72話 暗雲
カルミアが現れてから既に、一つの季節が過ぎ去ろうとしていた。
彼女はもう、立派に竜の国の一員として過ごしている。
一緒に古竜の鱗を磨いたり、木の実や野草の採集に出かけたり、マタタビパン作りに挑戦してみたり……。
猫精族の赤子たちもカルミアの顔を覚えたようで、彼女が近付くと笑うようになっていた。
そして魔物の心を読めるカルミアにとっては赤子の心を読むのも造作もないことなのか、赤子たちが泣くといつもほしいものを的確に与え、泣き止ませていた。
猫精族の親たちもカルミアの活躍ぶりに、何度も助けられたと言っているほどだった。
……ただ、肝心のカルミア自身の記憶は未だに戻ってはいない。
最近のカルミアはどこか吹っ切れた様子で「いいの。良い思い出も戻らない代わり、嫌な思い出だって戻らないでしょ?」と話していた。
とはいえ本当にこのままで良い訳もなく、本格的にカルミアの記憶をどうにかするべきかなと、俺はルーナの咆吼を通して神竜帝国にいる空竜のフェイたちと相談を行っていた。
竜の咆哮は山々すら超え、互いの元へと届くのだ。
「……ってことでさ。神竜帝国の宮廷に忍び込みつつ、医術師に接触できるタイミングはないか?」
『少し待ってくださいね』
古竜の姿のルーナが咆吼を飛ばすと、数十秒ほどしてから、
『フェイたちから返事が届きました。夜分であれば可能ではないかと。前もってレイドが神竜帝国の第一区に忍び込み、フェイたちが竜舎から出て咆吼を上げ、周囲の気を引いた直後ならば。宮廷へ忍び込むのも可能ではといった話しです』
俺の耳には遠方からのフェイの咆吼は届かなかったものの、聴覚の鋭いルーナには十分聞こえたようだ。
ただし、フェイからの返事を聞きつつ、少々難しいかと判断する他なかった。
確かにこの手なら宮廷には忍び込める可能性はある。
でも兵たちに見つからずに医術師に接触できるかは運次第だ。
それに俺が向こうに戻ったと露見すれば、あの悪辣な皇帝を刺激することとなり、また面倒を引き起こす可能性も考えられる。
フェイたちを巻き込む可能性もある以上は、どうしても全てを秘密裏に済ませたいが……。
──カルミアのためとはいえ、流石に難しい。
神竜帝国の宮廷に勤める者たちは基本、各分野に秀でた帝国最高峰の専門家なので、頼れるなら彼らを頼りたかったものだが、これではどうしようもない。
こうなったら記憶を戻す手段を知る、または記憶喪失の原因を確かめる方法を探れる医術師を、イグル王国で探すのも手だ。
「ルーナ、フェイたちにありがとうって伝えてくれ。今後、また相談するかも、とも」
『分かりました。ではそのように』
ルーナが再び咆吼を神竜帝国へと飛ばす傍ら。
俺は古竜たちや猫精族のくつろぐ周囲の草原を見回してから、ルーナに問いかける。
「そういえば肝心のカルミアがどこに行ったか、知っているかい?」
『いいえ、聞いていませんが……。恐らくはあの湖に行ったのではないでしょうか。ケルピーの様子を見に、ロアナやミルフィと定期的に通っているようでしたから』
じきに昼食の時間帯だが、三人はそれまでに戻ってくるだろうか。
「遅いようなら昼食を持って行ってやるのもいいかな」
呟きながら、俺は空を見上げた。
今朝から晴れ渡っており、歩いて向かうのにも良い天気に思えた……ものの。
渓谷と渓谷の間、山向こうから暗雲が迫ってきているのがちらりと見えた。
──これは一雨来るかもな。三人と合流するまで天気が保ってくれればいいけれど。
***
「待ってロアナ! ……もう、相変わらず走るの速いわね!」
山道に等しい、木の根や岩で足場の悪い道を、ロアナはするりと抜けるように駆けてゆく。
猫精族というのは子供でもあんなに身軽に動けるのか。
体力だって私からすれば無尽蔵に思えた。
──というか、種族的にもロアナがああやって身軽にぴょいぴょい動けているのは納得できるけれど……。
「……カルミアもそろそろ、もっと体力を付けるべき」
全く息の上がっていないミルフィについては、本当に水精霊のお姫様? と突っ込みたくなる。
私の体力がないだけなのかと思ったけれど、いや、そんなことはない……と思いたい。
……思えば、ミルフィは定期的にロアナと修行と称して戦っているけれど、あれは明らかに子供の修行とか手合わせとか、そういう次元を大幅に超えているものだ。
ロアナの素早さは目で追うのが困難なほどだったし、魔法主体で戦うミルフィだって、場合によっては体の動きでロアナの一撃を躱すのだ。
過去の記憶がないのであまりはっきりとしたことは言えないけれど、多分、ロアナとミルフィの体力は他の人型種族の子供の比ではない。
レイドの引き気味な反応を見た限りでもきっとそうだろう。
そんな二人に付いて行っているのだから、私が疲れないはずがないのだ。うん。
「ごめん、ちょっと休むわね……」
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、私は一度立ち止まって息を整える。
木々から差し込む日差しは強く、それが時の経過も感じさせた。
──私が竜の国に来た頃はまだ、こんなに暑くはなかったもの。季節が変わったとなれば、それなりに長く竜の国にいるのよね。
そんなふうに思っていると、ミルフィが肩をつんつんと突ついてきた。
「……休憩終了。早くしないとロアナを見失う」
「わ、分かったわよ。頑張って歩くから」
「……違う」
「えっ、何が?」
「……歩くんじゃなくて走って」
──容赦ないわねこの水精霊⁉
しかも普段通りの真顔でああ言うのだ、まだ息の整っていない状態の私に!
仕方なく小走りで移動すると、先に目標の地点に到着していたロアナの背中が見えてきた。
するとロアナは「あ、やっと来た!」と猫耳を立てた。
「カルミア様もミルフィも遅かったね! ……カルミア様、息が荒いけどどうかしたの?」
「な、なんでもないわよ、これくらい……!」
「……なんでもある様子だけど」
──それはミルフィが急かすからよ……っ!
ミルフィの冷静な一言に、そう喉から出かかったけれど、ぐっと堪えた。
懐いてくれているロアナの前で弱音を吐きたくないといった思いが勝ったからだ。
ただし後で、次から歩いて行こうと二人に提案しようと心に決めた。
ミルフィは私の、恐らくは体力についてまだ何か言いたげにしつつも、視線を前方へ向ける。
私たちが今いる場所は湖に近い茂みで、視界には澄んだ青空と湖がいっぱいに広がっている。
そしてその中に、巨大な水棲馬、ケルピーの親子が佇んでいた。
「……よかった。子供も無事に大きくなっている」
そう話すミルフィはどこか嬉しげだ。
最近、いつでも真顔に見えていたミルフィの表情の変化が、少しずつ分かってきた。
今は微妙に口角が上がっているので多分笑っている……と思う、見間違いでなければ。
「ミルフィ、やっぱり水精霊のあなたからすれば、ケルピーの子が育つのは嬉しいの? 同じ水を操る種族同士だから」
聞いてみれば、ミルフィは「……そうかも、しれない」と曖昧に答えた。
「……私にもよく分からない。ケルピーは魔物で、魔族に率いられていたとはいえ、魔物は私の故郷を滅ぼした。だから魔物はあまり好かない。でも……」
ミルフィはケルピーの子を見つめたまま、
「……どんな種族でも、子供が育つのは良いことだと思う。ただ、それだけ」
「うんうん、そうだよね。それにあの子、可愛いもん!」
ロアナは明るく言いつつ、やはりケルピーの子供を眺めていた。
「二人の言う通りね。子供が育つのはいいことだし、ケルピーの子は可愛いもの。それで三人揃って様子を見に来ているんだから」
ケルピーの子供は母ケルピーにじゃれつき、母ケルピーはそれを慈しむように見守る。
私たちはしばらくそんな光景を眺めていたものの、不意に陽光が陰ったのに気付いた。
見上げれば、空には重たい暗雲が立ちこめ、陽の光を遮っていた。
「潮時かな、そろそろ行きましょうか。雨が降る前に戻らないと」
「……昼食もある。その意見には賛成」
「じゃあ、急いで帰ろう! 帰りは競走でもしない?」
無邪気なロアナの提案に、ミルフィは「……乗った」と短く返事をする。
さらに二人はじっと私を見つめてくる。
……まずい、このままでは私の体力が間違いなく保たない。
どうやって競走を回避しようかと全力で考えていると……。
『ヒュルル、ルルルルル……!』
天を見上げ、母ケルピーが低く嘶く。
強く警戒した気配は出会った当初を彷彿とさせた。
子ケルピーは母の腹へと不安げに寄り添う。
親子は何を感じたのか、次の瞬間には湖に潜っていった。
水棲馬らしい素早い泳ぎで、巨体が一気に視界から消える。
……同時、全身が氷漬けになったかのような悪寒が駆け巡った。




