たった一枚の名画
「・・・これは、わたしが書いた手紙ですよね?」
「そうだよ。俺の人生を変えてくれたもので、俺の宝物」
俺の宝物――――――――――
そう断言されて、心に響く。
あのとき適当に走り書きしたものが、こんな風に誰かに思ってもらえるなんて、不思議な感じだ。
神楽さんは柔らかく言いながら、封筒の中から手紙を取り出して、広げた。
当然、そこには、わたしが書いたあの言葉達が並んでいた。
けれど
神楽さんは、それを、おもむろに裏返したのだ。
そしてそこには・・・・
「あ・・・・」
驚いて言葉を忘れてしまったわたしの代わりに、神楽さんが先を続けてくれる。
「美里が描いた、俺の車だよ」
――――――――そうだ、あのとき、急いでいたわたしは、机の上にあった紙を適当に選んだんだ。
それが、わたしが何度も描いていた神楽さんの車の絵の裏だったわけで・・・・
「カタログを見ていた俺は、ふと、前にどこかでその車を見た気がしたんだ。でもその車は新発表前だったし、車にあまり興味がなかった俺は、ネットや雑誌で新モデルをチェックするはずもなかったから、いったいなぜ見覚えがあるのかが分からなかった。でも、思い出したんだ――――――――小学生のときに拾った手紙のことを」
神楽さんは、わたしに見せていた手紙を自分に向け、そこに、大切そうに眼差しを投げた。
「すぐにこの手紙を探したよ。なんとなく処分できずにデスクの引き出しに入れっぱなしにしていて、すぐに見つけることはできたけど、開封するのは、小学生以来だったかもしれないな。中を開いた俺は、驚愕した。だって、何年も前に拾った手紙に、発売される前の車の絵が描かれていたんだからね。だけど、前にも話したように、そのときは、まさかこれが未来から送られてきただなんて考えもつかなかったから、単純に、この絵を描いた人が車をデザインする仕事に就いて、自分が以前から思い描いていたものを作ったんだろう・・・無理やりそう結論付けたんだ。でも、そのとき、手紙に書かれてるメッセージを改めて読んで、ハッとした。――――――――未来への入口は、今日・・・・その言葉に、がつんと、やられたんだ」
懐かしむような、愛しむような瞳をする神楽さん。
そして、もう一度わたしの描いた絵をこちらに見せた。
「この絵がなかったら、俺は、この手紙のことを思い出すことはなかった。俺に教師になる道を進ませてくれたのは手紙に書いてあった言葉だけど、その手紙を思い出したのは、この車の絵なんだよ・・・・つまり、美里の描いたこの絵が、俺の人生に影響を与えたんだ」
「・・・じゃあ、わたしに見せたい絵って・・・・」
わたしは両手を口に当て、信じられない思いに震えそうだった。
「うん。これが、俺にとっての、名画だよ」
そんなまさか。
わたしは動揺を隠しきれず、まるで自分でも確かめるように、神楽さんが持つ手紙に手をかけた。
「・・・・こんなの、落書き同然のスケッチですよ?こんなの、名画なんて・・・・どちらかというと画数が多い方の迷画ですよ」
東京で一度見ただけの車を、覚えてる範囲で適当に描いたにすぎない。
これなら、受験で描いたデッサンの方がまだましだ。
こうやって改めて見ると、その不出来がよく分かるもの。
落書き、暇つぶし、お遊び程度だ。
なのに神楽さんは「そんなことないよ」と、わたしから手紙を奪い返した。
「そんな風に言わないで」
諭すような口ぶりで、神楽さんはフワリ、と、軽く唇に手紙をくっつける。
まるで、キスをしたように見えた。
「これは、俺にとったら、たった一枚の名画なんだから・・・・」
わたしにではなく、手紙に伝えるように。
わたしはとたんに恥ずかしさが増してしまい、
「そっ、そんな大したものじゃないです、本当に。わたしの絵なんて、しょせん井の中の蛙レベルだって、わたし自身が一番分かってますから」
ぺらぺらと、口が勝手に走っていた。
大学に入る前は、上手いだの、才能があるだの誉められるのが常だった。
けれど、東京の大学に進むと、日本中から集まってきた才能の中に埋もれて、子供の頃から培った自尊心なんて疼く間すらなかったのだ。
「井の中の蛙、大海を知らず?」
確認するように訊いてくる神楽さん。
「そうです・・・・」
素直に答えたものの、なんだか恥ずかしさよりも情けなさが勝ってきたわたしは、神楽さんから顔を逸らし、俯いてしまった。
すると、神楽さんは手紙を持たない方の手で、わたしの頬を挟んできたのだ。
親指と中指とで、ぷっくりと挟まれて、上向かされる。
「は・・はぐらはん?」
”神楽さん” と言いたいのに、うまく音にならず、とぼけたセリフになってしまう。
神楽さんはわたしの顔を見て、機嫌良さそうに笑った。
そして指で頬をくりくりこねると、パッと離し、優しく言った。
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」
「え?」
頬をさすりながら訊き返したわたしに、神楽さんはもう一度告げた。
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る――――――井の中の蛙は外の大海を知らないけど、その代わりに、そこから見える空の青さとか高さをよく知っている・・・そんな意味だと思うよ?」
「空の青さを・・・・はじめて聞きました。そんな続きがあったんですね」
「まあ、正式なものじゃないらしいし、後付けにすぎないって言われることもあるみたいだけどね。でも俺は、美里には、美里しか知らない空の青さがあるんじゃないかと思うんだ。だから・・・美術室にあったあの絵、コンクールに出してみなよ」
ここに誰もいないのをいいことに、神楽さんはわたしの額に自分の額をこつんとぶつけて言った。
それはキスするときの近さとほとんど同じで、わたしは思わず後退りしてしまった。
付き合いだして数ヶ月、神楽さんとのキスにはもう慣れっこだけど、こんな風に外でしたことなんかなかったから。
なのに、神楽さんからパッと背けるように手すりに寄りかかったわたしを、神楽さんは後ろからそっと囲いこんできたのだ。
わたしの両側の手すりに手を突き、腕でわたしを閉じ込める。
背中に感じる神楽さんの体温に、わたしの体温が上がってしまいそうだ。
下向くと、神楽さんの右手に握られたままの手紙がある。
そこには、わたしがなんとなく描いた神楽さんの車のイラストが。
まさか、わたしが時間つぶしのように適当に描いたものが、神楽さんが手紙を思い出すきっかけになっていたなんて・・・・
それは、わたしに、小さくはない驚きを与えて、そして、小さくはない喜びも運んでくれた。
けれど・・・
「・・・ダメですよ。どんなに空の青さを知っていても、わたしの才能なんか知れてますから」
やっぱり、大学時代に植え付けられた劣等感は払拭できなかった。
すると神楽さんはトスン、と、わたしの肩に顎を乗せてきたのだ。
「才能か・・・」
ひとりごとのように呟いた神楽さん。
よりいっそう近くなった体温に、わたしのからだじゅうが熱くなる。
なのに、狼狽えるわたしの気持ちは無視して、神楽さんはそのまま会話を続けたのだ。
「知ってる?才能って、愛情の最上級のカタチなんだって」
神楽さんが喋る度に肩から振動が伝わってくる。
耳もとで聞こえる神楽さんの声に、くすぐったさと、恥ずかしさと、脈拍の跳ね上がりを感じたわたしは、身をよじった。
すると神楽さんは仕方ないな・・とでも言いたげな態度で、頭を持ち上げて、少し体を離してくれた。
神楽さんの腕は固定されたままだったけれど、わずかにあいた距離の分、わたしにも落ち着きが戻ってくるようだった。
「愛情の最上級・・・才能が?」
訊き返すと、「そうだよ」と頭上から優しく返事が降りてきた。
「実家の職業のおかげで結構知り合いが幅広いって話はしたことあったよね?その中に音楽を仕事にしてる人もいるんだけど、その人が言ってたんだ。子供の頃からピアノの天才だなんて騒がれてて、実際、すごく才能のある人なんだけど、本人はいたって冷静で。自分は他の人よりたくさんピアノが好きだから、どんなレッスンも苦にはならないし、寝る時間を削ってでもピアノに触れていたい。食事の時間すら惜しいと思う。そういうのが才能に繋がってるのだとしたら、たぶん、才能っていうのは愛情が最上級に深まったカタチなんだと思う――――そう言ってた」
才能は、愛情の最上級―――――――――
わたしは、頭の中でその言葉を繰り返しながら、神楽さんの手にあるイラストを見つめていた。
「好きっていう想いなら、美里も負けないんじゃないの?」
そっと、尋ねられる。
「それは・・・・」
確かに、わたしは描くことが好きだ。
一時、描けなくなった時期があったからこそ、今はさらに好きになっている自覚はある。
でも・・・
言いよどむわたしに、神楽さんはさらに押してきた。
「美里、昼休みに言ったよね?人の心を動かせるような作品を描けたら、コンクールに出すって」
「・・・・言いました、けど」
「美里が描いたこの絵は、結果的には俺の心を動かしたよ?」
神楽さんは、右手を上げて手紙をヒラヒラとかざしてみせる。
「でも、わたしが言った意味とは違います。神楽さんはこれを見て、感動したとか、そういうんじゃないでしょう?ただ、手紙を思い出すきっかけになっただけで・・・」
「でも俺の心を動かしたことに違いはないよ?」
「そんなの屁理屈です」
「違うよ、事実」
「そんなこと・・」
「ああ、もううるさい」
神楽さんは一方的に言葉のラリーを切ると、後ろからわたしをぎゅっ、と抱きしめてきた。




