幸せの時
「上官殿、襟曲がってますよ。」
上官殿はこうしてたまに抜けている時がある。
「ああ悪い、なおったか?」
「いえ、まだ…ちょっと失礼します。」
首の裏辺りで変に曲がっていた襟を正面から腕を伸ばして正した。
上官殿も馴れた様子でじっとしてくれている。
「これで大丈夫です。」
「ありがとうな。」
こういうやりとり。
こういうやりとりの時、本当に思う。
(今日はなんて良い日だろう…)
わかっている。
なんて小さなことで喜んでいるんだという自覚はある。
自覚はあるのだ。
しかし、そんなこと言ったって上官殿に触れられる瞬間は貴重で間違いなく幸せを感じる瞬間なのだから仕方ない。
でも心配ない。
そんな浮かれぽんちな私の目はすぐに覚める。
「隊長殿ー!昨日見ましたよ!隊長殿ってダンスもお上手なんですね。いやー、サリーさんも相変わらずお綺麗で魅入っちゃいましたよ~」
ほらきた。
大抵こういう日はこういうことになる。
何故か知らないけれど大体そうだ。
せめてその報告が明日だったら今日一日は幸せでいられたのに。
今ではすっかり”サリーさん”が二番隊で定着してしまっている。
何度聞いても”縁談中なだけ”と繰り返す上官殿だが我々二番隊の中では恋人か婚約者で確定なのだ。
さらに隊員は貴族のお坊ちゃんたちだけあって夜会だなんだで実際見かけるらしく、翌日にはそれをいちいち上官殿に報告してくるのだからたまらない。
(ほんと、せめて私のいない時だったらいいのに…)
落ち込むのも飽きた。
まぁ、不毛な恋はわかりきっていたことだけど…。
ちなみに同僚たちがこの話題を持ってくるたびにそそくさと逃げ出すのもいよいよ日課となっている。
逃げ出してきた先は渡り廊下の窓際。
下を見ると演習を行う四番隊の人たちの姿があり、ぼんやりとそれを見る。
(いっそ上官殿より素敵な人いないかな…)
眼下ではペアになってストレッチを始める隊員たち。
四番隊は若い世代が多い。
適度に逞しい彼らは見ている分にはきっと一番目の保養になるに違いない。
(でも、ここは結局みんな貴族なのよね…)
三番隊には庶民出身者が何人かいると聞いているけれど四番隊は大体貴族のお坊ちゃんだ。
貴族に恋をしてたんじゃそれこそまた同じことになる。
(もう上官殿はサリーさんでも誰でもいいからとっとと結婚しちゃえばいいのに…)
そうしたら私はきっと諦められる。
誰かの誰かを愛するほど私だって馬鹿じゃない。
小さなことに喜んでしまうむなしさともお別れできる。
「こんなところにいたのか。」
でもそれは今じゃない。
上官殿が探しに来てくれた。
たったそれだけの小さな出来事に喜びを感じながら今日も私は恋をしている。