第13話:引き出しの奥(下)
深緋の声は、いつも通りだった。
月草は、その横顔を見ていた。深緋は紙を見ている。読んでいる。ばらばらの言葉を、ひとつずつ目で追っている。眉間に皺が寄っているけれど、任務の時のものとは違う。何かを、思い出そうとしている顔だった。
「ナナ……第七、って書いてある」
「うん」
「旧集落。……あ、ここ消してある」
「うん」
「獣害、って。それから、矢印。紋様。……伝承?」
「そう書いてあるね」
「セイラン、こういうの、好きだったよね」
鶸が、紙の上に指を置いたまま、軽く言った。
深緋は、紙の右下の隅にある、丸で囲まれた小さな文字を、指で示した。
「これ、何だろ」
「読めない。半分にじんでる」
「うん」
「コキア、わかる?」
「……わかんない」
月草は、二人が紙を見ている横で、自分の膝の上に手を置いていた。何か言うべきなのか、それとも、黙っているべきなのか、わからなかった。
「ツキ」
深緋が、月草を見た。
「あの、はい」
「これ、どこにあったの?」
「えっと、引き出しの、奥です。机の。消しゴム取ろうとして、引き出しを引いたら、外れて、その奥に挟まってて」
深緋はうなずいた。引き出しがあった暗がりを、ちらりと見る。
「回収され損ねたんだ」
深緋が、ぽつりと言った。
「セイランがここ出ていく時、大人がぜんぶ持ってったから。机も空っぽになってた。でも、奥に落ちてたから、見つからなかったんだ」
月草には、深緋の話す言葉の意味のすべてはわからなかった。セイランという人がどんなふうにこの部屋を出ていったのか、月草はその場にいなかった。大人が机を空にしたという話も、知識としては聞いていたけれど、見ていない。
けれど、深緋が「回収され損ねた」と言った時の、ほんの少しほっとしたような声。見つからなくてよかった、と深緋は思っているのはわかった。
「コキア、これ」
鶸が、紙の一点を指した。獣害、と丸で囲ってあるところ。
「前に、セイランが資料室で見てたやつじゃない?」
「……たぶんね」
「あの時もこういうの書いてたよねー。ノートにめっちゃ細かく」
「うん」
二人は、月草の知らない時間の話をしていた。月草は、その話に入れない。けれど、入れないことを寂しいとは思わなかった。それよりも、二人がその紙を扱う手つきが、あんまり丁寧だったので、月草は息を止めるみたいにして見ていた。
深緋が、紙の皺をもう一度伸ばした。折れ目のついたところを、爪でそっと押さえて、平らにしようとする。けれど一度くしゃっとなった紙は、完全には元に戻らない。深緋は、それ以上は無理に伸ばさなかった。
「ねえ、コキア」
月草は、思いきって聞いてみた。
「これ、大事なもの、ですか。そうでしょう?」
深緋が、月草を見た。少し俯いて息を吸って吐いた。
「うん。たぶん、大事」
深緋は、紙をもう一度見下ろした。
「セイランが、途中まで考えてたやつだと思う。最後まで書いてない。でも、途中まで考えてたんだ」
月草は、うなずいた。意味の全部はわからなくても、「途中まで考えてた」という言葉が、なんとなく胸やお腹にあたりに、しんとした感触で伝わってくる。最後まで終わっていないものが、自分の引き出しの奥に挟まったまま残っていた。それだけで、月草は、会ったことのないその人のことを、ちょっとだけ近くに感じた。
「コキア、これさ」
鶸が言いかけて、止まった。
「……大人に出す?」
「……出さない」
深緋はしばらく黙ってから、そう言った。
「これ、出したら、たぶん持ってかれる。それで、終わりにされちゃう」
深緋は、紙をていねいに、元の折れ目に沿って畳んだ。最初に折られていた通りに。
「セイランが途中まで考えてたやつを、勝手に終わりにされたくない」
鶸が、ふっと息を吐いた。
「だよねー」
「うん」
「ボクも、出さなくていいと思う」
「だから、しまっとこう」
深緋は、畳んだ紙を手のひらにのせて、少し考えた。机の引き出しは、外れてしまった。元に戻せば使えるけれど、また同じ場所に入れるのは、なんとなく違う……。
「ツキ」
深緋が言った。
「はい」
「これ、ぼくがしまっててもいい?」
「あ、はい、もちろん」
「うん。ありがとう」
深緋は立ち上がって、自分のベッド脇の小さな引き出しを開けた。そこには、深緋の支給品の予備や、訓練の記録帳が入っている。三人とも、それぞれ持っている引き出しだ。秘密の場所、というほどではない。けれど、大人が日常的に開けるところでもない。
深緋は、その引き出しの記録帳の間に、畳んだ紙を挟んだ。記録帳を上に重ねて、引き出しを閉める。
「ここなら、すぐ捨てられたりしない。ここにしまっておくから。ツキも覚えてて」
深緋は、鶸と月草に言った。
月草は、うなずいた。胸のあたりの、しんとしたものが、少しだけあたたかくなった。自分が見つけてしまった秘密が、三人のものになった。隅っこにいさせてもらえた気がした。
「ツキ、その引き出し」
深緋が言った。月草は、はっとした。
「あ……」
すっかり忘れていた。月草は、外れた引き出しを両手で持って、机に戻そうとした。けれど、はめる向きがわからなくて、「あれ」としばらく机の前で固まった。
「逆」と深緋が言った。
「こっちが奥」
深緋が手を添えて、引き出しの向きを直してくれる。レールに合わせて、すっと押し込むと、引き出しは元の場所に収まった。
「ありがと、コキア」
「うん」
鶸はようやく、いつもの鶸に戻りはじめていた。
「ツキが引き出しぶっ壊さなかったら、見つかんなかったね」
「……壊してないもん」
「もうちょっとで壊れたかも?」
「外れただけ、です」
鶸が、大きくあくびをした。
「もう寝よーかな」
「ヒワ、絶対、課題終わってないと思うけど?」
「終わってるかもしれない」
「それは終わってないやつでしょ」
「なんでわかるかなー」
月草は、こっくりこっくりしながら宿題を終えて、なんとか毛布に潜り込んだ。
部屋の電気を、深緋が半分落とした。深緋と鶸の手元灯だけが、白くついている。任務のことも、検査のだるさも、まだ月草の体のどこかには残っていた。けれど、それよりも、さっきの紙のことが頭の隅にあった。
会ったことのない人が、途中まで考えていたこと。それが、引き出しの奥に挟まったまま、ずっとここにあったこと。今日、自分がそれを見つけてしまったこと。そして、それが、自分も入れてもらえる三人のものになったこと。
「コキア」
暗がりの中で、鶸の声がした。
「なに」
「セイラン、元気かなー」
「……知らない」
「だよねー」
それきり、鶸は静かになった。深緋も、何も言わなかった。
月草は、目を閉じた。深緋の引き出しの中で、皺だらけの紙が、記録帳の間に挟まっている。明日になっても、たぶん三人は食堂へ行って、訓練をして、また検査を受けて、生活を続けるのだろう。
ただ、いなくなった人の途中だったものが、部屋の中に残った。大人に渡されず、捨てられず、三人の手元に。
それだけのことが、月草にはなぜだか、悪くない夜の終わり方に思えた。
「おやすみなさい」
月草は、小さく言った。
「おやすみー」
「おやすみ」
手元灯の白い光の中で、部屋は少しずつ静かになっていった。
(了)
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