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呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません  作者: 榛乃


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逢いたい人

「――またここにいらしたのね」


 不意に声をかけられ、シリウスはガーデンテーブルに頬杖をついたまま目線だけを動かす。白い石畳で舗装された路を、一人の女が歩んでくる。毛先に向かって緩くウェーブのかかった艷やかなブロンドの髪の毛、陶器のように滑らかな白い肌、アンバーのような深黄色の瞳、繊細な刺繍が裾の端々にまでたっぷりと施されたプラム色のドレス。


 かつん、と、ヒールの立てる音が静謐な温室内に響き渡り、澄んだ空気を微かにふるわせる。ゆっくりと歩み寄ってくる彼女は、悠然と踏み出されるその一歩すら実に優雅であり、流石は“光麗の至宝”と持て囃されるだけはある、と、シリウスは思う。だかといって、他の男どもと同じ様に、彼女を恭しく出迎える気はさらさらないのだけれど。


「アレンが探していましたよ」

「探してるふりをしているだけだろ。そうしないと色々面倒だということを、あいつは理解しているからな」


 傍らで足を止めたアメリアから視線を逸らし、シリウスは眼前に広がる瑞々しく茂った草花を見つめる。ぽってりとした肉厚の丸い葉、細い花茎の先に無数の花序を散らばせた白い小さな花、細長い葉を幾つもつけた青紫色の花、淡色の花や掌の形をした葉が特徴的な落葉低木。


 土の匂いがする。土と、水と、それからふくよかな緑の匂いと、甘く華やかな花々の芳香が。吸い込んだそれらは身体の端々にまで行き渡り、じんわりと広がって、まるで体の一部にでもなるみたいに溶けて消えてゆく。その感覚が、とても懐かしい、と思った。初夏の日差しを浴びて艷やかさを増す草花を眺めていると、尚の事。


「いつから植物がお好きになったんです?」

「べつに好きではないさ」


 そう言いつつも、しかしそれが“本当のこと”ではない気がして、シリウスは僅かに眉根を寄せる。花の名前が、草の名前が、木々の名前が分かるわけではない。右に生えている白い花とその隣に植わる白い花の区別さえつかないし、そもそもそれらが別種の花なのかどうかさえ彼には分からない。元々植物には興味などなかったし、それは今でも同じだ。植物図鑑を読み漁ったりはしていないし、麗しい花々の咲き乱れる庭園を歩き回ることもない。


 ただ――。小さな水の粒を貼り付けた薄紫色の花弁に視線を注いだまま、シリウスは小さく息をつく。植物に興味があるわけではない。植物が取り分け好きなわけでもない。けれどどうしても、ここへ足を運んでしまう。大庭園の一角に建つ、四方八方をガラスに囲まれた巨大な温室に。土と、水と、緑と、花の匂いが濃く漂うこの場所に。まるで何かに導かれるようにして。


「でも、いつもここにいらっしゃるではないですか」


 天井から燦々と差し込む陽光によって、辺りは柔らかな白光で淡く満たされている。撒水は疾うに終わったのか、水を撒くさわさわとした音も、人の気配もまるでない。アメリアが傍らにいなければ、この穏やかな光の中に溶けて、意識も何もかも渾然一体となっていただろう、と、僅かに目を細めながらシリウスは思う。そうなるといつも、“見える”のだ。“見える”というより、“感じる”と言った方が正しいだろう。それは分かっている。けれど、それでも“感じる”ではなく“見える”なのだ。瑞々しく艷やかな緑の傍らに、“何か”が佇んでいるように、或いはその“何か”が振り返って微笑んでいるように、シリウスには確かに“見える”。そもそも姿形があるわけでも、明瞭な輪郭があるわけでも、“何”とはっきり識別出来るわけでもないのだから、“それ”が微笑んでいるかなんて分かるはずがないのだけれど。


 “それ”を初めて“見た”のは、昏睡状態から目覚め、ある程度身体が動けるようにってまだ間もない頃のことだった。温室に行こう、と、そう思ったわけでは決してない。もちろん植物を見たかったわけでも、はたまた外の空気を吸いたかったわけでも。しかし何故だか、“そうしたい”という気がしたのだ。そうしたくてたまらない、という、強い衝動が込み上げて、それをどうすることも出来ずに、ただ足が赴くまま温室を訪れた。


 幸運なことに誰にも見つからず無事に辿り着いたそこは、今と同じく、あたたかな陽射しが辺り一面を淡く照らし、土の、水の、緑の、花の匂いが立ち込めていた。そこで、何かをしたかったわけではない。そもそも、“何かをしたかったのか”さえ、シリウスにはまるで分からなかった。取り敢えず、勝手に動く足に連れられるがまま路を進み、やがて小ぶりな白いガゼボに行き着いた。五本の柱と、蔓薔薇の茂ったパーゴラを被った、小ぶりな白いガゼボ。その中央に置かれた椅子に腰掛け、シリウスは周囲に植えられている草花を漠然と眺め遣った。白や薄紫の小さな花、たっぷりと葉を茂られた灌木、水を吸って程よく湿った土。


 それらを見つめているうちに、辺りに満ちる柔らかな白光の中に溶けてゆくような感覚がした。人間の身体が溶けるなど、劇物にでも触れない限り有り得ないのだけれど。それでも淡い光にやさしく包まれ、身体も、意識も、何もかもが渾然一体となるような、それはとても不思議な、そしてとても心地の良い感覚だった。


 暫くその光の中を揺蕩っていると、“それ”は突然、シリウスの目の前に現れた。ぼんやりとして、それを“何”と判ずるにはあまりにも朧気であったけれど。それでも“それ”は確かにシリウスの目の前に、ふわりと舞い降りるようにして現れた。もちろん、本当に誰かがそこにいたわけではない。けれどもシリウスは、目の前に“それ”がいるように見えた。やわらかな薄光の中に。“それ”はシリウスを見つめているように感じたし、そして、見つめながら幸せそうに微笑んでいるように見えた。現実には何もなく、姿形があるわけではないのに。それはただの空気で、光で、もしかしたら屈折の影響か何かでそう見えるだけなのかもしれないけれど。それでもシリウスには、“それ”が幸せそうに微笑んでいるのだと、何故だかはっきりと分かった。それはほぼ確信だった。


 “それ”に出会って以降、温室を――この小ぶりなガゼボを――訪れるのが、シリウスの日課になった。まだよろめきながらしか歩けなかった時でさえ、欠かすことなく。はじめのうちこそアレンは反対し、どうにか引き留めようとしていたけれど、今はもう諦めたのか何も言わなくなり、部屋を抜け出すことを黙認するようになった。


「まるで、“誰か”に逢いに来ているようですね」


 不意に耳に届いたやわらかな声に、シリウスははっとして目を見開かす。そうして傍らに立つアメリアの顔を見上げれば、彼女はまるで何かを察したようにやさしく微笑み、そうしてゆっくりと瞬いた。


「――いいえ、貴方は“誰か”に逢いに来ているのです」


 どくりと心臓が跳ね上がり、シリウスはアメリアのかんばせを見つめたまま、息を呑む。ただの当てずっぽうなのか、それとも彼女にも“それ”が見えているのか――。そんなわけがない、と、すぐに否定をしながらシリウスは顔背け、再び草花へと目を向ける。ここに植えられているのは殆どが薬草かハーブであるらしい。いつだったか、偶々出くわした庭師がそう言っていた。


「馬鹿なことを言うな」


 そう誤魔化すけれど、アメリアはふふっと朗らかに微笑むだけで、否定をすることも肯定をすることもない。彼女は元来そういう質なのだ。内側に秘めたものに触れるか触れないかのところまでそっと踏み入ってくるくせに、必ず寸前で足をとめ、そうして結局触れることはせずに、何事もなかったかのように微笑むだけ。それを、シリウスは彼女の“悪い癖”だと思っている。幼少の頃からともに過ごしてきたシリウスに対して、彼女のその“悪い癖”は特に遠慮がない。


「誰もいないだろう、ここには」


 “それ”ではなく、“誰か”――。彼女の言葉は妙にしっくりと胸に馴染み、シリウスは僅かに目を細める。確かに彼女の言う通り、“それ”はきっと“誰か”なのだろう。けれども何故かその言葉は、胸にぽっかりと空いた穴をより際立たせるような気がした。

 昏睡状態から覚めてからずっと、何かが足りない、と感じていた。何かが欠けているような、そんな気が。それが“何か”がまるで分からないのに、胸の中にはずっと、虚無感や喪失感のようなものが重たく沈んでいる。そしてそれを強く感じれば感じるほど心が疼き、ひどい焦燥感に襲われる。はじめは毒の影響かと思ったが、しかし考えるまでもなく、そんなはずはなかった。確かに何かが足りないのだ。足りない、欠けている。


 いったい何を? いったい誰を?


「そういえば、今、王都では私たちの婚約が話題になっているようですよ」


 もう一つのガーデンチェアに悠然と腰掛けながら、アメリアはくすりと笑った。鈴を転がすような声で。まるで他人事のように。


「俺は承諾していないぞ」


 苦虫を噛み潰したように顔を顰め、シリウスは深々と溜息をつく。

 魔獣の毒に冒され、どうにか一命を取り留めてから、ひと月。まだそれだけの時間しか経っていない上に、執務への本格的な復帰も出来ていない状態で、何故か婚約の話だけが急速に進められている。本人たちの意思などまるで関係なしに。


 どのみちいずれはそうなるだろう、と思っていた。他の葉に比して少しだけ色の薄い黄緑色の葉っぱを見つめながら、シリウスは娘に似て綺麗なアンバーの瞳をしたグランディール公爵の顔を脳裏に浮かべる。彼の一人娘であるアメリアは、シリウスと同い年に産まれ共に育ってきた、所謂幼馴染だ。もちろん公爵に何かしらの思惑はあっただろう。国王、ひいてはこの王国に厚い忠誠を誓っていることに偽りはないけれど、だからといって腹に一物を抱えていないというわけではない。貴族というのは総じてそういうものだ。無論、国を統べる王族もまた同じである。


 アメリアは婚約者にするには何もかもが申し分なく、国王も議会も反対することはないだろう。そうるすだけの理由がないのだから。――本人たちの意思を除いては。


「私だって承諾していませんわ」


 傍らから溜息のような吐息が漏れ、シリウスはちらと横目でアメリアのかんばせを一瞥する。“女神の生まれ変わり”と謳われるほど整った麗しい顔が、少しだけ不快そうに歪んでいた。彼女がそんな表情をするのは、珍しい。


 それも仕方のないことだ――。内心同情しつつ、シリウスは小さく息をつく。アメリアは昔から、同じ公爵家であるアレンに対して想いを寄せている。当のアレンがそれに気付いているのかは分からない。けれどもアメリアのその恋心は本物であり、故にどんな男に言い寄られても――それがたとえ他国の王族であっても――靡くことはない。愛しているの、と、いつだったか彼女は言っていた。熱く深い想いの滲んだ、とてもやさしい声で。彼のことを心から愛しているの、と。


 ――愛しています、シリウス殿下。


 どこからともなく声が聞こえたような気がして、シリウスはハッと目を見開く。慌てて周囲を見回すけれど、アメリア以外には誰の姿もない。けれどもその声は、彼女のものとはまるで違っていた。“聞こえたような気がした”だけなのに、何故違うと分かるのかは分からないけれど。それでも不意に鼓膜に触れた――ような気のする――その声のぬくもりに、心臓が激しく鼓動する。


「どうかしたのですか?」

「……いや、何でもない」


 深く吸い込んだ息を長く吐き出して、シリウスはゆっくりと腰を上げる。夕刻前に、国王の執務室を訪ねる約束になっていた。恐らくはアメリアとの婚約について話をするつもりなのだろう。婚約について、今まで急かされることは一度もなかったけれど、魔獣の件があって以来、両親ともども、“婚約”という言葉を頻繁に口にするようになった。

 それもまた仕方のないことだ、と、諦めのこもった溜息をこぼしながら、シリウスは苦笑する。“シリウス・エルヴァイン”は国王夫妻唯一の息子であり、王太子だ。彼より後の時代を担う世継ぎが産まれる前にその身に何かあっては、エルヴァイン一族の血は途絶えてしまう。国の未来を思えば、両親の考えは決して間違っていない。


 けれど――。未だ椅子に腰掛けたままのアメリアに背を向け、綺麗に整えられた白い路に足を踏み出しながらシリウスは思う。けれど、婚約をするのなら――。


 ――愛しています、シリウス殿下。


 耳の奥に、あまやかなな声が響き渡る。その声を、もっと聴いていたい、と思った。もっとずっと、心が幸福に満ち溢れるまで聴いていたい、と。


「“誰か”にお逢いしたいのであれば、お願いをすれば良いのですよ、殿下。どうかその人に逢わせてほしい、と」


 ガゼボから数歩離れたところで、アメリアは落ち着いた声音で、けれどもどこか楽しげにそう言った。


「誰に頼めと? アレンは何も言わなかったぞ」

「彼はやさしいですから。やさしいからこそ、口が堅いのです」


 肩越しに振り返ったシリウスの双眸を真っ直ぐに見据え、アメリアはふふっ、とあでやかに微笑む。その顔は正に、女神の生まれ変わりそのものだった。


「もうひとりいるではありませんか。殿下が最も信頼を置いている存在が。……いえ、“ひとり”ではなく“一頭”と言った方が正しいかしら」

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