第36話:【閑話】吹き荒れる深緑の絶望と、泥濘に沈む狂信者
第36話:【閑話】吹き荒れる深緑の絶望と、泥濘に沈む狂信者
ゴォォォォォォッ……!!
『悠久の大迷宮』第6階層――烈風の大渓谷。
鼓膜を劈くような暴風の音が響き渡る岩肌にしがみつきながら、エルフの精鋭部隊『深緑の守護騎士団』の隊長シルヴァンは、血の滲む唇をギリッと噛み締めた。
「隊長……! もう、これ以上は進めません……っ!」
暴風の音に負けじと声を張り上げた部下の声には、もはや高貴なエルフの誇りなど微塵も残っていなかった。
彼らが第5階層の中ボス部屋(トウヤが討伐したのち、迷宮の法則でリポップしていた『タイラント・デスマンティス』)を抜けるために支払った代償は、あまりにも大きかった。
魔力枯渇による疲労と、マンティスの凶刃によって数名が重傷を負い、美しい銀の軽鎧は血と泥に塗れ、無惨にひしゃげている。
そして、命からがら辿り着いたこの第6階層の環境は、彼らの誇る『精霊魔法』と『弓術』の利点を完全に殺すものだった。
「風の精霊よ、刃となれ……! 【ウィンド・カッター】!!」
シルヴァンが暴風に向かって魔法を放つが、その風の刃は渓谷の圧倒的な自然の猛威の前に、届く前に霧散してしまった。
弓を引こうにも、強風で矢の軌道はデタラメに逸れ、まともに狙いをつけることすら不可能だ。
「ピィィィィィッ!!」
そこへ、強風を我が物顔で乗りこなす猛禽類の魔物『ウィンドイーグル』が急降下してくる。
「くそっ、防げ! 結界を張れ!!」
「魔力が……足りませんッ!」
イーグルの鋭い爪が、負傷した騎士の肩を容赦なく引き裂いた。
「ぐあぁぁっ!」という悲鳴が渓谷に吸い込まれる。シルヴァンが剣を抜いて応戦し、なんとかイーグルを追い払ったものの、彼らの体力と精神力はすでに限界点を突破していた。
「……岩陰に隠れろ! 一時撤退だ!」
切り立った崖のわずかな窪みに身を寄せ、身を寄せ合うエルフたち。
常に吹き付ける乾燥した冷たい風が、彼らの体温を容赦なく奪っていく。トウヤの『迷宮踏破者の外套』のようなチート装備を持たない彼らにとって、この階層はただただ命を削る冷凍庫でしかなかった。
「食事をとって休め……。魔力を回復させるのだ」
シルヴァンが力無い声で命じると、部下たちは震える手で小袋を取り出した。
入っていたのは、土埃と砂がまぶされた、パサパサの『乾パン』と『乾燥葉っぱ』である。
強風の中で食事をとろうとするため、口を開けるたびに砂が入り込み、ジャリジャリと嫌な音を立てる。かつてトウヤたちが、ここで『グランドホーンの岩塩釜焼き』や『宝石フルーツタルト』を優雅に楽しんでいたことなど知る由もない彼らは、涙目になりながら砂まじりの乾パンを泥水で流し込んでいた。
「隊長……」
腕を吊った副官が、うわ言のように呟く。
「ルミナ様は……本当に、このような地獄を一人で進まれたのでしょうか……。あの箱入り娘であったお方が……」
「……」
シルヴァンは答えられなかった。
彼らの常識では、不可能だ。エルフの精鋭ですら半死半生になるこの場所を、戦闘経験の乏しい家出少女が突破できるわけがない。
(だが、死体も、遺品も見つかっていない。長老の命令がある以上、手ぶらでは帰れんのだ……!)
プライドと現実の狭間で、シルヴァンはただ強風が吹き荒れる灰色の空を睨みつけることしかできなかった。
彼らの心は、もはや「ルミナを連れ戻す」という目的から、「どうやってこの地獄から生きて帰るか」という生存本能へと完全にすり替わりつつあった。
***
時を同じくして。
『悠久の大迷宮』第4階層――地底の密林。
「ギィィィィッ!!」
「主の御名において、貴様ら悪魔を浄化するッ!!」
熱気と湿気が渦巻く泥濘の中で、白い法衣を纏った男たちが、巨大な毒蛇『ポイズン・パイソン』と死闘を繰り広げていた。
彼らは、教会の暗部であり、マリアを「異端の魔女」として始末するために放たれた『異端審問官』の部隊である。
「ヴァルゴス卿! 右からパンサーが来ます!!」
「怯むな! 神の加護は我らと共にある!」
部隊長であるヴァルゴスは、メイスを振り回して飛びかかってきた『ジャングルパンサー』の頭蓋を砕いた。しかし、彼の息も絶え絶えだった。
純白だったはずの法衣は、泥と魔物の返り血、そして植物の毒液でドロドロに汚れ、もはや元の色すら分からない。
「……ハァ、ハァ……。なんという忌まわしい場所だ。神の光すら届かぬのか」
異端審問官たちは、対人戦闘や異端者の暗殺には特化していたが、「過酷な自然環境でのサバイバル」という点においては完全な素人であった。
ジャングルの熱気で体力を奪われ、泥に足をとられ、見えない虫や毒草によって次々と体調を崩していく。
「隊長……。解毒薬の残りが、あと三本しかありません。負傷者の回復魔法も、神官たちの魔力が底を突きかけています……」
部下が絶望的な報告を上げる。
「ええい、あの小娘め……! なぜこんな魔境へ逃げ込んだ!」
ヴァルゴスは血の混じった唾を吐き捨てた。
彼らはマリアを「か弱い癒やし手」としか認識していなかった。迷宮に逃げ込んだと聞いた時も、第1階層か第2階層あたりで泣きながら震えているところを捕まえて、秘密裏に処刑すれば終わる簡単な任務だと舐め腐っていたのだ。
まさか、彼女がエリスという強力な剣士と出会い、あまつさえ第9階層でトウヤたちの「特大ハンバーグ」と「黄金コンソメスープ」に舌鼓を打つまで逃げ延びているなど、夢にも思っていない。
「食事休憩にする。……乾肉と神聖なるパンを配れ」
ヴァルゴスの指示で、審問官たちは泥水の上に座り込み、教会の配給食を取り出した。
それは、塩辛いだけの硬い干し肉と、カビが生えかかった酸っぱいパンだった。高温多湿のジャングルでは、彼らの粗末な保存食はあっという間に腐敗し始めていたのだ。
「うっ……ゲホッ、ゲホッ……」
腹を下し、カビの生えたパンを吐き出す若い審問官。
かつてこの同じ場所で、トウヤたちが『特大チーズカツレツ』や『灼熱のジャークチキン』を腹一杯に食らい、高笑いしていた場所だとは信じられないほどの惨状である。
「ヴァルゴス卿……もう、これ以上は無理です。魔女マリアは、間違いなくこのジャングルの奥で魔物に食われて死んでいます。そう報告して、教会へ戻りましょう……!」
部下たちの懇願に、ヴァルゴスはギラギラと血走った目で睨み返した。
「……我ら異端審問官に『失敗』の二文字はない。首の皮一枚でも持ち帰らねば、大司教様に何と報告するのだ。進むぞ。死体を探し出すまで、絶対に止まるな!」
狂信的な命令が下るが、彼らの足取りは死人のように重かった。
迷宮の過酷さを舐め、己の権威と傲慢さに溺れたエルフと教会の追跡者たち。
彼らが決して届かぬ深淵の底で、彼らが追う少女たちが「今日のご飯は何かな?」と満面の笑みを浮かべているという残酷な皮肉。
追跡者たちの苦難の行軍は、大迷宮の容赦ない生態系に削り取られながら、絶望という名の泥沼へとさらに深く沈んでいくのだった。




