第203.5話 忠誠の果て
閑話。
去っていく黒衣の背中が、女王の私室に吸い込まれた後――
「ふーん……」
レオナルド・バーコットはその場に立ち止まったまま、男の消えた扉を眺め、ある種の感慨に耽っていた。
サー・フランシス・ウォルシンガム――偶然この時代に生まれ変わったのなら、1度会ってみたい男ではあった。
21世紀でも、『MI6』で知られる英国秘密情報部の祖。
近代の始まりにおいてヨーロッパの諜報活動の先陣を切り、その後数世紀に渡り、強国として駆け上がっていく英国の伝家の宝刀――イギリス情報部の在り方を決定した人物。
そもそもレイが、チューダー朝――特にエリザベス時代のいくつかの歴史書を読破するに至ったのは、大学で応用数学を専攻している時期に、暗号に関心を持ったのがきっかけだ。
何気なく読み出した、暗号に関する歴史書の第一章に綴られていた、この英国の政治家に興味を引かれた。
陰謀史や諜報史を紐解けば必ず名前が浮かび上がるこの人物の功績は勿論、その男の完璧に近い有能さと、不動の忠誠心、謎めいた人物像……そして、生き様が印象に残った。
賞賛と同情、と言った方が近いかもしれない。
「――『それは、見返りのない貢献だった』」
記憶力は良い方だったが、特に、忘れられない一節を呟く。
「『いまだかつて、いかなるイギリス国王にも、これほどの奉仕を与えられた者はいない』――」
箱田玲の知る史実におけるエリザベス1世は、フランシス・ウォルシンガムの実力を評価し、国務大臣に抜擢するなど、政治的には重用し続けた。
だが、この男に本当の意味で親しみを覚えたことは、ついぞなかったようだ。
人に賛美されることを何よりも好んだ女王に対しても、一切のお追従を述べることをしなかったという性格故か。
例え絶対君主であっても、歯に衣着せぬ物言いで痛いところを突き、頭ごなしに怒鳴りつけることもあったという厳格さ故か。
はたまた、宗教問題に関してはピューリタン寄りの強硬派で、度々女王と政策で対立した政治姿勢故か。
女の統治者の限界を見せつけられる、底知れぬ有能さ故か。
目的の為には手段を選ばぬ、残酷さへの嫌悪か。
憶測だけならばいくらでも浮かぶが、理由がなんであれ、絶対君主としての女王の非情な一面が、かの男への仕打ちには、端的に表れていた。
ウォルシンガムの死後、イギリス政府により彼に関わる私文書は全て焼き払われ、この男に関する記述は、歴史の表舞台で明らかにされた功績以外には、多くは残されていない。
その数少ない資料の中で、彼はしばしば人生の苦痛を訴える言葉を残しているが、それでも、最期までその生き方を変えなかったのは、一種の美徳のように、後世の人間の目には映る。
だが――逆に何が、彼にそこまでさせたのか。
それは、彼の男の生涯に興味を持った、多くの人間が疑問に思うことだろう。それこそ、もしも本人に会うことが叶うのならば、1度聞いてみたいと思う程度には。
歴史の闇に生きた男の謎めいた素顔を、知ることは容易ではない。
『彼はあらゆる者を見通したが、彼を見通した者は誰もいなかった』
当時の男をよく知る人物ですらそう言い残しているのだから、後の世に生まれた人間が知るよしは、どこにもないのだろう。
だからこそ、出会えた幸運に乗じて直接本人に聞いてみたのだが、忠誠とはそういうものだと言われても、やはりレイには理解しがたい概念であることに変わりはなかった。
雇われた人間が雇い主に対して、要求されている仕事について従うのは分かる。だがそれは、賃金という対価を得るからだ。
「忠誠ねぇ……忠誠ってなんだ?」
結局、それはこの時代に生きた人間でなければ、分からない感覚なのかもしれない。
首を捻ったところで、バーコットは、何のために自分が部屋を出たのか、忘れていることに気付いた。
「……あ、そうだ。風呂」
少し考えて、思い出す。
本当は酔い覚ましに風呂に入るつもりだったのだが、女王に許可を取りに行こうにも、今は先客がいる。
そういえば、酒瓶も手にしたままだった。どうやらかなり酔っているらしい。この状態で彼女に会えば、面倒な小言を聞かされそうだ。
気の進まない一仕事を終え、酒に手を出したのだった。今はもう、何もする気になれなかった。
「あぁ、めんどくせぇ」
髪を掻き回し、毒づく。
時間が経てば経つほど、面倒臭いことになっている自分に苛立つ。
「……寝よ」
バーコットは考えることを放棄した。
思わぬ出会いに一瞬上がったテンションは、すぐに下落して眠気を誘った。
あくびを噛み殺し、バーコットは自室に戻り、扉を閉めた。
後の歴史家が、かの男の人生を評した言葉に、こんなものがある。
『――それは、見返りのない貢献だった。いまだかつて、いかなるイギリス国王にも、これほどの奉仕を与えられた者はいない。ウォルシンガムは、女王の生命と王位を救うために全財産を投げ出したが、窮乏のうちに死ぬままに放っておかれた』




