【番外編】それぞれの交差点
慌ただしく、けれど充実した忙しさで夏が過ぎて、少しだけ落ち着いた前向きに迎えた秋も、そろそろ終えようとしていた。
11月の最後の土曜日、わたしは、お気に入りの画材屋で必要なものを買い足したあと、神楽さんとの待ち合わせに急いでいた。
クリスマスが近付いてきてる街は、キラキラして気分が高まる。
全体的に浮かれた風景をみんなが許しあっているようで、わたしは、街中に優しさが混ざっている気がした。
そんなクリスマスの華やいだ景色に、傷付いた思い出を重ねたこともあったし、その傷が完全に消えてくれたわけでもないけれど、今は、それも過去のことだと振り返ることができる。
そう思えるようになったのは、すべて、彼のおかげだった。
彼のことが頭に浮かぶと、早く会いたくなってしまう。
けれどわたしは、待ち合わせの前にあるところに寄り道していた。
今日はこのあと大きな予定があって、本来なら画材屋に寄る時間はなかったのだけど、待ち合わせ相手である神楽さんから少し遅れると連絡があり、わたしも寄り道することにしたのだ。
大学時代から気に入って使っていた消しゴム、クロッキー帳を店オリジナルのペーパーバッグに入れてもらい、ちょっとした幸せ感を手に、わたしは交差点で信号待ちをしていた。
まだ急がなくてもいいはずなのに、気持ちは、恋人に早く会いたくて急いてしまう。
土曜日の午前、そこまでの混雑はなかったけれど、東京駅近くの交差点はほどほどに人が集まっていた。
よく使う道なので、信号のタイミングもなんとなく体に染み込んでいる。
そろそろかな……
そう思ったわたしは、ふと、進行方向に顔をあげた。
そして視界の端に飛び込んできた人物に、思わず、息を止めてしまったのだった。
よく知った人が、こちらを見つめて立っていたのだ。
………先輩
信じられないという表情でわたしを見つめていたのは、前の職場の先輩だった。
『……辞める?辞めるなんて、お前が辞める必要なんてないだろ?!』
『あれ辞退したから!』
先輩から投げかけられたセリフが、鋭く頭の中を駆け抜けていくようだった。
もう、あの頃のことで苦しんでいるわけではないのに、思いもよらぬ所での再会は、やっぱり動揺してしまう。
先輩は、じっと、わたしから目をそらさなかった。
やがて信号が青に変わり、周りの人がいっせいに歩き出す。
――――逃げたい
以前のわたしなら、間違いなくそう思ってすぐに駆け出していたことだろう。
神楽さんと出会う前のわたしなら。
でも今は、神楽さんと出会って、自分の進む道を自分で選べて、悔いのない未来を描こうとしているのだ。
過去は、過去。
苦い記憶や経験だって、それを過程として、今や未来が出来上がっていくのだから。
今なら、そう思えるから。
わたしは、まっすぐ前を向き、迷わず、進んだ。
先輩のそばを通り過ぎるとき、お久し振りです、くらいの挨拶はしよう。
もう気にしてませんよと伝わるように、笑いかけてみよう。
以前のように普通に、可能なら愛想よく。
心でそう決めながら、一歩ずつ、横断歩道を渡っていく。
なのに先輩の方は、その場から動かずにいたのだ。
ずっとこちらを見ている先輩。
なにかを言いたげで、でも迷っているような雰囲気に感じた。
そしてわたしが横断歩道を渡り終え、先輩の近くまで行ったとき、
「芦原」
昔によく聞いていた変わらない声で、久々に名前を呼ばれたのだった。
「……お久し振りです」
わたしも、その場で足を止める。
うまく笑えているだろうか?
信号が赤になって、人波がピタリと止まるを横目に、先輩が信号待ちの群れから少し外れるように、わたしを向いたまま数歩移動した。
「あのカフェで会って以来だよな」
「そうですね……」
わたしも先輩にならって、通行人の邪魔にならない場所に移りながら答えた。
「元気、だったか?……て、俺が言うなって話だけど」
以前カフェで会ったときとは違って、わたしが会話に応じる態度を示したからか、先輩はわずかに安堵したような表情に変わった。
「あ、奈良に…実家に戻ったって聞いてたから、ここで会えるなんて驚いた」
先輩はそう言うと、スッと、わたしの手にあるものを見て、
「…そこの店に行ったってことは、まだ描いてるんだな」
どこか嬉しそうに微笑んだ。
「はい。描いてます」
先輩にそう告げられることが、自分なりに誇らしく思う。
「じゃあ、こっちで新しい事務所に入ったのか?それとも関西の方で?」
「いえ、仕事は教師をしてます」
「―――教師?」
驚いた声をあげる先輩。
ちらちらと周りの視線を集めてしまい、わたしは控えめに頷いた。
「はい。東京の学校で。美術教師しながら描いてます」
「それじゃ、もう仕事として描くつもりはないのか?」
先輩は、さっきの嬉しそうな顔と打って変わり、眉を寄せて、複雑に歪めた。
まるで、わたしにそうさせたのは自分だと悔いるように、申し訳なさそうな顔にも見える。
「それは…」
先輩があのことに責任を感じているのは一目瞭然で、わたしは、そうじゃないんですよと、わたしの今の想いや現状を説明しようとした。
けれどタイミングよく、ヴー、ヴー、とスマホが震えだしたのだ。
わたしが反応する前に、先輩は「あ、」と呟いて、
「気にしないでいいから出なよ」
そう言ってくれた。
「すみません、メールだと思うんですけど…」
断ってから確認すると、神楽さんからのメールが入っていた。
もうすぐ待ち合わせ場所に着くとのことだった。
もし寒ければカフェに入ってホットミルクを飲んでてくれていいから……そんな気遣いも添えられていた。
恋人からの優しいメールに心が温められて、ふわりと、気持ちが軽くなった。
すると、先輩は「大丈夫?」と訊いてきた。
どの意味での ”大丈夫” なのかは解りかねたけれど、あらゆる意味で、わたしは大丈夫だ。
「はい。あの、先輩?」
「うん?」
「わたし、今の仕事は教師ですけど、夏にコンクールに出展したんです。そこで小さな賞をいただいて、奈良の地元のポスターに採用していただくことが決まって……」
わたしは、心ばかりの早口で説明した。
聞きようによっては自慢話に聞こえるかもしれないと、にわかに照れ臭さも覚えたからだ。
けれど、
「すごいじゃないか!」
わたしの照れ臭さが吹き飛ぶくらいに大きく、先輩は喜んでくれたのだった。
「やっぱり芦原は才能あるんだよ。地元のポスターってことは、出展したのは奈良を題材にしたものだったのか?それで、どこをチェックしたらその絵を見られるんだ?」
先輩のテンションは一気に跳ね上がる。
周りの人の目を気にしてしまうけれど、また青になった信号に従って人々は前に流れていくところだった。
「あの、まだ採用が決まった段階で、これから詳細を詰めていくところなんです。でも、一応予定では来年早々に最終チェックが入って、1月中旬には関係各所に配布されることになってます」
「SPツールは決まったら早いからな。で、それってこっちでも使われるのか?」
テンション高いまま訊いてくれる先輩には申し訳ないけれど、残念ながら期待には応えられそうにない。
わたしは、ちょっと逡巡しながら返事した。
「いえ、どうなんでしょう……。わたしが把握してるのは、県内と私鉄沿線の駅構内なんですけど……」
わたしの絵が採用されたのは実家近くにある商業施設関連の広告ポスターで、おそらく、関西の他県でも見かける機会は少ないだろう。
たまたまコンクールの入賞者展覧会に来ていたその施設の関係者の目にとまり、声をかけていただいたのだけど、規模で言えばごく狭い範囲のものだ。
だけどそれでも、描き続けることを選んだわたしにとっては、大きな進展に思えた。
先輩は「そうか…」と、残念そうに呟いた。
けれどその後すぐに、
「じゃあ、来年になったら奈良に行ってみるよ」
1ミリの迷いもなく、笑ってそう告げたのだった。
「え、奈良までですか?」
あまりの即答に、わたしはすっとんきょうな声を出してしまった。
だって先輩は生まれも育ちも東京で、関西とは縁もゆかりもないと聞いたことがあったから。
なのに先輩は、まるでちょっと隣町まで、というような感じで言ったのだ。
「ああ。だって、芦原の絵を見てみたいからな。芦原の絵を最初に認めたのは俺なんだから」
ちょっと自慢げに言う先輩に、嘘をついている気配は感じなかった。
けれど、”あのこと” があったからか、わたしは素直に受け止めていいのか一瞬迷ってしまった。
そして先輩はわたしの僅かな躊躇いに気付いたのだろう、にわかに顔色が曇る。
「芦原……」
声を低くしてわたしを呼んだ。
「大事なことをまだ伝えてなかったな。……本当に、申し訳なかった」
そう告げると、先輩は小さく頭を下げた。
”小さく” なのは、きっとここが人目がある交差点だからで、誰もいなければ、もっと深いものだっただろう。
それほどに、先輩の眼差しは真摯そのものだった。
先輩はゆっくりと、頭を戻して。
「あの時は、俺、どうかしてたんだ。こんなの言い訳にもならないけど、デザインの基本がなってないんじゃないかっていう自分のコンプレックスを拭いきれなくて、他の事務所に移って心機一転したくても俺の実績じゃうまくいかなくて、それで、お前の絵を利用した……本当、最低だな」
自嘲する先輩に、わたしは慰めの言葉はかけられなかった。
「それで、お前を傷付けた。……本当に悪かった。もちろん謝ってすむことじゃないし、許してもらえるなんて思ってない。芦原の人生を変えてしまった責任が俺にはあるからな。だから、もし俺にできることがあるなら、何だってさせてもらいたいと思ってる」
結果的に、わたしは先輩に裏切られたわけだけど、今の先輩の言葉が口先だけのものでないことは、その人が纏う空気で伝わってくる。
わたしは、先輩がここまで言ってくれただけで、もう充分だと思えた。
だって、わたしは今、前を向いているから。
先輩に裏切られた過去がなければ、奈良の実家に帰ることも神楽さんと知り合うことも、あの、不思議な出来事に遭遇することもなかったのだ。
傷付いたし、悲しんだ時間は痛い思い出になっているけれど、その過程がまったく無意味だったとは思えない。
だからわたしは、先輩に、以前のように笑いかけることができたのだった。
「……あの、わたし、今すごく充実してるんです。大学卒業してから描くことをやめてしまってたけど、あのことがきっかけみたいになって、また描くことができて……。感謝してる、と言えばイヤミになってしまいそうですけど、でも結果的には、事務所を辞めた今の方が幸せになってると思います。だから……」
”もう気にしないでください”
最後をそう締めくくろうと思っていたのに、それを付け加える前に、ヴー、ヴー、と、またスマホが唸ったのだった。




