第185話 しんどい女王業
私たちの住む街は、ニューヨーク州でもかなり北の方に位置し、カナダとの国境沿いにあるナイアガラの滝までは、車で1時間ほどの距離だ。
世界三大瀑布の1つを、お手軽にドライブ気分で見に行けるのは、この街のお得なところだ。
夏場は遊覧船に乗って滝の間近まで近づき、全身びしょ濡れになりながら観光を楽しんだりもしたのだが、寒くなってから訪れたのは、その日が初めてだった。
ナイアガラの滝はカナダ側とアメリカ側の両方から見れるが、この日はパスポートを片手にカナダ側まで足を伸ばした。
全景を見渡せるカナダ側の方が観光名所としては人気が高く、よくテレビや雑誌で見かけるのは、こちら側の景色だ。
「つべたいー!」
曇り空の下、壮大な瀑布が目の前に広がる。
車を降りた私たちが辿り着いたのは、テーブルロックと呼ばれる滝の付け根から広がる展望スペースで、巨大な半円を描くカナダ滝を上から見下ろせた。
数十メートル直下の滝壺に流れ込んでいく、圧倒的な水の流れ。流れ落ちた水飛沫が滝壺から煙のように吹き上がり、霧状のシャワーになって顔を濡らした。
水煙が上がるほどの水圧が生み出す音はほとんど雷鳴のようで、声を張り上げないと隣の人との会話が難しいほどの轟音が、辺り一帯に轟いていた。
「しゃしんしゃしん……」
寒くて口と手がかじかむ。雪の日に冷えたミストシャワーを顔にかぶりながら、私はもたもたとデジカメを取り出した。
……が、滝の全容を収めようと構えた瞬間、画面がブラックアウトした。
「あっ、充電するの忘れてたっ!!」
「うわ、まぬけ!」
1枚も撮らずに役たたずになったカメラを手に声を上げる私に、隣から黒い画面を覗き込んできたレイの突っ込みが入る。
「だって、出掛けるの急だったから……」
いやまぁ、普段からまめに充電しとけという話なんですけどもね。いかん、ずぼらがバレる。
写真が撮れなかった以上に残念な自分に凹んでいると、霧で湿った前髪を掻き上げたレイがため息をついた。
「ったく、しゃーねぇな。代わりに撮ってやるよ」
「レイ、カメラ持ってきてるの?」
「ハンスが」
「ハンスかいっ」
胸を張るレイの背後で、すでにハンスはカメラを取り出していた。
なんというコンビネーション。というか、ハンスがレイを甘やかし過ぎだと思う。
「とるよー」
デジカメを構えたハンスが、パシャパシャと写真を撮り出すのだが、そのレンズの向いている先は、どう見てもナイアガラの滝ではなく私だった。
「ちょっとちょっとハンス? 別に私撮らなくていいのよ? 滝撮って滝!」
不意打ちだったのでびっくりして滝を指さすと、ハンスがカメラから顔を離してキョトンとした。
「なんで? もったいない」
いや、もったいなくはないだろう。
微妙に会話が噛み合わない。
もったいないって結構むずかしい言葉だと思うけど、ハンスはどういうニュアンスで解釈しているんだろう。
などと首をひねっていると、レイが口を挟んだ。
「ハンス、どうせ撮るんだったら俺も一緒に撮れよ」
「そうだった」
「そうだった、って……」
ハンスの独特のテンポに、レイが肩をこかす。
「とるよー」
マイペースにカメラを構えるハンスに向かってポーズを撮りつつ、私は誘いかけた。
「ねぇ、次ハンスも一緒に撮ろ! 3人で!」
その日はあまり人がいなかったので、1番リーチの長いハンスに自撮りしてもらって3人で写ったのだが、近過ぎてほとんど滝は写っていなかった。
「ま、いいじゃん。楽しそうだし」
レイが適当な言葉で解決したところで、ハンスが急に声を上げた。
「あ、カギ」
「カギ?」
「車のロックしたっけ?」
首をかしげたハンスに、焦ったのは私たちの方だった。
「マジかよハンス」
「ちょっと大変! 借り物よね?」
「すぐ見てくる。待ってて」
「おう、ここにいるから、急いで行ってこい」
ハンスが駆け足に駐車場へと向かう。その後ろ姿をハラハラと見送っていると、レイが深くため息をついた。
「ったく、あっちもこっちもボケまくりだな」
「あっちもこっちも?」
「ん? なんだその動かない役たたずな箱は」
「うう……っ」
握り締めていた電池切れのカメラを目でさされ、反論できなくて呻く。
これが気の置けない男友達なら、突っ込み待ちで強引な反論を試みたりもするのだが、レイ相手だと引かれたらどうしようという気持ちが先に立ち、会話が途切れてしまった。
気の利いた言葉の1つも返せれば良かったのだが、意識し過ぎるとこうなる。
そこも小さく反省しつつ、私は仕方なく、柵に寄って滝の流れを眺めながら話を変えた。
「ねぇ、ナイアガラの滝が凍るって本当?」
「ほんとほんと。全部じゃないけど、たまに端っこの方とか凍ったりするって」
レイも、私の隣に並んで柵にもたれかかった。肩が当たり、ちょっとドキドキするが、これくらい近寄らないと、普通に話してても声が聞こえない。
「今年は凍るのかなー。見てみたい!」
「どうかな、凍るとしたら2月くらいじゃないか。凍ったらまた見にこよう」
当たり前のように提案された、先の約束に気持ちが跳ねる。
「2月かー。遠いけど楽しみ。こっちの冬は日本よりずっと寒いんだろうな」
「……エリは、冬休みの間日本に帰るんだよな」
「うん。もう結構前に、飛行機取っちゃったし。でもちょっと早まったかも」
「残ればいいのに」
レイが子供っぽい口調で口を尖らせてくる。
アメリカの2学期制の大学では、8月末から12月初旬までが1学期だ。
それが終わったら、丸1ヶ月ほど冬休みに入る。
実は、渡米して1ヶ月くらいでホームシックになってしまって、冬休みは日本に帰ろうと決め、早めに飛行機のチケットを予約して、両親や向こうの友達にも連絡していた。
冬休みの間、ハンスも里帰りするらしく、レイはひとりだ。
どうやらレイは寂しがり屋みたいで、冬休みに私もハンスもいないのがつまらないと、今から嘆いていた。
だからいつもハンスとセットだったんだなと、今になって納得する。
私も寂しいなー。
レイと離れるのは寂しい。
「うーん……それは難しいかな」
気持ちとは裏腹に、私は現実的な返答をした。
私も、今は残りたい気持ちも強いのだが、もう飛行機のチケットも取ってしまったし仕方がない。両親にも帰ると連絡してしまったし。日本の友達にも片っ端から連絡を取って、忙しい年末年始の予定を私のために空けてもらっている。
「レイは、冬休みはどうするの?」
「うーん……まだ決めてないけど……」
聞き返すと、レイが歯切れ悪く唸った。
「……今さ、マリコにシェアハウス持ちかけられてんだよな」
レイが、ぽつりとそんな話をし出した。
「あいつの友達2人と、4人で」
「へぇ……」
「冬休み、どうせ寮追い出されるから、こっちに残るなら共同で家借りないかって」
「…………」
レイが、ずっと寮を出たがっているのは知っていた。
寮外で生活する場合、学生は数人で家を借りてシェアハウスをするのが一般的で、男女混合でシェアをすることも、別に珍しくはなかった。
「どうしようか悩んでる」
これが、相手がレイでなければ、「いいんじゃない」と言ってしまうところだが、少し前に、マリコに狙ってる宣言をされたばかりだ。
その行動力に舌を巻きつつ、胸中穏やかでないまま、なんと言ったらいいのか迷う。
けど、恋人じゃあるまいし、「そんなの嫌」ってワガママ言うのもおかしい気がして、かといって、理に適った反対理由もすぐには思い浮かばなくて、賛成は到底出来そうになくて、ぐるぐる考えているうちに、結局、曖昧な相槌を打つくらいしか出来ずにいた。
「レイ、エリ!」
そこで、ハンスが戻ってくる。
レイが振り返り、駆け寄ってくるハンスに確認した。
「ハンス、どうだった?」
「カギしてたーよかったー」
ハンスは笑顔だ。
「よかった、一安心ね」
「ごめんごめん」
「なんか腹減ったなー。どっかで食べようぜ。せっかくカナダ側に来たし」
「賛成! せっかくカナダ側に来たし」
レイの提案に、諸手を挙げて賛成する。
食に関しては、このカナダ側に来たというのが重要だ。
「不思議よねー。地続きなのに、国境越えただけで味違うんだから。レシピも国境で止まってんのかしら」
「かもな。腹ごしらえしたら、そのままトロント行くか。久しぶりにあそこのショッピングセンター行きたい」
「行くー!」
ナイアガラの滝から車で1時間半ほどの距離にある、カナダの大都市トロントには、世界最大のショッピングセンターがある。
「レイって男の人にしては買い物好きよね? この前もマーケット行ってきたって言ってたし」
「そうか? エリは女のくせにあんまり買い物行きたいとか言わないよな。普通、車出すつったらアウトレット行きたいとかぎゃあぎゃあ騒ぐもんだけど」
「そ、そう?」
しまった。実はブランド物にもそこまで興味がない。行きたい子がいれば一緒に付き合って楽しむが、自主的には全く行動の選択肢に入らない場所だ。
「べ、別に、レイが誘ってくれたところで十分楽しいから、いいかなーって……」
思わずしどろもどろになる。誘ってもらえただけでもありがたいのに、行き先指定するなんて考えもしなかった。こういう時はお任せじゃなく行きたいとこ言った方がいいのか? 女子力高いのか? ちょっとくらいわがままっぽく甘えた方が女の子らしいのか?
考え過ぎてぐるぐるするが、ふと、マリコならきっとそういうことを言いそうだなと、容易に想像がついた。目に浮かんでしまった光景を慌てて振り払う。
考えない考えない。
「イートンセンターに行くなら、あんまりゆっくりできないよ。もう行った方がいい」
運転手役のハンスは時間を気にしている。
「飛ばせよハンス」
「レイはすぐ思いつきで詰め込む。もっと計画性もったほうがいい」
「わりぃわりぃ、まあ何とかなるって」
ハンスの小言を聞き流すレイが、ポケットに手を突っ込んで先頭を歩き出す。
「エリ、時間大丈夫?」
レイの後ろをついていく私を、ハンスがこっそり気にかけてくる。
「大丈夫だよ。特に今日予定なかったし。私も久しぶりに行けて楽しみ」
「そう。なら良かった」
ハンスがホッとしたような笑顔を見せる。
「ごめん。あいつエリと一緒だとはしゃぐから、余計に王様になる」
「ハハッ、何それ」
やっぱりハンスも、レイの俺様気質は十分理解してるらしい。
前を歩くレイの後ろ姿を見ながら、ハンスがいたずらっぽい笑みを噛み殺す。
「めっちゃガキ」
そう言いながらも、ハンスの目は優しい。
「ハンスってすっごくレイのこと分かってるわよね」
「そう?」
「レイが、次何言うか分かってて行動してる感じ」
「あいつ分かりやすいよ」
「そうかな? ほんと、レイはいい友達持ったわ。頼り過ぎてて、冬休みにハンスなしでレイが生きていけるのか、心配になるくらい」
「オレもそれ、ちょっと心配」
「やっぱり?」
声を上げて笑うと、それを聞きとがめたレイが振り返った。
「なんだ? 俺の悪口か?」
「違うよーだ」
「ちがうよー」
当たらずとも遠からずなところを、2人で笑ってごまかした。
彼らと会えなくなる冬休みが来るのが嫌なので、しばらく時間が止まってくれたらいいのになと思った。
※※※
「――では、これで進めましょう。布告の上で、周知徹底するように。セシル、法令施行のための手引書を作成し、都市役人、地方治安判事に配布して。違反者に対する監視体制については、あなた方に一任します」
「かしこまりました」
最後に決定事項を確認し、会議の終了を告げた私は、枢密院委員達に見送られて会議室を出た。
礼を取る男達の厳かな敬意を背中に感じ、会議室を出るまでは威厳を保ったが、後ろで扉が閉まった瞬間、どっと疲れが襲った。
いや、まだだ。寝室に戻るまでは『オン』である。何とか気持ちを繋ぎ止め、背中が丸まりそうになるのを防ぐ。
うぅ……疲れた……
連日に及んだ会議から解放され、喜びも達成感もあるが、何より疲労が色濃かった。
グレート・レディーズを連れて廊下を歩く足取りも、いつもより重い。余計に寝室が遠く感じた。
だが、その間も、頭の中にはすでに別の懸案が去来していた。考えなければいけないことは、山ほどある。
「厳しいわね……マジで」
口の中で小さく呟く。
奢侈品の関税引き上げは、保守派の反対の強い規制緩和への鉾先を逸らすための、小手先の手段でしかない。
景気回復とは別に、徴税に関する改善も必要だろう。安易な課税は臣民の反感を買うが、今のままの制度では限界が――
あ。お腹痛い。
そう感じ、横腹を押さえる。
やっぱり最近調子が悪い。レイに診てもらった方がいいのかな。
いやでもな。それも恥ずかしいんだけど……
ここ数日、ずっとお腹に痛みを感じていたが、それどころではなくて誰にも言わずに我慢していた。
議論に集中していると痛みもまぎれたので、あまり気にしていなかったが、一段落ついて安心した分、余計にきているのかもしれない。
今夜は、ゆっくりお風呂に入ってリラックスしよ……
しばらくのんびりしたいところだが、会議に時間を割いた分、溜まっている執務を片づけなければいけないので、明日からは執務室に缶詰だろう。
ハットンもディヴィソン君も大分仕事には慣れてきているが、単純に私の手がける仕事が増えている分、執務も増大していた。
気が重いが仕方がない。
体がだるいのは気が重いからだ。気合いを入れ直して頑張れば大丈夫。
そう思って顔つきをキリッとしていたつもりなのだが、横合いからイザベラが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「陛下、お顔が青白いですわ」
「大丈夫」
そう言ったものの、1歩足を踏み出した時に、ぐらりと来た。
「……っ」
ヤバイ。
気持ち悪い。
思わず背中を丸めて、その場にしゃがみ込む。
「陛下……!?」
グレート・レディーズが驚くが、それどころではない吐き気に襲われた。
こんなところで吐きたくない。
口を押え、たまらず噎せると、手のひらに赤黒い染みがついた。
血――?
そう認識すると、スッと頭の中が寒くなった。一気に血が首下まで下がるような感覚に、急速に視界が端から暗くなっていく。
ぐらりと身体が傾き、咄嗟に立て直そうとするが、平衡感覚が失われて、床に崩れ落ちた。立てない。
色をなくした世界で、人影が揺れる。
「……!」
「…………!」
鼓膜が拡大したように音が広がって、周りが何を言っているか聞き取れない。
「大丈夫……平気……」
人前で取り乱したくない一心で、大丈夫と平気を繰り返すが、床に手をつこうと伸ばした腕が、なぜか虚空を掻いた。
あれ、床どっち?
どちらが天井か床かも分からなくなり、伸ばした手があてもなく彷徨う。
すると、突然誰かがその手を掴み、強引に引き上げられた。
ああ、こっちが上か。
天地が分かったことにホッとするが、すぐに足が地面を離れた。
誰かに抱き上げられたのか。誰だろう。
力強い腕に、目眩を我慢して目を開けるが、相変わらず明度を失った視界は写真のネガのような色合いで、よく分からなかった。
ペタペタと相手の身体を触ってみる。
温かい。
「誰……?」
「…………」
聞いてみるが答えはなく、朦朧とした意識の中で、誰かの名前を口走った気がするが、よく覚えていない。
迷惑かけてごめんなさい。
ほとんど呪文のように、そんなことばかり呟いていた気がする。




