第4話
家に帰ってLilinkを開くと、苑弥がいた。
彼は私を見つけると大きな骨ばった手で自らの顔を隠した。指の隙間からは抑えきれないほどの笑顔が見える。
苑弥の目は焦点があってなくて、気味が悪いほどの恍惚感を浮かべてこう言った。
「仕事…やめてきちゃった。これでいつまでも一緒だね、ココちゃん♡」
そう言うと、彼は顔を手で覆ったまま、こちらに歩み寄ってくる。
「はあっ…♡やっぱりココちゃんとと出会えたのは運命だったんだ。初めて君を見かけた時何か惹かれるものがあった。そして、あの夜明けに俺は気づいたんだ。きっと神様が俺達を結びつけてくれたんだと。君は俺の話にも笑ってくれて、どんな愚痴を吐いても全肯定してくれたんだ。…今までの女とは違う。おかげで仕事を辞める決心がついたんだよ。本当に感謝してる。ココちゃんに出逢えたところから。今日から全部自由なんだ、さあ、どこへ行こう?何をしよう?それとも…」
彼は目の前まで来て、天を仰いだ。
「待って」私の声は届いていなかった。背筋が凍る。体が硬直する。動けない。そのまま抱きしめてこようとしているのを察して、咄嗟に手を伸ばして距離を取ろうとする。彼はそのまま止まった。
「ねえ?聞いてる?早く返事してよ。俺悲しいよ、ねえ」
頭を抱えて掻きむしった。揺れた黒髪越しから見える紫色の瞳がこっちを見る。暗く濁っていた。瞳が小刻みに揺れていて、今にも泣きそうな表情をする。反射で目を逸らす。
全身に冷や汗が染み渡る。身体中が危険信号を発している。どうすればいいんだ。彼を傷つけることはしたくなかった。…何よりリスクがあった。必死に言葉を紡ぎ出そうと口を動かす。正直、彼の期待に応え切れる自信が無かった。言いたかった。そんな関係期待してなかった。やめよう、距離を置こう、って。けど、言えなかった。
「…おい?聞いてんのか?」
今までの重く甘い声から突き放された冷たい声へと変わった。全身の神経が身構える。自虐の笑いを含みながら話し始める。
「はあ、結局ココちゃんもそうやって俺を見放すんだ。悲しいな。けど無理なら駄目か。なら…」
右手を突き上げる。突然こちらに振りかぶってきた。
「きゃああああああああああ!!!」
必死の反応でスマホの電源ボタンを押した。黒い画面には自分の姿が映っていた。崩れた髪型、だらだら垂れる冷や汗、荒くなった息。
思わず布団に顔を埋める。怖かった。全身が強張って、寒くもないのに震えだす。まさか、私のせいで苑弥がそこまでの行動をしてくるとは思わなかった。私が感じた微かな好意の数倍、数百倍を相手が感じているなんて思いもしなかった。誰にも相談できなかった。それでも、全てを手放した苑弥のことがやっぱり心配で、その日は一睡も眠れなかった。
「…」何度も目を覚まして、起きてしまう。今すぐにLilinkに戻って急に逃げたことを謝りたいけど、あの振りかぶる動作が脳裏にこびりついて、会いたくないとすら思ってしまう。夜は相変わらずまだ明けなさそうだった。窓を開け、夜風を浴びる。今までヒートアップした脳を冷やしてくれているようで、正気が戻ってくる気がした。
スマホの時計を見る。午前3時15分…よし。誰もいないと思われる4時にもう一度ログインする決心をした。またベットに潜り、顔まで布団をかける。息を思いっきり吸った。いっそ、今日の記憶全部忘れて、全部無かったことにして、このまま眠りにつけたらいいのに…。そう懇願した。
けど、どうしても寝れねくて、待ちきれなくて。3時40分に無理やりスマホをこじ開けた。暗闇の中に差し込む光が目に刺さって痛い。必死に耐える。ふらふらと指が勝手に動いて、いつの間にかアプリを押していた。
♪『新着メッセージがあります』
苑弥からだった。
「今日はごめん。また改めて話したい。」
彼は冷静さを取り戻していた。思わず安堵の息が漏れる。それでも私は甘く対応することができなかった。やっぱり冷たく話してしまう。
「わかった。話はするけど、距離を置きたい。」思っていたことをストレートに伝えた。
既読はつかなかった。安心感と睡魔が襲ってくる。
ーーーー目覚まし時計の音がする。いつの間にか朝になっていた。今日は休日だった。間違えて平日のアラームを鳴らしてしまったみたいだった。やっぱり深く眠ることはできなかったみたいで、まだ眠気が残っている。もう一度寝ることにした。その後からやっと本当の眠りについた気がした。記憶が全て飛ぶ。気づいたら午後1時を回っていて、母に無理やり起こされて起床した。
冷め切ったトーストを齧って、ぼーっとテレビを見る。
「あんた、最近自分の部屋で何してるの」
母が突然言った。
「単なる勉強だって。なんでそんなことお母さんに言われなきゃいけないの」
「だって、中間テストももう終わったじゃない。昨日深夜2時くらいまで起きてたでしょ。そんな時間まで何を勉強するのよ」
「起きてないって。勉強して寝落ちしたんだよ」
「じゃあなんでこんなに起きるのが遅いのよ」
ああっもう、うるさいって。なんでこんなことに口出しされなきゃいけないんだ。私は母の質問に答えなかった。
「…もう、自分の部屋戻るから」
半分まで食べたトーストを残して、部屋を出て行った。キッチンからちょっと!という母の声が聞こえたが無視した。自分の部屋に戻っても何もすることがなかった。ベットに寝転んで何もない天井を見上げる。自分の人生って、こんなにもやることがないのだろうか。悲しみが押し寄せてきた。
そんな人生じゃないと否定したくて、久しぶりに休日に外を歩いてみることにした。お金だけ握りしめて、部屋着のままサンダルで家を飛び出した。
近所だと会いたくない人たちに合いそうだったからいっそ遠くまで行ってみようと、駅で片道1500円の切符を買った。賑わいに欠けたホームで、2時間に一本しかない電車を待つ。乗れたのは午後3時だった。誰もいない夕焼け前の電車に揺られる。窓から差し込む西光が足にかかる。この空間がなんとも好きだった。
終点の港町で降りる。古さびた駅を出ると綺麗な海岸が広がっていた。こんな自分が惨めになる程、あまりにも綺麗に輝いていた。砂に埋もれた石畳に座る。誰もいない。波音だけがざあっと鳴り続けていた。
ーーー苑弥とここに来たら、何をしたいかな。海に膝だけ浸かって水を掛け合うよりも、こうやって海岸沿いに座っていた方が私たちらしいなと思った。急に可笑しく感じる。なんせ、本当の顔すら知らない同士なのに。なんでこんなことを考えてしまうのだろうか。いつの間にか太陽が沈みそうになっていた。海の地平線と同化して、ピンクのような、紫のような、なんとも言えないグラデーションを生み出している。日没を見て帰った。
家のドアを開けると、どこに行ってたのと母が心配を顔に貼り付けて聞いてきた。
嘘をつく理由もなかったから、海岸と正直に答えた。怒られるかと思ったけど、母は怒らなかった。砂が混じったサンダルの感触が気持ち悪かった。
夕ご飯は食べてきたからいらないと言った。正直お腹が空いていなかった。私にはやることがあった。
部屋に入ってLilinkを開いた。苑弥がいた。私を見つけると、無理に寄らずに近くにあったベンチに腰を下ろした。
「ココちゃん、ごめん。ずっと謝りたかったんだ。冷静さに欠けた言動ばっかりして、自分の気持ちを現実のせいにして、昨日怖い思いをさせてしまったこと、本当に後悔してる。」
「私も昨日急にいなくなってごめん。苑弥も苑弥なりに考えてくれた結果だったんだよね。」
「うん…。けど、結構自己中心的に考えてたんだ。ココちゃんが俺に向き合ってくれることを勝手に期待して、重いことを何度も当てつけた。ごめん、俺こういうところあるんだよね。本当に治さなきゃいけないって自覚してる。」
「それ以上自分を追い詰めないでいいよ…。とりあえず今は自分自身を大切にしてほしい。そして、苑弥とは関係を切りたくないって本当に思ってる。苑弥と過ごせる日々を想像しただけで嬉しくなった。」
「ココちゃん…こっちにきてほしい」
うん。と小さく頷くと、苑弥の隣に座った。
「俺、昔から何やっても不器用でさ。人間関係も上手くいかないし、成績も良くないし、スポーツもできなかったんだ。いつからかそんな自分を否定して、悲観的に見て、何をやっても駄目だと思っていた。辞めた会社も、たくさん面接受けて唯一受かった場所だったんだ。最初はその職場で頑張ってたけど、何度もミスが続いた。いつしか、俺がミスをするのは俺の元々の性格がいけないんだって思うようになった。改善しようとする前に諦めてしまったんだよね。おかげで人間関係も業績も右肩下がり。元々、解雇されてもおかしくない状態だったんだよ」自虐的に笑う。だから、仕事を辞めたのはココちゃんのせいじゃない。そう言った。
「そんな絶望的だった時期に久しぶりにこのアプリを開いてみてさ、ちょうど見かけたココちゃんに惹かれたのかもしれない。俺にとっては女神のように思えた。絶対手放したくなかったから必死になってしまった。」
そういうと、こっちを向く。まっすぐな瞳をしていた。
「君は僕を救ってくれた天使なんだ。こんなに重い俺だけど、好きになってください。」
私は迷わなかった。微かに、頷いて。息を漏らした。
「うん。」
彼は目を見開いた。
「ありがとう…。気持ちが伝わってくれてほんとに嬉しい。これからもよろしくね。」
ねぇ…ハグしていい?と小さく囁かれた。私はこくりと頷く。大きな身体が襲いかかってきた。けど、全く痛く締め付けなかった。私は初めて彼の身体に腕を巻きつけ、全身を預けた。これでよかったんだ。これで…
Episode5 ⇢一方的な苑弥のアピールを受け入れたココ。果たしてどうなるのか。




