第05話:適性低下(下)
翌朝の食堂は、いつも通りの音がしていた。配膳の音、誰かの笑い声、椅子を引く音。鶸はいつものように喋っていた。
「今日のにんじん、甘いやつだ!」
「同じだろ」
「ちがうー、色が濃いもん。甘いほうの色」
「色で味が決まるか」
「決まるよ?ボク食べれる!」
青藍が呆れた顔でパンをちぎった。鶸も自分のパンをちぎって、口に押し込んだ。深緋はクリームシチューに匙を入れた。
青藍が水を取りに席を立つと、鶸の目が一瞬だけそちらへ向いて、すぐにまたにんじんに戻った。
「コキア、今日も訓練だよねー?」
「うん」
「セイランも一緒だよねー?」
「当たり前でしょ」
「だよねー」
青藍がトレイを持って戻ってくる。鶸はちらりと見上げて、何事もなかったように、にんじんを口に運んだ。
「ヒワ、こぼすなよ」
「こぼしてないー」
その胸元にはスープが滴っていた。
「先にこぼれてからじゃ遅いんだよ」
「しょうがないじゃんー」
青藍が短く笑った。鶸も笑った。深緋は二人を見て、また自分の手元に視線を戻した。
食堂の入口から、東棟の制服や訓練服の集団が入ってきた。鶸はその子たちを目で追って、片手を上げた。向こうも片手を上げ返した。それだけのやり取りだった。
「東棟の連中、今日も早いな」
「ね。あいつら朝強いよね」
「お前が弱いだけだ」
「弱くないよー」
鶸は口をとがらせて、パンの最後の一切れを口に入れた。
青藍は自分のトレイを片付けながら、鶸のトレイも一緒に持っていこうとした。
「自分で持つー」
「こぼすなよ」
「こぼさないー」
鶸はトレイを両手で持って、ぺたぺたと返却口へ歩いていった。青藍はそれを横で見ていた。深緋は最後にスープを飲み干して、立ち上がった。
*
地下訓練室は、いつも通りの匂いがした。緩衝材と、少し湿った空気と、金属。緩衝材の中の魔力吸収層は、少しだけ深緋たちにはツンとした匂いに感じる。天井が高くて、声が少し反響する。施設の中では魔法は使えない。正確には、発動しないようになっている。でもここの訓練室だけは例外だ。
今日は他の班も入っていた。奥の方で、誰かが声をかけ合っているのが聞こえた。東棟の班らしい。一人が飛び損ねて、緩衝材に背中から落ちた。短い笑い声が起きて、すぐに静かになった。
壁際に朽葉が立っていた。三人が入ってきたのを目だけで確かめる。
「目印に並べ」
その一言で、三人は床の印に立った。
「鶸、軽く跳んでみろ。三度。まっすぐ。範囲を取るな」
「はーい」
鶸が両足で軽く床を蹴った。身体がふわりと浮く。一度目で、もう天井の半ばまで上がった。
「斜めになってるぞ」
「えっ」
「速度を上げすぎるな」と朽葉が鋭く言った。
鶸はもう一度跳んだ。が、飛びすぎた。天井にぶつかりかけて、そのまま落ちる。床の緩衝材が低く震えた。隅の訓練具が、ガタンと音を立てる。
「うわ」
奥で順番待ちの班の誰かがくすくす笑った。鶸は笑い声の聞こえたあたりちらと見て、また唇を尖らせた。
「力の流し方が荒い」
「荒くないー」
「荒い。丁寧にやれ。散らすな」
「はあい」
三度目はもう少し静かに跳んだ。朽葉は短く頷いて、補助に来ていた鉛白に合図して移動した。
「鶸はそのまま鉛白先生に見てもらえ。次、青藍」
「はい」
「目印を囲え。そして維持」
青藍は息を整えて、両手を前に出した。床の赤い印の周りに、薄い揺らぎが立つ。空気が少し歪んだように見える、その程度のものだった。青藍の障壁は、ほとんど目に見えない。破られるところを、深緋はあまり見たことがなかった。
深緋は青藍の揺らぎの時間を数えていた。前回に見たときよりも、少し短かった。
「青藍、維持を落とすな」
「……はい」
「もう一度」
青藍は短く頷いた。表情は崩れない。ただ、息は少し上がっていた。
その間に鶸はまた跳んでいた。今度は低く、横へ流すように。鉛白が「もう一度」と言ったが、鶸は着地してすぐに青藍の方を見た。
「ヒワ、こっち見るな」
「見てないー」
「見てたろ今」
「見てないー」
もう一度、鶸が言い返した。
鉛白は笑いながら、もう一度と次を促す。鶸は不服そうに跳びなおした。今度は天井までは暴発せず、まっすぐ垂直に上がった。
「鶸、良くなりました」
「やったー」
「でも油断大敵。ちゃんと訓練して」
「はあい」
褒められたと思ったのに、と鶸は不満げだ。
朽葉が、また三人の方へ戻ってきた。
「深緋」
「はい」
「炎でマークを囲え。三辺でいい」
深緋は床のマークに向き直って、息を整えた。
炎は、強く吹けば散る。弱く、長く、線を引くように。赤いマークの周囲三辺に、細い炎のラインが立った。膝ほどの高さもない。揺れずに、まっすぐ続いている。この炎を強くすれば生きているものは通れない壁になる。深緋の炎の柵は最も使うことが多い。
朽葉が一度だけ頷いた。
深緋は炎を消した。低い炎の柵は小さな緋色の光の粒になって溶けた。床のマークは、もとのまま、床も焦げていない。その後は鶸と一緒に飛行の精度訓練が続いた。
*
訓練が一段落して、片付けの時間になった。緩衝材の端を持ち上げて整える子もいれば、訓練具を所定の棚に戻す子もいる。
鶸は訓練具を一つ抱えて、所定の棚まで運んだ。が、途中で別の班の子と擦れ違って、急に方向を変えた。
「ヒワ、ぶつかる」
「ぶつかってないー」
鶸が言った先から訓練具の角が、棚の手前にぶつかった。青藍が後ろから手を伸ばして、訓練具を支えた。
「だから、自分の手元見ろって」
「見てる」
「見てない」
「見てる!」
青藍は鶸の手から訓練具を受け取って、棚の所定の位置に戻した。鶸は唇を尖らせたが、それ以上は言わなかった。深緋は緩衝材の端を整えていた。手の届く範囲だけ、何枚か。
壁際の長椅子に三人で座った。鶸が水筒の蓋を開けて、半分くらい一気に飲んだ。青藍はまだ自分の水筒を開けていなかった。深緋はその横で水筒の蓋を回した。
奥の班の片付けが終わって、子どもたちがぞろぞろと出ていった。誰かが「腹減った」と言って、別の誰かが「まだ昼前」と返していた。
「ボクも腹減った」
「お前さっき食っただろ」
「食べたけどー、また減った」
「燃費悪いな」
「燃費って?」
「お前のこと」
「えー」
鶸は青藍の肩を軽く小突いた。青藍は小突き返さなかった。
訓練室の扉が開いた。
織部だった。バインダーを抱えて、朽葉に短く何か言って、それから子どもたちの方へ顔を向けた。
「お疲れさま。水分、ちゃんと取っていますか」
「とってるー」
「鶸、一気に取りすぎないでね」
織部は笑いながら、鶸の顔を覗く。
鶸はその顔を見上げた。短い間があった。
「ねえオリベ」
「はい」
「セイラン、卒業しないよね?」
深緋は、自分の水筒の蓋を閉めようとした手を止めた。青藍も、隣で一瞬止まった。
織部は驚かなかった。少しだけ膝を折って、鶸の目の高さに合わせた。
「すぐではないですよ。配置転換を考える段階でもないですからね」
鶸はその言葉をしばらく頭の中で並べているように、黙っていた。
「……配置転換でもないってことは、まだまだ先ってこと?」
「ええ。今すぐ、ということはないですよ」
「ふうん」
それ以上は聞かなかった。鶸の顔は見えない。織部は立ち上がって、青藍にも軽く頷いて、訓練室を出ていった。扉が閉まる音が、思ったより大きく響いた。
「……ほらな」
青藍が水筒の蓋を開けながら、軽く笑いながら言った。
「だから言っただろ」
「うん」
「うん、じゃなくて、わかったって言え」
「わかったー」
鶸は言って、青藍の肩に額を押し付けた。
青藍は鬱陶しそうに「暑いな」と少し身体をずらしたが、押しのけはしなかった。
深緋は自分の水筒を見た。中はもうほとんど空だった。
(了)
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