第50話 届かない指先
晶は目を疑った。
栄生の壁役になって間もないというのに、リクは咄嗟の判断で“絶界”張り巡らし、物部の天火炎槍から栄生たちを守ったのだ。
絶界を発現させたことも驚きだが、よもや物部の天火炎槍を無傷で凌ぐとは……。
(こんなことが起こり得るのだろうか)
晶は考える。主より下賜された妖力は、壁役(人間)の身体にゆっくりと馴染んでいく。実際、それを壁役が妖術として発現させるには半年程度の時間が必要だ。
(……この少年は“亜子”と遭遇している?)
強烈な火炎に晒され、辺りは焦土と化していた。黒焦げになったアスファルトや電信柱、炭化した鳥居が、天火炎槍の威力を物語っている。
「無傷……ですか。手加減なしの炎槍だったんですけどね。まあ、あなたはさておき、たかだか壁役に傷ひとつ負わせることができないとは……少し傷つきました」
晶を尻目に、物部は気を失っている華源を肩に担ぐ。
「いったいあの壁は何者なんです? まったく……部下の方がダメージを受けている」
「知らん。それにしても、手下を巻き添えにするとは、相変わらずだな」
「甘いですね。この程度、うちの連中は覚悟の上です。さて──」
物部は言って、晶と向き合う。
「お孫さん、意識が戻ったようですね」
殺意。物部が左腕でその蹴りをいなすことができたのは、自分に向けられた強い殺意を感じたからだった。
「!」
物部は視界の端に捉えた姿を目で追う。
速い。
小さな身体が、強風に舞う落ち葉のように踊り、宙を蹴る。風の足場を生み出し、華麗なステップを踏むように彼女は跳び、そして物部に襲いかかる。
「お姉ちゃんを傷つけたのはお前か!」
「いけません、蒔絵」
間に合わん!──晶が動き出す前に、最悪の事態は起きる。
物部は蹴りを放つ蒔絵の足首を片手で掴むと、そのまま地面に叩きつけた。
「痛っ!」
蒔絵が小さな呻き声をあげる。
「蒔絵!」
物部は蒔絵の首に左腕を巻きつけると、一気に絞め上げた。一瞬で蒔絵の身体から力が抜ける。
(意識を……落とされたか)
晶より先に、栄生が跳んだ。
「姫さま!」
それは一瞬の出来事だった。栄生が気絶したリクに気を取られたその隙に、蒔絵は消えていた。
『お姉ちゃん、誰かにやられたの?』
蒔絵の性格を考えれば防げる事態だった。目を離した自分のミスだ。あの男は強い。桁外れに強い。事実、あの男は目で追うことすら不可能な蒔絵の蹴りを片手で受け、あっという間に絞め落としたのだ。父が手元に置くだけのことはある。
「蒔絵を返して!」
栄生は物部の正面から飛びかかる。
(両手がふさがっている。それなら──)
物部は右肩に華源、左肩に蒔絵を担いでいるのだ。勝機はある。栄生は物部の眼前で足場をつくると、真上に跳び上がった。
(戦う必要はない。蒔絵だけ取り返せれば良いんだ)
栄生の動きを見た晶が、援護とばかり地面すれすれの回し蹴りを放つ。タイミングは完璧だった。栄生は宙で回転すると、蒔絵に手を伸ばす。
(届く!)
栄生の指先が蒔絵に触れる寸前、物部は瞬時に消えた。見れば、物部の姿は焼け落ちた拝殿の前にあった。
「今日は驚かされてばかりです。速さだけでいえば、姫様、あなたは私より速い。しかし我々は“鎌狩り”の連中とは違うのです」
背を向けたまま、物部は静かに言った。
「ご安心下さい。陛下はご自身の都合で法を捻じ曲げるような方ではありません。大罪人である芝崎蒔絵は、今後、法廷で裁かれることになるでしょう」
「待て、物部!」
晶の鋭い声が飛んだ。
「沙汰あるまで煉界は封印します。後の始末は警備隊に任せるとしましょう」
「待って! 蒔絵!」
栄生の悲痛な叫びはどこにも行き着くことはなく、静かに消えていく。
「さようなら、師匠」
物部はそう言い残すと、人界門の奥へと静かに消えた。
◇
北風が傾いて強くなると、鈍色の空から細かい雪が舞い始めた。雪は渦を巻くように漂い、音もなく地表に吸い込まれていく。
栄生は届くことのなかった右手をしばらく見つめ、それから空を仰いだ。
屈託のない蒔絵の笑顔が、目に浮かんでは消えていく。守れなかった自分の無力さを憎み、大切な者を奪った父親を呪った。
「姫さま……」
晶の声が遠くで聞こえた。
リクに守られ、晶に守られ、蒔絵に守られ、そして私は誰も救えない。
雪が気まぐれに空を漂う。今では風の色も道も見えない。音も、匂いも、冷たさも感じることができない。
栄生は崩れ落ちるように膝を落として、呟いた。
「私には何もない」
第1章、完結しました。ここまで読んで頂き、ありがとうございます。拙い部分もあったかと思いますが、皆さまのおかげで10ヶ月、こうして書き続けることができました。まだ回収していない伏線などもありますが、しばらく物語を練ってから第2章に移りたいと思います。お付き合い頂き感謝!ありがとうございました




