さようなら、愛しい人
「殿下、聞こえていますか」
丁寧に巻かれた包帯に触れ、フィオナはゆっくりと慎重にそれを外してゆく。初めて触れるシリウスの腕は、見た目以上に硬い感触がして、しっかりとした筋肉の凹凸が、純白の布の下から少しずつ現れる。肌理が細かく滑らかな、それでいて引き締まってもいる、透き通った白い肌。逞しいのに、けれどもその青白さはひどく儚く見え、今にも消えてしまいそうなほど脆く感じられる。それがより憂懼を疼かせ、フィオナは手をとめそうになるけれど、どうにか気を奮い立たせて包帯を解き続け、そうして露わになった傷口に、思わず顔を顰めた。
上腕二頭筋から腕撓骨筋の辺りにかけて直線的に伸びる、一本の傷。恐らくは鋭利な爪か何かで裂かれたのだろう。きちんと縫合されてはいるものの、皮膚や肉がぱっくりと裂け、そこから毒が侵蝕したのであろうことは、赤紫色に変色した創縁の生々しさから見て取れた。
「私、今でもはっきりと憶えているんですよ。殿下と初めてお会いした日のこと」
やわらかな声音のままそう言葉を続け、フィオナは左手で掬い上げるようにシリウスの手を持ち上げ、右手は傷口にそっとあてがう。シリウスの皮膚は、ぞっとするほど冷たかった。まるで氷漬けにされてでもいるみたいに。生気の感じられないその手を少しでもあたためようと、フィオナは自身の左頬へ彼の手を近づける。頬擦りをするようにやさしく押し当て、そうして包み込むように握った手に、ぎゅっと力をこめて。ぬくもりが、想いが、そこからたくさん伝わってくれたら、と、そう願いながら。
「訪ねてきたのは殿下の方なのに、私を見た瞬間、凄く驚かれていましたよね。本当に魔女が棲んでいるとは思わなかった、って。……まあ、あの森は深い上に真昼でも薄暗いですから。初めて来た人だと、まさか誰かが棲んでいるだなんて、思いませんよね」
魔力を集中させた右掌から淡い光が溢れ、生々しい傷口をやわらかく包み込む。一気に流し込んでは毒になるので、細く長く、ゆるやかに魔力を注がなければならず、それはとても繊細で、集中の要る作業だ。
けれども、
「次にお会いした時には、私を褒めて下さいましたよね。君のおかげだ、って。君は本当に凄いな、って。買いかぶり過ぎだって思っていたんですけれど……でもね、殿下。貴方にそう言っていただけて、私、本当はとても嬉しかったんです」
開いた唇の間から、次から次へと言葉が衝いて出てくる。まるで子守唄でも歌うような、やさしく穏やかな声音で。フィオナ自身でも、とめようがなかった。溢れ出る言葉を呑み込む術など、彼女にあるはずがなかった。
「用事もないのに家へやって来る殿下に、正直、困ったなぁと思ってました。だって、一国の王太子がサボりに来るだなんて、普通では有り得ませんから。素敵な御令嬢のもとへ行かれるのならまだしも、私なんてただの魔女でしょう? 殿下の考えていることが、どうしても理解出来ませんでした」
頰に少しずつ馴染んでゆく皮膚の感触を噛み締めるように目を閉ざせば、瞼の裏の暗闇に、明るく溌剌とした笑顔が鮮明に浮かび上がる。陽光でも月光でも変わらずに美しい輝きを帯びていた白銀の髪の毛。長い睫毛に囲まれた切れ長の目。強い光を宿し、それでいてあたたかくもやさしくもあった、アイスブルーの瞳。
定位置と化した窓辺のソファに腰掛け、何の面白みもない緑豊かなだけの庭を、シリウスはよく楽しそうに眺めていた。手作りのお菓子は片っ端から平らげ、アレンの分もあると言えば、彼はあからさまに顔を顰めることもあった。時には素足になって小川に入り込み、ちょろちょろと泳ぐ小魚を無邪気に追いかけ回したり。従者も誰もいないのに、シェーズロングに寝転んで、無防備に、とても気持ち良そうに昼寝をしていたり。ベンチとはとても言い難い太く大きな角材に腰掛け、紅茶を飲みながらのんびりと夜空を、そこに煌めく星々やぽっかりと浮かぶ月を眺めたり――。
「でもね、殿下。でも……」
フィオナはゆっくりと瞼を上げ、そうしてふわりと顔を綻ばす。頭の中は、彼との思い出でいっぱいだった。それらは途切れることなく湧き上がり、色を失っていたフィオナの心を、身体を、鮮やかな彩りで満たしていく。どんな些細な記憶も、全てが美しく、そして全てが愛おしい。
思い出なんて作るものではない、と、そう思っていたけれど。心做しか和らいだように見えるシリウスの顔を見つめながら、フィオナはそっと笑みを深める。思い出があるからこそ辛い。けれど、この大切な思い出たちがあるからこそ、きっと生きてゆける。
「私、とても楽しかったんですよ。お喋りをしたり、紅茶を飲んだり、お菓子を食べたり、散歩をしたり……殿下と一緒なら、どんな小さなことでも、凄く楽しかったんです。楽しくて、楽しくて、そして……とても幸せでした。心の底から。本当に、幸せでいっぱいだったんです」
もっとちゃんと顔を見ていたいのに。これで最後なのだから。彼の顔を、鮮明なまましっかりと眼に焼き付けておきたいのに。溢れ出る涙のせいで視界はぐちゃぐちゃにぼやけ、シリウスの端正な顔が滲んでしまっている。
もう一度、あの笑顔を見たかった。そう思いながら僅かに腰を屈め、シリウスのかんばせに顔を近づけながら、フィオナはふふっと小さく笑う。その微かな振動でこぼれ落ちた涙が、彼の白い頰を濡らす。
もう一度、あの笑顔を見たかった。あの太陽のようにまぶしい、あたたかでやさしい笑顔を。最後にもう一度だけ、見たかった。
「殿下に“愛している”と言われて、どんなに嬉しかったことか。……でも、辛くもあったんです。どんなに想っていても、触れ合うことは決して出来ないのですから」
けれども今、彼に触れている。まさかこんな形で触れることになるとは、もちろん思っていなかったけれど。
苦笑とともにぽろぽろと涙がこぼれ、少しだけ晴れた視界にはっきりと映るシリウスの顔を、フィオナは慈しむように見つめる。「愛している」と告げたあの声を、あの声のぬくもりを忘れることは、絶対にない。どんなに辛くても。どんなに悲しくても。どんなに寂しくても。心が痛くて、胸が苦しくて、張り裂けてぐちゃぐちゃになってしまいそうでも。耳の中に蘇る度に、涙を流さずにはいられなかったとしても。それでも絶対に忘れることはない。
愛している――あの言葉は、一番の宝物なのだから。
「そういえば殿下、仰っていましたよね。次会った時に返事を聞かせてくれ、と。だから……だからちゃんと、お伝えしますね」
右耳にかけていた横髪がはらりとこぼれ、毛先が、シリウスの耳に触れる。今すぐ目を開けて、擽ったい、と言ってくれればいいのに。擽ったいと言いながら、無邪気に笑ってくれればいいのに。
神なんていないと思い知ったはずなのに、それでも願ってしまうことにフィオナは自嘲をこぼしつつ、そうしてゆっくりと瞬きをする。シリウスが話しかけてくれることは、もう二度とない。笑いかけてくれることも、からかってくることも――あのやさしい声で、ぬくもりの詰まった声で、「フィオナ」と名前を呼んでくれることも。どんなに望んでも、それらはもう、二度とない。
それでも――。とめどなくこぼれ落ちる雫をそのままに、涙でぐっしょりと濡れた顔に、フィオナは心をこめて、満面の笑みを浮かべる。今までで一番の、幸せに満ち溢れた笑顔を。
「愛しています、シリウス殿下」
――そして、さようなら。心から愛した、かけがえのない人。
 




