未来への入口は、今日
「ちょ、神楽さん、ここ、外ですよ……」
焦ったわたしは、力をこめてくる神楽さんの腕をトントン叩いて窘める。
「俺達以外誰もいないよ」
くぐもった声でそう聞こえたかと思うと、さらに、ぎゅうぎゅうっと抱きしめられて。
「神楽さんってば!」
きつくからみつく腕をはがそうとしても、びくともしない。
すると、神楽さんはまた腕に力を加えてきたのだ。
さすがに、巻きつく腕の強さに、苦しくなってくる。
わたしはたまらず、
「か、神楽さん、苦し、苦しいです……」
息も途切れ途切れになりながら訴えた。
なのに、神楽さんは力を弱めない。
それどころか、まだ加えようとしてくるのだ。
「かぐら、さんっ!」
「じゃあ、あの絵、コンクールに出す?」
「へ?」
降ってわいたような交換条件に、わたしの抗議する手が止まってしまった。
そしてそれに呼応するように、神楽さんも、ほんの少し腕の力をゆるめてくれたようだ。
「あの絵をコンクールに出すなら、離してあげるよ」
「なっ……そんなの、今関係ないじゃないですか!」
「じゃ、やっぱり離さない」
言うやいなや、さっきより強く抱いてくる神楽さん。
「わ、ちょ、か…ぐらさん!やめ……っ」
一瞬ゆるめられたことで気が抜けていたわたしは、不意うちの締め付けに呼吸が飛んでしまいそうになる。
「コンクールに応募する?」
顔を寄せられて、優しいくせに強引な口調で尋ねられたけれど、
わたしは頷くことも、首を振ることもできなくて。
「苦しい、です、ってば……」
閉じ込められた中でもがいてみせた。
「だめだよ。コンクールに出すって言わないと離さない。じゃないと、ここでキスするよ?」
キス――――――――――?!
とんでもないことを言い出した神楽さんに、
わたしの焦りは一気にクライマックスにまでのぼりつめた。
本気?本気でここで………
キスなんて、こんな、誰に見られるかもしれない場所でなんて、あり得ない。
いくら人目がなくても、100%見られないというわけじゃないんだから。
………でも、神楽さんならやりかねない。
「ちょ、待って、神楽さ…」
慌てて抵抗を試みるわたしの視界の中、神楽さんの指が近付いてきた。
「神楽さん、待っ…」
頤をとられて、角度を変えられて、上向かされた瞬間、
「分かりましたから!」
思いっきり両目をぐっと閉じて、わたしは、そう答えていた。
すると、
「……本当?」
ちょっと間をおいて、こめかみに、神楽さんの息がかかった。
おそるおそる、わたしは目を開けてみる。
リアルな目と鼻の先に、神楽さんの顔があって、もうキスできそうなほどの近さに、わたしはパッと背中を反らした。
その反動でバランスを崩しそうになるけれど、見かけによらずたくましい神楽さんの腕のおかげで、しっかり支えられた。
「本当に、コンクールに出すんだね?」
すぐにでもキスに移れそうな体勢のまま、神楽さんが確かめてくる。
もう、イエスと言うしかなかった。
「………はい」
とたんに、神楽さんは満面の笑顔になった。
そして腕を解いてくれた。
「そっか。じゃ、さっそく応募するコンクールを選ばなくちゃ。実はもういくつか調べてあるんだけど……」
わたしから言質を取った神楽さんは、嬉々として話を進めようとしてくる。
それよりも、わたしとしては、近付き過ぎた距離を ”適度” に戻してほしいのだけど………
「あの、神楽さん。……コンクールに出すって言ったんですから、その、…少し、離れてもらえませんか?」
「ん?…ああ、しょうがないな」
渋々といった感じにわたしのクレームを受け入れてくれた神楽さんは、一歩弱の間をとってくれた。
そして右手には手紙を持ったまま、携帯で何かを調べはじめたのだ。
「……何を見てるんですか?」
「コンクールの締め切り一覧だよ。さっき美里を待ってる間に検索しておいたんだ」
「え?」
「あの絵が完成したらすぐに応募できるように、いくつか候補を決めておいた方がいいと思うから」
神楽さんは、まるで旅行の段取りを組むように、楽しげに言った。
「あの絵はあとどれくらいで完成予定?」
「そんなに時間はかからないと思いますけど………あの、神楽さん?」
トントン拍子に話を運ぶ神楽さんは、本当に楽しそうで。
わたしはそんな恋人の様子に、ちょっとした疑問が浮かんできていた。
「なに?」
携帯から顔を上げた神楽さん。
その表情は、にこやかだ。
「その……、どうして、そんなにわたしの絵をコンクールに出させたいんですか?」
去年出会った頃、絵を描くこと自体を諦めていたわたしに、”また描いた方がいい” ”芦原さんの絵が見てみたい” と言ってくれたのは理解できる。
前の職場でのことを知って、励ましの意味もあったのだろうから。
でも、コンクールとなると、ちょっと話の方向がずれてくるようにも感じたのだ。
神楽さんは機嫌良さそうな顔色はそのままに、目じりを、穏やかに下げた。
「俺、美里と知り合ってから、ずっと考えてたことがあるんだ。どうして、俺と美里だったんだろう……って。美里の実家、土産物まほろばには、毎日たくさんのお客さんが来るわけだし、俺と同じように物を落とした人だってたくさんいただろう。なのに、その中で、俺の落とした千円札だけが、美里の手元に行った。たまたまの偶然なのかもしれない。あの日、修学旅行中の俺が千円札を落としたのも、それが美里の実家だったのも、ただの偶然だったと言えばそれまでなんだろう。でも、どうしても、それだけじゃない気もしてしまうんだ。だけどそれが何なのかは分からなくて、ずっと考えてた」
優しく語りながら、神楽さんは手紙を目の高さに持ち上げた。
「俺と美里を繋いだのはこの手紙で、美里がこれを書いたのは、俺と出会ったからで……。なんだか考えてるうちに、どっちが先で後なんだかこんがらがってきて、結局いつもループしてしまってた。でも、俺と美里でなきゃいけなかった ”何か” があるんじゃないかって、そこを重点的に考えたら、すぐにある理由に思い当たったんだ」
「何だったんですか……?」
わたしは、神楽さんの目をまっすぐ見上げて訊いた。
神楽さんも、わたしの目を見て、そして、きっぱりと告げた。
「俺と美里が、とても似ていたということ」
優しく強く、神楽さんの声が頭に届く。
「え……?」
「前にも話したことあっただろ?教師になりたいと思いながらも、周りの環境や、自分の想いだけではどうにもならない未来への不安とか、色々迷って一歩を踏み出せないで、結局医学部に進学して自分のやりたいことに見切りをつけようとしていた俺と、本当は絵を描きたいのに色々悩んで描くことをやめてしまった美里が、似ていると思った……って」
神楽さんは手紙をパンと指で弾くと、「ここからは俺の推測なんだけど」と前置きをしてから続けた。
「そんな、俺と美里の似てる部分が共感して、共鳴して、どこかの点で交わって、あんな奇跡みたいな偶然を起こしたんじゃないかなって。キーポイントは、土産物まほろば。あそこが軸になって、俺達の境遇や想いが時間を越えてシンクロして、手紙と千円札が入れ替わった………そう考えたら、すごく納得できたんだよ」
神楽さんの推測は、あくまで推測なのだけど、なんだか、妙なくらいにストンとわたしの中に落ちてきた。
推測にしかすぎなくて、その正解なんか絶対に解明不可能だけど、まるでそれが唯一の答えかのように、わたしは素直に頷けたのだった。
わたしと、神楽さん、二人の想いとか、置かれている状況が重なって、あの奇跡を起こしていたのだとしたら………それはもう、運命と呼んでも決して大袈裟ではない気がした。
そのことに感無量になっていると、神楽さんは「だから……」と、わたしの正面に立った。
「だから、美里にも、もともとの希望通り、絵の仕事をしてほしいと思ったんだ。教師になる希望を叶えた俺と同じように。二人の想いが共鳴していたんだとしたら、その結果も、一緒でいたかったから」
見つめ合うと、わたし達だけしか知らない時間が流れるような感覚がした。
「……まあ、俺の勝手な言い分だけど。でも、ワガママととられても構わない。美術室であの絵を見たとき、俺は、ただ単純に、いい絵だと思った。この素敵な絵を、たくさんの人に見てもらいたいと思った。それが、もう一つの理由でもあるんだ」
神楽さんがそんな風に考えてくれてたなんて、まったく知らなかった。
コンクールに出さなくても、わたしは絵を描いていられたらそれでいいと思っていたし、それは強がりでも負け惜しみでもないはずで。
けれど、今こうやって神楽さんの気持ちを聞かせてもらったなら、心の持ちようは微妙に変わろうとしていた。
未来への入口は、今日なんだから――――――――――――
まさしく、あの言葉通りだと思う。
わたしは神楽さんから教えられて、神楽さんはわたしの手紙で読んだ、あの言葉。
どちらが先に用いたことになるのかは分からないけれど、
今日、今このときの選択が、行動ひとつが、わたしの未来を大きく変えるのだと、
改めて、強く胸に刻み込んだ。
すると、急に、いてもたってもいられなくなったのだ。
「……あの、神楽さん、すみません、学校まで送ってくれませんか?」
「うん?学校に?」
「はい。はやくあの絵の続きが描きたいんです」
「え、今から?」
「はい、今すぐにでも」
逸る感情を隠さないわたしに、神楽さんはわずかな驚きを見せた。
けれどその後、すぐに、大きく喜んでくれた。
「そっか。じゃあ、急いで帰ろう」
言うなり、手紙と携帯をしまいながら車に向かう神楽さん。
わたしもその後を小走りで追った。
神楽さんは運転席を通り過ぎて助手席にまわり、ドアを開けて待ってくれている。
そして、
「ありがとうございます」
と、わたしが神楽さんの脇を抜けたとき、
「ところで、あの絵のタイトルは何ていうの?」
純粋な好奇心に満ちた瞳で、そう尋ねられたのだ。
わたしは一瞬、答えにつまって足を止めた。
タイトルはまだ付けていなかったけれど………
「まほろば……交差点?」
ぽろっと、見たまんまのタイトルが口に出ていた。
「まほろば交差点?」
「あ、実家の前の交差点を、地元の人はみんなそう呼んでるんです」
不思議そうな声をあげた神楽さんに短く説明する。
すると、何かを思いついたように、神楽さんが大きく微笑んだ。
「じゃあ、交差点の ”点” を店の ”店” にして、”まほろば交差店” はどうかな?俺と美里の人生が交わった点であり、店でもあるんだから」
いい考えだろう?そう言いたげな、自信たっぷりな神楽さん。
わたしはその提案に、心躍る思いがした。
わたしの人生と、神楽さんの人生が交わった場所―――――――まほろば交差店。
これ以上ないタイトルをつけてもらえて、わたしは、さらに ”描きたい” という思いが高まるのを感じていた。
神楽さんにありったけの笑顔で頷いたとき、大好きな恋人の肩越しには、青い、晴れた空が広がっていた。
それはまるで、これからの未来を照らしてくれるかのように、鮮やかで。
いい天気だった。
―――――――――――――――未来には希望があるのだと思えるほどに。
(完)




