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22●おしまいに……神様はかく語りき


22●おしまいに……神様はかく語りき



 『崖の上のポニョ』(2008)には、人智を超えた巨大スケールの神様が堂々と姿を現します。

 世界の自然の摂理を代表するかのような、女神グランマンマーレ。


 グランマンマーレは、人間になりたいと願うポニョ……本名はブリュンヒルデ……と、ポニョが大好きになった少年・宗介に解決をもたらします。

 しかし、そこにはポニョと宗介の合意、そして魔法の時間が終わることのほかに、なんら条件も取引も発生しません。

 人類に命令も処罰もしない、“無邪気な自然神”なのです。


 ポニョとも呼ばれるブリュンヒルデは、魚でいるか、人間になるのか……

 アンデルセンの童話ですと、魚と人間の狭間に引き裂かれて苦しみますが、ポニョはそうではありません。

 宗介とポニョも、一切の疑問も不和もなく、無邪気なほど素直に、神様の解決を受け入れます。

 神様とは本来、そういうものなのだ……と、作品は語っているのではないでしょうか。


 『崖の上のポニョ』の結末に、自然界と人類文明の相克はなく、神様と人間の対立もなく、ポニョ自身の心にも、人間になるか魚のままでいるべきか、という苦悩はみられません。

 人類と魚類、この異種間結婚は重大なタブーであり、その禁忌を破るためには罪深い魔法を使い、それゆえの罰が課せられる…という、西欧型人魚姫と、『崖の上のポニョ』は根本的に世界観が異なるのではないかと思います。


 ポニョに解決をもたらすのは、海洋を統べる女神グランマンマーレ。

 彼女はおそらく、過去・現在・未来を問わずあらゆる海という海そのものなのでしょう。

 冬将軍のグルンワルドと異なり、“海なる母”であるグランマンマーレは、津波を起こしても、人類を破滅させようとはしません。

 なぜならば……


 人間の体内にも、海があるからです。


 作品の中で、魔法使いフジモトは、太古の海をよみがえらせようとしています。

 目的はおそらく、現代の汚い海を浄化すること。

 多少の手違いはあったものの、太古の海は復活して、大海を覆い尽くします。


 しかし、海は、それだけではありません。

 人体の成分は六割以上が水で、その血液を含む体液には、人類の遠い祖先が海から陸に揚がって生活を始めたときの海水の塩分濃度が、今も保持されているといいます。

 それが本当かどうか、私(筆者)に科学的な証明能力はありませんが……


 人は体内に、今も太古の海をたたえている……という考えには、とても共感します。


 としますと……

 太古の海で、あるとき必要に迫られて、一部の魚が陸に上がって生活を始めました。

 3憶6千万年前のことといいます。

 思えばとんでもない年月ですが、それだけの時を経て、私たち人類の今があることも確かです。

 3憶6千万年の歴史が、細胞の中に秘められている。

 私たち人類の祖先が、火を使い始めたのは、わずか50万年ほど昔といわれていますから、ざっくりと纏めれば、とにかく三億数千万年かけて、“魚が人になれた”ということですね。

 そんな、私たちの体内に、まだ、太古の記憶を残した海が波打っているというのです。


 さて人間は、母親の胎内から、“十月十日”の出産期間で生まれてくると申します。

 お母さんのお腹の中にも、太古の海があるのですから、いわば、三億数千万年前の記憶をたたえた“母の中の海”で、細胞が育つことになります。

 そのさい、ひとつの細胞から赤ちゃんの姿に成長する間、その肉体は、太古の海の魚から人類に至るまでの、三億数千万年の進化を、ひととおりなぞるように、変身しているのだ……とも言います。


 三億数千万年の進化を十月十日に縮めて、私たちは生まれてくる。

 体内に、太古の海をたたえたまま……


 作品中で、ボートに乗った母親が赤ちゃんを抱え、母乳を与えようとする場面があります。

 前後の説明がなく、唐突で違和感のある場面に見えますが……

 周囲に広がる太古の海、その中で、太古の海を体内にたたえた母が、やはり太古の海を体内に宿らせた赤ちゃんにお乳を上げる……と考えれば、すんなりと理解できます。


 赤ん坊が母親のお乳を飲む行為は、免疫機能だけでなく、太古の海を母から子へ引き継ぐ意味もあるんですね。


 そしてこのお母さんを、そのまたお母さんのお母さんへ……と、はるかにさかのぼれば……

 行き着くのは、海なる母、グランマンマーレ。

 人はそもそも海の一部であり、同時にグランマンマーレの一部でもあるのです。


 魚のポニョが人間になる、という願いも……

 人が、“内なる海”を自覚して、“外なる海”と真摯に語るならば、答えはおのずと出てきますよ……と作品は語っています。

 悩むような問題じゃないよ。人間も魚も、もとは同じなんだからさ……と、ポニョことブリュンヒルデは教えてくれるのです。


 ポニョは一瞬で、人間になれます。

 三億数千万年の歴史を、一瞬で飛び越えて……

 人間の子供として、この世に誕生します。


 見事なほど無邪気で明瞭な解決が、ここに提示されています。

 素直に考えよう。悩むことはないじゃないか。


 三億数千万年を背負って、一瞬で誕生した新しい命、この誕生を祝福しよう。

 作品のラストシーンから伝わるメッセージは、ものすごくシンプルでハッピーです。


 “誕生を寿ぐ我らは、幸いなるかな”


 これは、神の声に近い……と思います。


 これが、50年前、1968年の“引き裂かれたヒルダ”と、10年前、2008年の“ブリュンヒルデ”に対して、“無邪気な自然神”が出した、かなり決定的な答えのように思えます。


 自分自身の中にも、太古の自然が宿っていることを知り、その“内なる自然の声”を聴く耳を持ちさえすれば、最も良い生き方が見えてくるはずだ、と。

 それが正しい道であるか否かを計るバロメータは、とてもシンプル。


 新しい命の誕生を、心から祝えるかどうか……なのです。


 『太陽の王子ホルスの大冒険』から『崖の上のポニョ』まで、その間隔はちょうど40年。

 引き裂かれたヒルダの苦悩は、これで解けたのでしょうか?


 人と自然が対立する方程式に、“神様”の項を導入することで、『崖の上のポニョ』は見事な解を見出しました。

 では、『太陽の王子ホルスの大冒険』では、どうなのでしょうか?

 じつは、自然神を置くべきポジションには、悪魔グルンワルドが居座っているのです。

 後年の『もののけ姫』なら、シシ神に並んで、神様に昇格してもいい“冬将軍”なのですが、哀れ、悪者のレッテルを貼られて人類の敵にされてしまいました。


 ここが『ホルス……』の、一筋縄ではいかないところです。

 作品の物語構造において、悪魔と神様は同格なのです。

 アインシュタインの方程式E=MCの2乗のように、悪魔と神様はイコールで結ばれる存在ではないか……という、ちょっと、トンデモな設定。


 なるほど、グルンワルドは神様とはいえません。

 しかし100%悪魔と断定するのには無理があります。

 冬は生きものを凍えさせ、死に追いやることがあります。

 しかし春が来れば、雪解け水が野山を潤して、生命を育みます。

 完全悪……とは、言い難いのです。


 ならばグルンワルドは、悪魔と神様の両方に相転移する、超自然の存在、とでも言うべきかもしれません。

 しかし、最後にホルスの“太陽の剣”で殺されてしまったので、グルンワルドの本当の正体は、ついに、未解明のままで終わった……というのが実情でしょう。

 『ホルス……』の物語は、グルンワルドを憎むべき悪魔としながらも、それだけで良しとはしなかったのです。


 『ホルス……』の作品の原典は、アイヌユーカラに発します(RAE148頁)。

 古き伝説の歌物語から、膨大なイマジネーションの加減乗除を経て、物語の形が決められました。

 このとき、善でもなく悪でもない、素朴で無邪気な自然神のエッセンスが少しばかり、隠し味として残ったのではないでしょうか。


 さて、『太陽の王子ホルスの大冒険』には、悪魔と人間が登場しています。

 では、神様はどうなのでしょうか。

 具体的な神様の姿は見えません。

 しかし、神様はたしかに存在しています。


 “唄”の中に。


 まず一か所、“ヒルダの子守唄”(RAE60頁)に登場しています。

 そしてもう一か所、“こどもの唄” (RAE63頁)にも登場しています。


 後者では、“神様”でなく“お日さま”ですが、作品世界で太陽が信仰の対象であることは、ピリアに婚礼衣装を着せつけている建物の扉に描かれている太陽の絵や、二人の婚礼の場面の夕日から想像されます。

 “お日さま”も神様なのです。


 歌詞は再録しませんが、どちらの唄も、動物たちがトラブルを起こしたときや、このままではヤバいと思わせるアクシデントを想定し、それに対する神様の“なさり方”を歌っています。


 “ヒルダの子守唄”の神様は、寝かしつける歌詞から、夜の神様と思われます。

 こちらの神様は、動物たちのトラブルを断罪し、厳しい罰を与えます。

 神様のセオリーは、“因果応報”の法則です。

 罪には必ず罰を……これはまた、ヒルダの心を支配する想いでしょう。

 自分を迫害し、悪魔の世界へ追いやった、醜い心の人間に対する断罪の心。

 しかしそんな人間たちを戦わせ、死へ追いやって来た自分の罪も、いずれ裁かれねばならない。

 神に審判される、その時が来たら、罰を受けよう……と。


 “こどもの唄”の神様は、お日様ですから、昼の神様と思われます。

 こちらの神様は、動物たちのアクシデントを、高い空から見守るだけです。

 どうやって解決するかは、みんなで考えてごらん……とばかりに、自主解決を促します。

 そのかわり、神様は見ています。

 日の光があまねく地上を照らすように、あたたかく、すべてを見守っています。

 こちらのセオリーは、“天網恢恢、祖にして漏らさず”でしょうか。

 この唄は言外に、こう諭しています。

 ……“さあ、どうかな。暴力的に解決するか、平和的に解決するか、それとも見て見ぬふりで、何もしないでいることもできる。でも、そんなあなたを、いつだって、お日様は微笑んで見ているんだよ”……と。


 夜の神様が悪で、昼の神様が善ということではありません。

 どちらの神様も、夜と昼のように、私たちの頭上を回っておられるということでしょう。


 きっと、これが、『ホルス……』の物語すべての、本当の結論なのです。


 “こどもの唄”は先の“ヒルダの子守唄”と美しい対称をなしています。

 暗い夜の神と、明るい昼の神。

 どちらの神様を信じるのも自由であり、どちらの行動規範に従うのも自由ですよ、と。

 子供たちは、この唄をうたいながら、ヒルダに教えてくれるのです。


 “こっちの神様もあるんだよ”と。


    *


 西暦2013年、再びヒルダが銀幕に登場しました。

 高畑勲監督の遺作となった『かぐや姫の物語』です。


 月と地球、二つの世界の文明の“掟”に挟まれて、引き裂かれ、身も心もすり潰して苦悩する姫の姿は、もう一人のヒルダといっていいでしょう。

 21世紀の、“かぐや姫”のヒルダは、すべてをあきらめて、月世界へ昇っていきました。

 人の手の届かない世界へ。

 これは“あの世”と同じです。

 八月十五日、日付的には旧盆の期間に、月からの迎えを得て、天空へ昇る姫。

 もう一つの、“死”の形ともいえるでしょう。

 それは永遠の別離。

 しかし、最後の最後に、高畑勲監督は、原作にない、美しいカットを残されました。


 月から無垢な眼差しを送る、“たけのこ”の愛らしい姿。


 いつの日か、彼女は……

 地球のことを、何かのきっかけで、思い出すかもしれません。


 『かぐや姫の物語』は、ヒルダへの鎮魂歌でもあり……

 そして、監督からこの世界すべてに贈られたオマージュではないか。

 そのような気がしてなりません。


     監督へ、感謝を込めて。




                            【おわり】




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