第115話 後継者、誕生
4月の最終日、本格的な春の訪れと共に、その報は届いた。
「メアリー女王に、王子が誕生されました!」
馬を乗り潰して3日3晩夜通し駆けて続けてきたという使者が、フラフラになりながら、世界で一番早い速報を伝えてくる。
スコットランド女王メアリーが、息子を産んだ。名はジェームズ。
「そう……良かったわね……」
謁見の間でその報を聞いた瞬間、一瞬全身から力が抜けそうになり、私はその衝動を押し留めて、女王の顔を作り喝采を上げた。
「なんて素晴らしいことでしょう! 愛する妹に王子が生まれただなんて、なんとめでたい日でしょう。よくぞ1番に私に知らせてくれました」
玉座から立ち上がり、使者のメルヴィルをねぎらう。
「真心を込めてお祝いの品を用意します。それまでは、ゆっくりとこの宮廷でお待ちになって。ええ、本当に喜ばしいことです」
メルヴィルが下がることを許した後、私は崩れるように玉座に沈んだ。
また1つ、歴史の針が音を立てて進んだ。
私が死んだ後の次の王、ジェームズ1世。
安心感と虚脱感に、全身の力が抜ける。
「陛下……」
玉座に沈み込み、放心した私に、傍らに立つセシルが遠慮がちに声をかけてくる。
その声に我に返り、私は薄笑いを浮かべて口を開いた。
「やったわね、あの子。男の子よ。これで、少しは楽になれるんじゃないかしら。最大の責務は果たしたのだもの。私の方は、まだ途方もない重荷が乗っかってるけど」
歴史通りに進めるのならば、私はこのまま独身を貫いて、ジェームズにバトンを繋ぐことになる。
大英帝国への第一歩だ。
彼に引き継ぐまでに、私はこのイングランドを、一流国に仕上げなければいけない。
急速に現実味を帯びてのしかかった重責に、分かっていたことなはずなのに、動揺する気持ちを抑えられない。
両手で顔を覆い、気持ちを落ち着かせようと、深く息を吸い込むが、うまく呼吸ができなかった。
彼は、私の後継者だ。
歴史が正しく進んでいることに安心すると同時に、今この瞬間、自分の人生を完全に定められてしまったような虚脱感に襲われた。
いずれ来る死と、そこに至るまでの果てしない道のりを明確に意識させられ、祝福と不安がない交ぜになる。
気持ちの整理がつかない私を、傍らに立つ宰相は黙して見つめていたが、やがて、らちが明かない沈黙を破り、口を開いた。
「陛下。最近は、メアリーからは文は?」
「……ううん。来てない。色々あったし、仕方がないんじゃないかしら。近況が気になりはするけど……あの子のことだから、また気が向いたら寄越してくるんじゃない?」
少し落ち着いて、私は首を振って答えた。
「その前に、私の方からお祝いの手紙を送らなくちゃ。メアリーとダーンリー卿の子供なら、きっと可愛いんでしょうねー。洗礼式には、慣例通り代理人を送ることになるけど、贈り物は奮発しましょう」
私とその子供の関係がどうであれ、新しい命の誕生というのは、純粋に喜ばしい。
努めて声を明るくした私に、セシルが気遣わしげに眉を下げた。
「陛下、あまり……」
「うん?」
「……いえ、何でもありません」
首を横に振る宰相に苦笑し、私は手を伸ばして彼の眉間に触れた。
「セシル、眉間に皺寄ってる」
「あ……」
私の指摘に、セシルの眉目が開く。
「あんまり思い詰めないでね、セシル。頼りにしてるけど、心労で倒れられたら困るから」
心配をかけている私が言うのもなんだが、このところセシルは、輪をかけて忙しそうだ。
今年に入り、セシルが1年以上前から取り組んでいたドイツのハンブルクとの通商交渉が成立し、今は軌道に乗せるための大事な時期だった。
スペインの財宝船漂着事件以降、アントワープ港を失ったイングランドとしては、経由港としてのハンブルクとの通商を軌道に乗せることは重要な国家戦略であり、この成功はセシルの双肩にかかっていた。
こんな時に、つまらないことで煩わせるわけにはいかない。
今回の件は、つい動揺してしまったが、もう少ししたら気持ちの整理もつくだろう。
私の内面的な問題だけなので、彼の気を揉ませるほどのことではない。
「……心に留めておきます」
心労の張本人に言われたためか、セシルが苦笑して答えた。
※
明くる5月1日は、毎年恒例の五月祭だ。
もう3度目となるその一大行事を女王として全て参加した後、夜には去年と同様、華やかな大舞踏大会が開かれた。
去年のこの日にハットンに出会ったのだと思うと、本当に1年なんてあっという間なのだと感じる。
こうやって少しずつ、だが留まることなく、時間は流れていく。
昼間の行事は抜かりなくこなしたが、舞踏会を楽しむだけの気力はなく、私は適当なところで、気分がすぐれないと言って席を外すことにした。
寝室に帰るふりをして会場を抜けた後、グレート・レディーズには探さないように言い含め、ひとりになれる場所を探して城内をうろつく。
女王にだって、独りになりたい時はある。
……そうは思っても、なかなか、独りにさせてもらえないのが現実なのだが。
城には、結構奥まったところがたくさんあるので、お付きさえ退ければ、1人きりになるのは簡単だろうと思ったのだが、そういう人気のないところにいくと、宮廷恋愛に花を咲かせるカップルがひっそりイチャコリャしてたりするので侮れない。
やっと先客がいない場所を見つけたそこは、大広間の1つ上のフロアから突き出すバルコニーだった。
手すりにもたれかかり、まあるい月を眺める。
月光に照らされるバルコニーは広いが薄暗く、奥まった場所になれば全く光が届かない闇が広がっていた。
背にした室内には灯りがともっており、カーテン越しに光が漏れているが、人気はない。
階下には、舞踏会場となっている大広間と繋がっているバルコニーがあるが、こちらは先程見に行ったところ、数組の男女が逢瀬を楽しんでいた。
足元から、会場で演奏される音楽だけが、かすかに流れ込んでくる。
心地よいBGMと夜風を味わいながら、孤独を甘受すると、ようやく一息つけた心地がした。
こんな風に、理屈でなく気持ちが塞ぐ時は、何も考えずに心の空気を入れ替えるに限る。
「…………」
目をつぶり、深く息を吸い込むと、感覚が研ぎ澄まされた。
感性の扉を開き、五感を無防備に自然のうちに晒す。
人の手による演奏が遠く耳から離れ、風の音、鳥の声、葉擦れの音、虫の音、月明かりの音、雲の動く音、遠い小川のせせらぎ――に意識を委ねる。
感性はどこまでも広がり、はるか海の向こうまで、鳥の視点を持って飛んでいく。
夜も昼も通り過ぎ、閉じた瞼の裏に、大海原に広がる壮大な夕暮れのグラデーションが見える。
身体が浮き上がるように体重を感じなくなる。腕に触れる、ひんやりとした石造りの手すりの温度だけが現実味を残し、触覚が現実から切り離されていく。
清流の水に清められるように、日常の多忙さに澱んだ心が洗われていく。
そんな心地よいイメージに集中し、身を任せていると――
「こんな所にいらっしゃいましたか」
「うっひょぅ?」
思わぬ至近距離――ほとんど耳元――からバリトンの美声が聞こえて、私は飛び上るほど驚いた。
「何ですか今の奇妙な悲鳴は」
「い、いや、だっていきなり出てくるもんだから!」
右耳を抑え、慌てて振り返ると、見慣れた黒衣の男が無感動に見下ろしてきた。
唐突過ぎるわ、いい声過ぎるわで驚いたわ!
この低音は卑怯だ。声張られるとちょっと怖いけど。
「いきなり女王の背後をとるんじゃない!」
「気配は消してません。陛下がぼんやりなさっていただけです」
そうか。それなら仕方がない。実際ぼんやりしてたから。
何もそんな耳元で囁かなくてもいいじゃないかと思ったり、人がぼーっとしてたから脅かそうとしたんじゃないかと思ったりもしたが、まだドキドキが収まっていないので、深くは突っ込まないでおいてやる。
「何でこんなところにいるの」
まさかウォルシンガムまで密会というわけではあるまい。
「貴女を探す以外にこのような場所に来る理由がありますか?」
探し当てられてしまったらしい。相変わらず鼻が利く。
「うまく隠れたつもりだったんだけど」
「確かにここならば、意外に人目にはつきませんね」
手すりに手を置き、ウォルシンガムも外の景色を眺めやる。
雲がかかる月は満月に近い円形をしており、いつもより大きく見えた。
ここからだと、左手に、宮殿の正面中央に合わせてシメントリーに作られた広場を横から見る形になる。右手には、人工の森が広がり、夜の闇を深めていた。
「ですがせめて、1人くらいは従者をおつけ下さい」
「ひとりになりたかったの」
独り、静かに自然の中に身をさらし、心をデフラグすることは、今の私には必要なことだった。
「ご気分が優れぬご様子ですが」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど」
淡々とした語り口と表情からは、相変わらず分かりにくいが、叱りつけたり嫌味を言ってこないあたりから、彼なりに気を遣っているのだろうと判断する。
「なんだか、気が抜けちゃって」
今の自分の心理状態を言葉に表すのは難しかったが、気が抜けた、という表現が1番近いのだろう。
定められた後継者の誕生に、気が抜けてしまった。
そこで会話が途切れ、居心地の悪くない沈黙の中、私は手すりにもたれて夜風に吹かれた。
ぽつりと、呟く。
「メアリー、母親になったのね。すごいわね」
出産願望はないので、羨ましいとは思わないが、母親になる人は尊敬する。
「色々あったから心配したけど、無事生まれて良かった。これでメアリーも、少しは気が楽になったんじゃないかしら。世継ぎが生まれたってことは、女王として、1番求められている使命は果たしたんだから。ランドルフの報告では、ダーンリー卿との仲は相変わらずみたいだけど、これをきっかけに、いい方向に向かってくれればいいわね」
「…………」
マリコが、母親として心穏やかに過ごしてくれればいい。そういう期待も込めての発言だったが、隣で聞いていたウォルシンガムはうんともすんと言わない。
「……で、あなたの方はなんでそんな不機嫌な顔をしてるのよ、クマさん」
子供なら泣いて逃げ出しそうな顔でこちらを睨んでくる男を、振り返る。
「いいえ別に。会った初日にワインをかけられて、よくそこまで人のいい感想を抱けるものだと感心していただけです」
「え?」
「は?」
一瞬キョトンとしてしまい、素で聞き返した私に、ウォルシンガムの方が珍しく抜けた声を出した。
だが、すぐに思い出す。
「……あ! 忘れてた!」
ポン、と手を打つ。
そんなこともあった。あったあった。
「……私は今上陛下にお仕えして3年になりますが、今ほど陛下の記憶力を疑ったことはありません」
ヤバイ、危ない子だと思われてる。
「こいつ大丈夫か」という心の声が聞こえそうなほど不審な目で見られて、つい明後日の方を向いた。
「いや、ほら。嫌なことって覚えてても仕方がないじゃない? 寝たら忘れるっていうか」
我ながら、どこまでも都合のいい脳みそをしているとは思う。
「……海よりも深い御心に感服いたします」
呆れられてる? 馬鹿にされてる??
「……私はダメですね」
呟いたウォルシンガムに視線を戻すと、その目を避けるように背を向けられた。
「陛下の受けた屈辱を忘れるには、私の器は狭量に過ぎるようです」
黒い背中が発した台詞に、少し困ってしまう。
別に私のことで、そこまで怒んなくてもいいのに。
「クマさん……」
「……? 陛下?」
後ろから腕にしがみつくと、不思議そうに見下ろされた。
「忘れなさい」
「…………」
「女王命令」
「……御意」
大人しく従った相手に満足したところで、もうひとつ思い出す。
「……あ、でも、クマさんにもらったドレスがダメになったのは悲しかったから、そこは怒ってよし」
「……それこそ忘れて頂いて結構です。もう新しいものも贈りましたし」
去年の誕生日に、ウォルシンガムは約束通り、新しく白いドレスを贈ってくれた。
それで十分、私の中では過去の清算は済んでいる。
「古いのも取ってる」
「捨てて下さい」
「やだ」
「…………」
言い切ると、不機嫌な顔で黙られた。
最近、この男は都合が悪くなると、この顔でだんまりを決め込むということに気付いたのだが、さすがにその内心までは推し測れない。
付き合いの長さか、セシルは結構、そういうのが上手いのだが。
「戻ろっか」
「もうよろしいのですか」
「うん。なんか、ちょうどよく気分転換になったし」
掴んでいた腕を離し、バルコニーから繋がる部屋に戻る。
先を歩く私の斜め後ろを、影のように付き従ってくる相手に妙に安心感を覚えた。
なんとなく、この配置に慣れ切ってしまった自分がいる。
「心配かけてゴメン……ありがと」
礼を言って斜め後ろを振り返ると、ウォルシンガムが眉間に皺を寄せ、溜息をついてきた。
「ですから……私を破産させないで下さい」
「ふふ」
言うと思った。
素直じゃない返しを笑って受け流し、私は大人しく寝室に戻ることにした。
~その頃、秘密枢密院は……
「セシル、陛下は今どちらにいらっしゃる?」
人の多い大広間で、主席国務大臣を探し当てた守馬頭が、開口一番そう聞いてくる。
「先程、気分がすぐれないと言って、お部屋に戻られたように思いますが」
「それが、どうやらお部屋には戻っておられないようなのだ」
ロバートが首をひねる。
「グレート・レディーズに聞いても知らないと言われた」
「騒ぎ立てていないということは、女王に探すなと言われているのでしょうし、彼女たちが知らなければ、誰も知らないのでは」
「一体、どこに雲隠れされたのか……」
背の高いレスター伯が眉をひそめながら周囲を見渡すが、大広間には女王の姿は見当たらない。
昨日の、メアリー出産の報に、著しく動揺を見せた女王の姿を思い出し、セシルは小さくため息をついた。
以前にも感じたことのある不安が、胸にちらつく。
あれは去年、モレー伯の反乱に助成した件を、女王に叱責された時だったか。
努めて政治的な理由でセシルを糾弾した女王が、垣間見せた本音に滲む、メアリーへの情。
血の繋がりか、同じ女王という立場からの共感か、理由は定かではないが、女王の中に、かの従妹への一種特別な感情があるのは確かだ。
そのメアリーから、一時期頻繁に文が届いていたことも知っているが、国王の私書を改めるまでの権限はセシルにもない。
内容については、たわいもない日常の報告だと、本人から聞いていた。
何か政治的に重要な事柄があれば伝えるとのこと、女王自身がメアリー・スチュアートに不用意に情報を漏らさないことは口頭で約束されており、特に後者に関しては、慎重な彼女の性格を考えれば大きな心配はしていないが、その、従姉妹同士のたわいもない手紙のやり取り自体に、セシルはそこはかとない不安を感じていた。
両国の君主の友情が育まれることは、本来であれば喜ぶべきことだ。
イングランドとスペインが度重なる軋轢によって関係が悪化している今も、決定的な破局に至っていないのは、エリザベス女王とフィリペ王の、それまでに築かれた個人的な友情と信頼によるところが大きい。
互いの力量を知り合っているからこそ、決して無謀な賭けには出ない慎重さと、おそらくは人間的な情が、両国の友情をギリギリのところで繋ぎとめている。
だが、スコットランドの女王は――
「…………」
「どうしたセシル、腹の黒さが顔に出ているぞ」
セシルの真剣な思索を、ロバートのからかうような声が打ち壊す。
どうやら、かなり厳しい顔をしていたらしい。あまり人前では見せないようにしているのだが、メアリー女王のことに気を取られ過ぎた。
「失礼、貴方が隣にいることをすっかり忘れていました」
「おい……」
正直に答えると、最近存在感の薄さを気にしているらしい守馬頭が顔をひきつらせた。
どうやら、カール大公と女王がお忍びでロンドン市内を散策した際、護衛役に自分が選ばれなかったことに、相当打撃を受けたらしい。
無断外出の片棒を担いだハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーは、女王の取りなしでお咎めなしだったが、上司権限でのロバートの嫌がらせはしばらく続き、辟易したケアリーが女王に言いつけて、逆にロバートが叱責を受けたのは、つい先月のことだ。
「レスター伯、貴方はスコットランド女王をどう見ますか?」
先日出産の報が届いたばかりの隣国の女王について聞くと、ロバートは顎に手を当て、思い出すように顔を緩めた。
「ふむ、大変美しい女性だったな。もちろん、俺にとっての最高美神はエリザベ……」
「容姿について聞いているわけではありません」
「……矜持の高いお方に見えたな。女王らしい威厳と優美さを持ち合わせている。後は……どうやら、男を虜にするのがお好きらしい。ご自身の魅力の利用の仕方をよく理解している」
さすがに、女を見る目には長けている。
「モレー伯の反乱鎮圧の件や、ホリルード宮殿の脱出劇には驚かされたが……実にロマンティックな星の下に生まれていらっしゃるらしい。ああいったスリリングな女性に振り回されるのも、男としては一興だろう。そう思わないか? セシル」
「全く思いません」
「つまらん男だな」
「政治にスリルは必要ありませんので」
スリルを求める人間の気持ちは全く分からない。
危機など勝手に向こうから寄ってくるもので、こちらはいかにそれらを回避し、平穏な繁栄を望めるかを考えることに必死だというのに。
「けれど、スリル……ですか。それかもしれませんね」
「何の話だ?」
言葉にし難い、得体の知れない不安の正体を、朧気ながらに掴む。
警戒するべきは、女特有の、残酷なしたたかさ――だけではない。
モレー伯の反乱を助成した一件で、功を急いだと女王に指摘されたのは、ある意味では正しい。
急ぐことがあるとすれば、それは、この気持ち悪さを片付けてしまいたいという、直感的な警戒心だ。
メアリー・スチュアートという存在への、掴み所のない不安。
その正体が、利害や打算を超越した『何をしでかすか分からない怖さ』であるということに気付けるほど――セシルはまだ、隣国の女王のことを理解してはいなかった。




