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呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません  作者: 榛乃


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置き去りにされた心

 初夏の爽やかな香りをふくんだ風が、やさしく頰を撫でてゆく。麻色をした帆の先が微かに揺れ、底の浅い木箱に並べられた果物から新鮮な匂いが香り立つ。


 片隅に山のように積まれているグースベリーを指差し、フィオナはそれを紙袋いっぱいに包んでもらう。ついでにアーティチョークとチェリー、桃も幾つか買って、まとめてバスケットの中に入れる。頭上から燦々と降り注ぐ陽光が、あたたかくて心地好い。所々に薄い雲がたなびいているが、空はさっぱりとした晴天だ。


「ねえ、聞いた? 殿下が婚約なさるって話」

「ええ、聞いたわ。お相手はグランディール公爵家のアメリア嬢でしょう?」


 生成りのエプロンをつけた快活な女店主にお金を渡し、おつりを受け取って巾着袋の中にしまう。鳥が飛び立つ時の、ばさばさとした羽音が聞こえ、フィオナはなんとはなしに振り返る。広場の中央に設えられた、大理石製の――所々苔がこびりついて汚れてはいるけれど――白く大きな噴水。その傍らでたった今空に舞い上がったばかりの白鳩が二匹、連れ立って蒼穹へと羽ばたいてゆく。


「それにしても、本当に良かったわね。殿下が元気になられて」

「魔獣の毒にやられたって聞いた時はびっくりしたわ。アメリア嬢も気が気じゃなかったでしょうね」


 女店主にお礼を告げ、フィオナは随分と重たくなったバスケットを抱え直し、静かに足を踏み出した。建物と建物の間に伸びる、ひと気のない寂れた細路地へ向かって。バルコネットに飾られたゼラニウムの、鮮やかなマゼンタ色の花弁がとてもまぶしい。二羽の白鳩が頭上を滑空し、鈍色の石畳に落ちた影があっという間にフィオナを通り越して、建物の裏側へと消えてゆく。その瞬間、正午を報せる教会の鐘が鳴った。澄んだ蒼穹に響き渡る、重厚で美しい、神聖な鐘の音色。


 森の入口まで戻ると、そこには見慣れた“あれ”がぽつんと立っていた。随分と脆弱な造りの、看板とよぶにはあまりにもおこがましい、ただの廃材の組み合わせ。薄茶色の平ぺったい板にはやはりいつものように、“まじょのすむもり”と書かれている。所々インクの掠れた、とても拙い筆跡で。


 新しく造られたらしいそれを見下ろし、前の看板――といっていいのか分からないが――はどこへいったのだろう、とフィオナは思う。捨てられたのだろうか、それとも、誰かが記念にでも持って帰ったのだろうか。しかしその疑問は、すぐに前者で方がついた。“まじょのすむもり”なんて書かれた看板を“記念品”として持ち帰るような物好きはいないであろうし、そもそもはじめから脆い造りだったあれが幾度もの風雨を無事凌げたとは思えない。


 飽きないものね、と、フィオナは小さく笑みをこぼしながら看板の横を通り過ぎ、森の奥に足を踏み入れる。一本道の両側に生える木々は相も変わらず鬱蒼とし、枝葉の隙間から差し込む陽光はか細く、真昼だというのに随分と薄暗い。けれどもびっしりと茂った葉は、以前よりもより瑞々しく鮮やかな緑に変じていた。月日はゆっくりと穏やかに、それでも間違いなくしっかりと流れている。森の小さな変化は、それを否応なく感じさせる。


 鬱蒼とした木々の群れが途切れ、開けた場所を突っ切るようにして伸びる小道を、初夏の薄日を浴びながら進む。緩くうねった小川、青々とした芝生、白く愛らしいカモミール。漆喰の壁を這うようにして植わるブーゲンビリアがちょうど盛りを迎え、眩いほど鮮やかなピンク色の花をいっぱいに咲かせている。


 玄関の錠を解いてゆっくりと扉を開けば、たちまち甘く爽やかな芳香が鼻孔をくすぐった。いつものようにカーテンを開け放したままにしていたので、灯りを点けずとも室内はたっぷりの陽光で十分に明るい。白い壁に吊るした幾つものポプリ、小ぶりなゲリドンの上に飾った色とりどりのチューリップ、棚に所狭しと陳列された本や小瓶。


 その光景を端から端まで徐ろに眺め、フィオナは後ろ手に閉ざした扉に背をつけて、ずるずるとその場に座り込む。足から力が抜け、まるで崩れ落ちるように。そうなってしまうともう、暫く立ち上がれないことをフィオナは知っていた。ぐちゃぐちゃになった気持ちが落ち着くまでは、どうしても。


 購入品が詰まったバスケットを傍らに置き、フィオナは膝を抱えるようにして組んだ両腕の中に顔を埋める。そうして両の瞼をぎゅっと閉ざし、頭の中に押し寄せてくる光景や言葉の数々を必死に追い払う。青空を気持ち良さそうに飛び回る二羽の白鳩、生成りのエプロンを身に着けた快活な女店主、ベンチに腰掛けて世間話に花を咲かせる女たち。殿下、アメリア嬢、毒、婚約、元気、婚約、婚約、殿下――。


 シリウスの治療をしてから、もうひと月が経った。その間に春が終わり、初夏を迎え、そうして次の季節へともうじき移り変わろうとしている。そうやって時間だけが、ただただ過ぎてゆく。フィオナの外側で。ゆっくりと穏やかに、それでも間違いなくしっかりと。


 はじめのうちは、アレンが毎日の様に訪ねてきてくれた。まるで蓑虫のように毛布に包まり、ベッドの上で微動だにしないフィオナを心配し、心優しい彼なりに気を遣ってくれたのだろう。果物や野菜を届けてくれたり、時には宮廷料理人が作ったという食事までキャセロールに入れて持ってきてくれたこともある。来る度に彼はシリウスの体調を報告し、無事快方に向かっていることを語ってくれたけれども、その報せはフィオナを安堵させはしたが、しかし同時に胸を強く締め付けもした。自分の魔力が彼に止めを刺さずに済んだことも、無事毒を浄化出来て少しずつではあるものの元気を取り戻せていることも、それらは本当に嬉しく、純粋に喜ばしいと思う。けれども、順調に快復しているという彼の頭の中にはもう、自分の存在は欠片も残っていないという事実が、どうしても苦しくてたまらなかった。


 そうなることを、受け入れたはずだったのに。二人で過ごした時間と彼の命なんて、天秤にかけるまでもないと思っていたはずなのに。彼を救うことを決意し、ちゃんと彼に別れを告げたはずだったのに。「愛している」と言ってくれた彼の中に、もう自分はいないのだという現実に突き当たる度、フィオナはひどく打ちのめされる。何度も何度も。そうなることなんて、分かっていたはずなのに。分かっていた上で、彼の手を握ったはずだったのに。心が、心だけがまだ、現実に追いついてくれない。過去に置き去りにされたまま、そこでずっと泣き叫んでいる。


 アレンの顔を見れば見るほど、彼の語る話を聞けば聞くほど、シリウスへの想いが強烈に蘇ってしまい、泣くのを堪えるのに必死だった。毛布に包まったまま、ベッドの上に突っ伏して、唇が噛み切れてしまいそうなほど歯を突き立てて。それを察したらしい彼は、新鮮なフルーツを持ってきてくれたのを最後に、フィオナのもとを訪れることはしなくなった。一度だけ手紙が届いたけれど、それは治療の報酬についてのもので、シリウスに関する内容は一行も、一文字さえも認められてはいなかった。


 泣くのをやめ――というより、諦め――、“普段通りの生活”を取り繕えるようになるまでには、随分と時間が要った。掃除をしなければ埃がたまるし、買い物へ行かなければいつまでも空腹でいなければならない。それでは駄目だと無理矢理身体を動かして、どうにか掃除をし、どうにか洗濯をし、どうにか買い物に出かけ、そしてどうにか生きている。今のフィオナには、それだけで精一杯だった。


 けれどもどうにかして“普段通り”に生活しようとしているフィオナに、人々の悪意のない噂話が追い打ちをかける。――シリウスとアメリアの婚約。今王都は、その話題で持ち切りだった。外れにある小さな町でさ。誰も彼もがその噂を口にし、そうして皆一様に喜び、「素晴らしいことだ」と言って祝福している。


 その声を聞く度に、フィオナは宮殿の中庭で見た二人の姿を、どうしても思い出してしまう。白薔薇に囲まれた、華やかで美しい中庭。その真中を、楽しげに笑い合いながら腕を組んで歩く、まるで童話に出てくる王子様とお姫様そのもののような二人。


「……これで、良かったのよね」


 ぼそりと弱々しく呟いて、フィオナはゆっくりと立ち上がる。そうしてバスケットをその場に残したままよろよろとした足取りで窓辺へ歩み寄り、臙脂のソファにどさりと――半ば倒れるように――腰を下ろす。たっぷりと降り注ぐ陽光が、とても心地良い。あたたかくて、清潔で。古い木枠で縁取られた窓の外へ目を向けると、瑞々しく輝く芝生と、光の粒をきらめかす小川と、気持ち良さそうにそよぐ野花が見えた。ただただ豊かな自然だけが広がる、長閑な風景。――シリウスがよく眺めていたのと同じ穏やかな景色だけが、ここに残っている。彼はもう、いないのに。

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