第03話:欠員補充(下)
翌日、織部の付き添いで中央棟の資料室に行った。
鶸は、朝にはもう元気を取り戻していた。検診の翌日は大体そうだった。朝食ではパンをおかわりして、織部が苦笑していた。
「昨日あれだけ残したのに」
「あ! そういえばケーキ出るって聞いた!」
「あれは……全検査の後とか。特別な時にね」
「えー!! ねえ! コキア?」
すっかり忘れてくれると思っていたのにな、と深緋は「かもって言ったじゃん」とニヤニヤしながら逃げた。
資料室は中央棟の三階にあった。
扉を開けたとき、最初に古い紙の匂いがした。深緋はそれが好きだった。少し乾いていて、少し甘い、不思議な匂いだった。
部屋は広く、大窓から光がよく入っていた。日陰には天井近くまで本棚がずらりと並んでいる。机がいくつか置かれていて、奥の方に受付がある。先客は一人いた。中央棟の軍服を着た大人で、机の上に本を積み上げて何か書きものをしていた。
「自由に見ていいですよ。貸し出しは私を通してくださいね」と織部が言った。
青藍はすぐに奥の棚に向かった。地誌や集落の記録が並んでいる区画だった。背表紙の文字を目で追いながら、何冊かを抜き取っていく。慣れた手つきだ。
深緋は受付に行って、紋様集の新しいものを頼んだ。
「前回と同じようなので大丈夫?」
「はい。あと、できれば植物のが多いのがいい」
「ありますよ。少しお待ちくださいね」
写しを待つあいだ、深緋は近くの棚を眺めた。丸い文字、四角い文字、糸を引いたような細長い文字。読めなくても、知らない言葉の本が並ぶ棚は好きだった。
「コキアー、ここ静かすぎ」
「資料室だから」
鶸は棚の間をぶらぶら歩き、低い棚を覗き込んでいた。深緋が植物の葉を描いた新しい紋様集を受け取ったころ、鶸は隅の棚の前でしゃがみ込んでいた。
「ヒワ、どうしたの?」
「ね、これってなに?」
鶸が指差していたのは、大きな図鑑だった。古い本のようで、表紙の革はすり切れている。深緋はタイトルを見た。獣類の図鑑のようだった。
「動物の図鑑かな」
「開けていい?」
「いいんじゃない」
鶸はそのまま床に座って、図鑑を膝に乗せて開いた。最初のページを見て、「うわ」と小さく声を出した。深緋も覗き込んだ。
手描きの絵だった。色がついていて、毛の一本一本まで描き込まれている。見たことのない動物だった。長い首と、四本の細い脚。見たことがないのに本物みたいだった。
「コキア、これ何の動物?」
「ぼく、知らない」
鶸は目を輝かせながら、次のページをめくった。次のページにも知らない動物が描かれていた。鶸はしばらく黙ってページをめくり、深緋はその横にしゃがんでずっと覗き込んでいた。
「これ、どこの動物だろうね」
「わかんない」
「いまもいるのかな」
「わかんない」
鶸はそれでも、ページをめくり続けた。深緋はそういう鶸を見るのが少し珍しくて、しばらくその場にいた。
奥から青藍が戻ってきた。本を三冊抱えていた。
「コキアは写しもらえたか?」
「うん」
「ヒワは何してるんだ」
「図鑑見てる」
「図鑑?」
青藍が鶸の手元を覗き込んだ。鶸はページから目を離さずに「セイラン、ボクこれ借りる」と言った。
青藍は少し驚いた顔をしたが、「オリベに頼んでこい」と言った。鶸は図鑑を抱えて立ち上がり、織部の方へ走っていった。
「ヒワが本借りるの、初めて見たな」
「ぼくも」
「気が向くこともあるんだな」
「そうだね」
深緋は抱えていた紋様集を机の上に置いた。新しいページは、まだ全部白いままだった。指で表紙の金色のテープをなぞる。帰ったら、また塗ろうと思った。
青藍は机の反対側に座り、持ってきた本を開いた。今日はちゃんとページが進んでいる。深緋はそれを見て少し安心した。
遠くで織部と鶸が話している声がする。鶸の声が「えー、貸出期間二週間? 短くない?」と言っているのが聞こえた。織部が何かを答えて、鶸が「じゃあいい」と言った。深緋は呆れまじりにこっそり笑った。
*
鶸に勢いよく引っ張られて、食堂へ向かう。
「ねえコキア! 今日、絶対ハンバーグだよ!」
「鼻がいいね、相変わらず」
食堂には配膳の音、椅子を引く音、誰かの笑い声。鼻の良い鶸の言う通り、夕食はハンバーグだったが、付け合わせのにんじんを見て、いつもより少し長く皿の上を眺めていた。それから、半分だけ青藍の皿に押しつけた。
「半分はがんばる」
「がんばるって、お前」
「がんばる!」
「だからハンバーグはまかせてよ!」
「なんだそれは」
なんだそれ、と深緋も思いながら見ていた。
「だったら全部がんばれよなー」
青藍は笑いながら、にんじんを受け取った。
深緋はオニオンスープをゆっくり飲んだ。パンも一切れ取った。
隣のテーブルから、話し声が聞こえた。
「新しい子来るんだって」
「もしかしてこないだ保護された子?」
深緋はスープをすくう手を止めた。
「医療フロアにもう来てるらしいよ」
「ちっちゃいって聞いた」
「奥の空いた班に入るって言ってた」
会話はそれだけだった。話していた子たちは、すぐに別の話に移った。好きなメニューの話だった。
鶸が顔を上げた。目を大きく見開いている。
「セイラン、聞いた?」
「ああ」
「空いた班ってそれ、南六班じゃない?」
「さあな」
「だって、ムラサキがいなくなったところ、空いてるでしょ?」
青藍は返事をしなかった。
「もう次の子入るんだ……」
鶸はハンバーグをつついた。さっきまでよく動いていた口が、急に止まっていた。
「まだ南六班に入るって決まったわけじゃないだろ」
「でも、南の空き部屋って言ってた」
「ヒワ、声が大きい」
青藍に言われて、鶸は隣のテーブルをちらりと見た。話していた子たちは、もうデザートの話で笑っている。
「だってさー。ムラサキがいなくなったばっかりなのに」
「配置転換になったんだから、仕方ないだろ」
「それは知ってるけど」
鶸は口を尖らせ、ハンバーグを細かく切り始めた。
「知ってるけど、すぐ次の子入れなくてもいいじゃん」
「南六班だとしたら二人のままじゃ困るだろ」
「わかってるってばー」
声がまた大きくなり、青藍が「だから」と低く言った。鶸は不満そうに黙り込んだ。
深緋はスープの中の、溶けた玉ねぎをすくって、黙々と食べていた。
紫は昔よく、廊下ですれ違うと小さく手を振ってくれた。深緋はどう返したらいいのかわからなくて、そのたびに立ち止まって小さくおじぎをしていた。紫はいつもくすっと笑って、過ぎていった。
優しい人だったな、と思いだす。
でも、紫のいなくなった南六班へ新しい子が入ることが、悪いことだとも思えなかった。先日連れてきた子どもたちの誰かなら、なおさらだった。
「新しい子、南棟が嫌だったらどうするんだろ」
鶸が、今度はぽつりと小さな声で言った。
「まだ何も決まってないだろ?」
「そうだけどさー」
青藍が鶸の皿を見た。
「とりあえず食べろ。ハンバーグ冷めちゃうぞ」
「……にんじん、もう半分セイランにあげたからね」
「はいはい」
鶸はぶつぶつ言いながら、またハンバーグを口に運んだ。
*
夜、部屋へ戻ると、鶸はさっそく図鑑を床に広げた。上から覗き込むようにして、もう夢中でページをめくっている。
「貸出期間が短いんじゃなかったのか? ヒワ」
「二週間あれば見終わるかもなーって」
「さっきはそう言ってなかっただろ」
「さっきはさっき。今は今!」
「都合のいい言葉だな。それと古い本なんだから床で読むな。大切に扱え」
「んー」
鶸は反論せず、ただゆっくり立ち上がり、図鑑を眺めながらそのまま部屋の丸テーブルに移動した。椅子に座ると、すぐにまたページをめくり始める。
深緋は新しく受け取った紋様集を机の上に広げた。新しいページは、まだ全部白いままだった。どこから塗ろうか考えながら、色鉛筆を一本取った。
まだページは、たくさんあった。
(了)
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