末魔の叫び。そして、安全な場所から見下ろす貴族の醜い嘲笑。
ガレスは逃げ延びたが、すでに「部下を惨殺して逃亡した狂王騎士」として手配書が回っていた。
全てを失った。
国を守るという誇りも、苦楽を共にした愛すべき部下たちも、そして帰るべき場所も。
(……俺だけが生き残って、何の意味がある)
絶望と自責の念に押し潰されたガレスは、自暴自棄になった。
真実を暴く気力すら湧かず、ただひたすらに「死に場所」を求めた。追手から逃れるように、水も食料も持たず、ただ愛用の大盾と剣だけを握りしめて『悠久の大迷宮』へと転がり込んだのだ。
***
怒りに任せて第1、第2、第3階層の魔物を斬り捨てて進んだが、飲まず食わずの体は第4階層の密林で限界を迎えた。
体内の水分は完全に枯渇し、胃袋は胃液を吐き出しすぎて痙攣している。立ち上がる力はおろか、剣を握る力すら残っていない。
ガサッ……。
ふいに、ガレスの正面にあるシダ植物の茂みが揺れた。
現れたのは、豹のようなしなやかな体躯を持つ魔物、『ジャングルパンサー』だった。緑色の保護色を持ったその獣は、完全に衰弱しきったガレスを「動けない極上の餌」として認識し、黄色い瞳を三日月のように細めてゆっくりと近づいてくる。
「……くそっ……せめて、相打ちに……」
ガレスは力を振り絞って剣の柄に手を伸ばすが、指先がピクピクと痙攣するだけで、どうしても握り込むことができない。
ジャングルパンサーが低く唸り、トドメを刺すべく後ろ足に力を溜める。
(部下たちの仇も討てず、こんな獣の餌になるのか……。すまない、お前たちの命を……無駄に、した……)
ガレスが静かに目を閉じ、死を受け入れようとした、その時だった。
――ヒュッ、ダンッ!!
風を鋭く切り裂く音と、何か硬いものが肉を貫く鈍い音が、密林の静寂を打ち破った。
「ギャンッ!?」
目を開けると、先ほどまでガレスを食い殺そうとしていたジャングルパンサーが、首の横に深々と矢を突き立てられ、地面を転げ回っていた。
「グルァァァァッ!!」
さらに、どこからともなく現れた漆黒の狼が、雷のようなスピードで飛び出し、のたうち回るジャングルパンサーの喉笛に容赦なく噛み付いた。
一瞬の出来事だった。ジャングルパンサーは反撃する間もなく絶命し、黒い狼は「ペッ」と血を吐き捨てて誇らしげに鼻を鳴らした。
(なんだ……? 魔物同士の、縄張り争いか……?)
いや、違う。
あの矢は、明らかに「人」が放ったものだ。それに、あの黒い狼の動きは野生の獣のそれではない。完全に統率され、主の意図を汲み取った『従魔』の動きだった。
ガサガサッ、と少し離れた茂みを掻き分ける足音が聞こえた。
「ナイス連携だ、クロ。こんなところにパンサーがいるとは思わなかったな。今日の夕飯の足しにするか」
「ワフッ!」
それは、この死と絶望が支配する迷宮の深部にはあまりにも似つかわしくない、若く、そしてどこか陽気な青年の声だった。
その声を聞いた瞬間、ガレスの張り詰めていた心の糸が、プツリと切れた。
自分が助かったのかどうかすら、まだ分からない。しかし、その足音と声には、絶望の泥沼に沈んでいたガレスを引っ張り上げるような、不思議な「生」の温かさがあったのだ。
(ああ……人が、いる……)
「……た……すけ……」
ひび割れた唇から微かな声が漏れる。それが彼に向けられたものだったかは分からないが、直後、「ん? クロ、あの大木の根元、人が倒れてないか!?」という驚いたような青年の声が耳に届いた。
(助かる……かも、しれない……)
その微かな安堵と共に、ガレスの意識はついに深い闇へと落ちていった。




