第49話 絶界
リクは得も言えぬ快感の淵にいた。白い闇の中、ふわふわと身体が浮いているような感覚に身を委ねる。意識の境界がなくなって、自分の中身が溶け出していく。まるで暖かい湯船に自身が混ざっていくような、そんな心地よさだった。
『助けなさい』
突然、女の声がして、リクは我に返った。若草色のワンピースを着た美しい女が、目の奥に一瞬だけ浮かび、消えた。
『あなたにならできる。助けなさい』
それは、条件反射に近い反応だった。意思とは関係なく勝手に身体が動いた。
「栄生!」
気がつけば、リクは栄生の名を叫んでいた。右足で地面を蹴ると、自分でも驚くほどの速さで宙を駆けた。誰に注意を払い、どこへ向かい、何をすれば良いのか、瞬間的に理解できた。
「リク?」
リクは、ほとんどひと蹴りで、栄生のそばに着地する。それから両手を空に上げ、掌に力を集めた。水色の光が出現すると、たちまち栄生と蒔絵、三太の周囲を覆った。
炎に包まれた槍が空から降り注ぐ。物部の放った天火炎槍は、瞬く間に辺り一帯を焼き尽くした。近隣の雑居ビルも、鳥居も、社殿も、業火に包まれ激しく燃え上がる。
「これって……」
栄生は水色の壁に守られながら、空を見上げた。降り注ぐ炎の槍は、リクが展開した壁に触れると音もなく消失する。
「……絶界」
と、栄生は呟く。
壁役だけが生み出せる絶対防壁。あらゆる攻撃妖術を無効化し、主を守護する無敵の壁。
「まだ良く分からないけどさ、きっとこれでいんだよな?」
リクはそう言って、小さく笑った。
額にびっしりと汗が浮かんでいた。涼しげな笑顔とは裏腹に、かなり無理をしている。栄生にはそれが分かった。
「とはいえ、コレ、長くは保ちそうにないんだ。あいつの妖力が尽きるのが先か、俺のコレが壊れるのが先か……栄生、蒔絵ちゃんの具合はどう?」
その言葉に反応するように、蒔絵がゆっくりと目を開けた。
「蒔絵、大丈夫?」
栄生が声をかける。
「痛いとこはない?」
「お姉ちゃん……」
蒔絵の意識は、まだ微睡の中にいた。ぼんやりと見える不安そうな栄生の顔──お姉ちゃんは、いったい何を心配しているのだろう。
栄生が蒔絵の右手を握ると、蒔絵もしっかりと握り返す。
「良かった〜、斬られた腕は元どおりだね。ちゃんと治癒できた。あとで三太を褒めてあげよう」
(お姉ちゃんが泣いているように見えるのは気のせいかな……お兄ちゃんを褒める? どうして褒めるの? そんなことしたらまた調子に乗って……)
そこまで考えて、蒔絵の意識は微睡の中から急浮上する。
(そうだ。あのふたり組。私はピンク頭の女に右腕を飛ばされた。それから、確か帝の技を使って……)
蒔絵は起き上がって辺りを見まわした。火の海。まるで焚き火の中にいるような、火炎地獄の中に自分はいた。なのにちっとも熱くない。空を見上げると、真っ赤な雲から火の槍が降ってくる。
「わわ! お姉ちゃん、なに、これ? いったい、どうなってるの?」
栄生は混乱する蒔絵を優しく抱きしめた。
「大丈夫。全部、大丈夫だから」
「お姉ちゃん、血だらけだよ。ぜんぜん、大丈夫じゃ、ない。顔も腫れてる。誰かにやられたの?」
「気にしなくていい。私は平気。リクが守ってくれている」
そう言われて、蒔絵は始めてリクの存在に気がつく。蒔絵の背後に立ち、変わった結界を張っている。張り巡らされた水色の壁が、降り注ぐ火の槍を防いでいた。
「どうして人間のあの人が……」
「説明はあとで。蒔絵、動ける?」
「うん。少しだけ、妖力、戻ってきたから。お兄ちゃんは?」
ふたりは同時に三太を見た。頭を掻きながら、大の字でイビキをかいている。その姿はほとんど昼寝にしか見えない。
「この状況で……ある意味、尊敬できるわね」
「もう、ホントに、恥ずかしい……」
ふたりのやりとりを聞いていたリクが振り返る。そして驚きの声をあげた。
「うわ! 蒔絵ちゃん、本当に腕がくっついてる!」
「三太の薬のおかげ。普通の薬なら、きっと手遅れだった」
と、栄生は嬉しそうに言う。
「栄生、あいつの術はいつ終わるか分かるか? そろそろ限界が近い」
「お兄さん、安心して。この術ならもう畳まれる」
蒔絵が言うとおり、天から降る炎の槍はほどなく完全に消え去った。
「なんとか防げたな……悪いけど、栄生。たぶん、このあと、俺──」
リクはそこまで言いかけると、急激な眠気に襲われた。
『あなたになら……できる。助けなさい。いづれ、あなたは……』
薄れゆく意識の片隅で、リクはまた女の声を聞いた気がした。




