78話 ルーナの思い
『……レイド、起きてください。そろそろ時間です』
柔らかな声が届いて、ゆっくりと目が覚めていく。
視界に入る天井の色は白。
ここは……そうだ、ルーナの部屋だ。
天界へ向かう前に体を休めようと、仮眠を取ったのだった。
竜の国に来たばかりの頃も、ここで短い仮眠を取ったのを思い出す。
傍らのルーナは既に起きていて、人間の姿で座り込んでいた。
ただ……何故だろう。
普段のルーナほど溌剌としていないというか、どこか雰囲気に影がある気がした。
『レイド。調子はどうですか?』
そう問いかけてくる声にはやはり活力がない。
どこかが抜けてしまっているようだった。
「問題ないさ。ルーナの方こそ、どうだ?」
問いかけてみれば『私は勿論、私は……』と、何か言いかけたものの、しかしそのまま閉口してしまう。
普段なら『飛べます』と言い切ってくれそうなのに。
もしや調子が悪いのではと心配していると、少し経ってから。
『……このまま、時が止まってしまえばいいのに』
「……ルーナ?」
彼女らしからぬ物言い。
本当にどうしてしまったのだろう。
ルーナは顔を伏せてしまった。
『ごめんなさい、レイド。このような時に弱音を吐くべきでないと分かっています。ですが私は……私は、恐ろしいのです』
……彼女との付き合いはとても長い訳でもないが、決して短くもない。
俺はこれまで、こんなにも弱々しいルーナを見たことがなかった。
アイル同様、ルーナも何か思うところがあったのだろうか。
気丈な彼女を何がここまで追い詰めているのだろうと思っていると、
『あなたが魔神ノルレルスに貫かれた時、テイムによる魔力の繋がりが途絶えかけた時。私は……私が半分消えたような気持ちになりました。四年以上、常に感じていたあなたの魔力が消えるというのはこうも魂が、半身が引き裂かれるようなものなのかと。そして私は……あなたがいないこの世など、魔神ごと滅びてしまえばいいとさえ思ってしまいました。……不安なのです。またあなたが魔神に殺されてしまうのではと。少し眠ろうと瞼を瞑れば、あの時の光景が蘇って……』
「ルーナ……ごめん」
口から出た謝罪は、なんとも短く、陳腐なものだった。
でもこれ以上何を言ってあげたらいいのか、俺には分からなかった。
分からなかったから……俺はただ、ルーナの細い体を抱きしめてやることしかできなかった。
──不覚だ。まさかこんなにも不安にさせてしまっていたとは……。様子からして、眠るどころじゃなかったのか。
古竜にとって魔力の繋がりは、人間以上に重要かつ敏感なものだ。
魔力が途絶えたのを感じたとなれば、俺の命の終わりを、己の出来事のように感じ取っていたに違いない。
視覚で他人の死を見るのとは違う、もっと根源的な部分が直接、脅かされたような気持ちになったのではないか。
……死の間際、ただ意識が薄れていった自分がまだマシに感じるほどに。
ルーナは腕の中で強く震えていた。
「……すまない」
……実を言えば今回の戦い、俺はルーナが死なないと思っているし、そう信じている。
俺が全力で彼女を守るという思いはあるが、それ以上に彼女は古竜なのだ。
人間を遙かに超越した生命力と膂力、それに寿命や魔力を持っている。
特にルーナは神族である神竜の直系の子孫であるためか、他の古竜よりも魔力的には数段強力なものを宿している。
たとえ神族であっても古竜を、ルーナを殺すのは困難を極めるだろう。
だが……俺はどこまで行っても人間なのだ。
しかも魔王軍の魔族たちや、あの魔王と真正面からぶつかっていた生前のミカヅチのような、化け物じみた肉体も魔力も持っていない。
そうとも。
俺はどこまで行っても多少鍛えた人間という範疇を出ないし、それがルーナの恐れにも繋がっているのだろう。
こればかりはどうしようもないし、ルーナの様子も仕方がないというもの。
だとしても……それでも。
「ルーナ。聞いてくれ」
『……はい、なんでしょう』
「俺は人間だ。……何をどう頑張っても、いつかは長寿の古竜であるルーナより、早く死ぬ。だから……」
か細い声のルーナにそう伝えれば、彼女の体が一瞬硬直するのが腕を通して伝わってきた。
直後、ルーナの体が再び震え出す。
しかしそれは恐れからの震えではないと、すぐに分かった。
『……あなたは、私の話を聞いて。どうしてそんなにも平然かつ冷静に、そう言えるのです! まさかとは思いますが、あなたが今日魔神に敗れて死のうと、天寿を全うして死のうと。いつかは私より先に死ぬのだから諦めろとでも言いたいのですか! あなたは……!』
気が動転しているのか、ルーナは顔を上げて俺の両肩を掴み、怒気を込めて声を荒らげた。
『そんな単純な話ではないでしょう! 私とあなたの関係は、積み上げてきたものは! 私は、あなたが死ぬ時は私もとさえ思っていたのに。あなたは違うと言うのですか! ただ一人先に逝っても、私が何も思わないとでも!』
今の言葉を聞いて、俺が倒れた時、魔神ノルレルスに挑もうとしたルーナを思い出す。
──どうもこうもないでしょう。愛しい相棒の命を奪った者が目の前にいるのです。ここで抗わねば、仇を討たねば、古竜として生を受けた意味がない!
……ルーナの言葉は、俺が死んだら自分もというのは、きっと真実だ。
今度俺が本当に殺されたら、彼女は再度ノルレルスに挑むのだろう。
その末、最悪の場合は殺されてしまうかもしれない。
……あくまで、もしも俺が死ねばといった話だが。
「違う、早とちりだよ」
『……へっ?』
再び固まったルーナを、俺はもう一度、強く抱きしめた。
……抱きしめた体から鼓動と熱が伝わってきて、それがルーナの命を思わせた。
「俺が今日死のうが寿命で死のうが……なんて思っちゃいない。それに俺たちの間柄はルーナの言う通りに単純じゃないし、相棒って肩書きはそんな軽いものじゃないと思っている」
『それなら、あなたは何を……?』
問いかけてきたルーナに、俺は「逆だ」と答え、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
ルーナの瞳は潤んでいて、目尻には涙が浮かんでいる。
そんな彼女に、俺は……俺の心を、思いを語る。
「……何をどう頑張っても、俺はルーナより早く死ぬ。だから今日死んでも構わないんじゃない。ルーナの一生からしたら、短い間しか側にいられないからこそ……こんなところじゃ死ねないんだ。俺が話そうとしたのはそういう話だ。……ルーナ。俺は絶対に死ねないし、だから死なない。どうか信じてくれ」
『ですが、あなたは一度……』
「ああ、負けたさ。何事もなければ確実に死んでいた。だからいくら死なないなんて言ってもルーナに不安が残り続けるのは分かっている。それでも……それでも。約束するよ。必ず一緒に竜の国へ戻ってくるって」
『……。…………』
ルーナはただじっと黙って、俺の胸元に額を押し当て、腕の中で静かに呼吸を繰り返すだけだった。
けれどある時、俺の体を抱きしめ返してくれた。
『本当に……。ヴァーゼルに単身で向かって行った時といい……いいえ。そもそも、出会った当初、本気で威嚇していた私に一人で向かってきた件といい。冷静に見えて捨て身で、向こう見ずなところのある人です。……でもだからこそ、私は今もこうして生きているのでしたね』
ルーナは体を離し、こちらを覗き込むようにして見つめてきた。
目の下には涙の跡が残っているものの、声にも表情にも、もう不安は残っていなかった。
『あなたを信じるのも相棒の務め。……そうでした。レイドが私の力を疑わないように。私もあなたの力を疑ってはいけなかった。か弱い人間の命と、侮ってはいけなかったのでしたね』
それからルーナは立ち上がり、俺に手を差し伸べた。
『行きましょうか、そろそろ正午です。……見せてやりましょう、魔神ノルレルスに。私の信じるあなたの力を。あなたの信じる私の力を。そして切り拓きましょう。私たちの未来を』
「そうだ。俺たちは生きるために奴を倒しに行く。死にに行く訳じゃない。……頼むぞ、相棒」
ルーナの手を取って立ち上がれば、ルーナは『当然』と答えてくれた。
『あなたを導く翼になりますとも。本当の意味で、どこまでも』




