60 術式
何やら遠くで人が話し込んでいる声が聞こえる。一人はロゼッタだと分かるが、もう一人は誰だろう? そう思っていたらドアが閉められる音が聞こえ会話が途切れたので来訪者が立ち去ったのだと分かった。
ゆっくりとまぶたを上げると天蓋付きベッドの側面に設置されているカーテンが閉められている。客室のドアが開いても、来訪者から私の寝姿が見えないようにというロゼッタの心づかいだろう。
寝ぼけ眼をこすりながら起き上がりベッドから降りると私が眠る直前、テーブルの上に積み上げていた本と乱雑に散らかっていた複数の紙が綺麗にまとめられていた。
「これは……」
「マリナ様? もう、お目覚めになったのですね」
物音を聞きつけたのだろう。ドアが開けっぱなしになっていた控えの部屋から、プラチナブロンドの侍女ロゼッタが顔を出した。
「うん。けっこう寝たかしら?」
「まだお昼にもなっておりませんし、そんなに長い仮眠ではなかったですよ。体調は大丈夫ですか?」
「ちょっと寝て大分、サッパリしたわ。それより散らかってたテーブルの上を整理してくれたのロゼッタよね? ありがとう」
「いえ、適当にまとめただけですので。あ、さきほど女官長がお見えになったのでマリナ様が必要な医療器具を記した紙をお渡ししておきました。それにしても、あちらのテーブルの上に置かれてる大量の紙に書かれている物はいったい? 難しすぎて私にはよく分からなかったのですが?」
小首を傾げながら、瞳に困惑の色を浮かべるロゼッタに思わず苦笑する。確かにあれは上級者向けの物を参考に書かれたので難しい部類になるのだろう。
「あれね。一応、出来る範囲で書き起こしてみたんだけど使える人じゃないと意味ないし、実際ちゃんと使えるか私もちょっと自信ないからグラウクスさんのところに行きましょう」
「はぁ」
こうして、いまひとつ状況が把握できてないっぽいロゼッタと共に、昨晩書き上げた紙を所持して客室を出ると魔術師の部屋を訪ねた。長髪の魔術師は執務机で羽ペンを手に取り書類にサインを走らせていたが、私たちが訪れたのに気付くと顔を上げて鳶色の目を細めて微笑んだ。
「おやおや、マリナさんにロゼッタではないですか。今日は如何いたしましたか?」
「グラウクスさん。実は、これを見て欲しくて」
昨晩、書き上げたばかりの文字列がぎっしりと書き込まれた複数の紙を執務机の上に置き、ざっと並べると長髪の魔術師は黒縁眼鏡をクイと上げて、食い入るように複数の紙に目を通すと唖然とした。
「これは……。術式じゃないですか。それも、見たことがない新しい術式!? いったい、これをどこから?」
「昨晩、私が徹夜で書きました」
「な!? マリナさんが一人で書いたんですか……? それも一晩で!?」
目をむいて、呆然としている魔術師に私は微笑んだ。
「はい。でも新しい術式と言っても昨日、グラウクスさんから教えて頂いて本に書いてあった術式を参考にしながら手を加えて、改良して作った術式なんですけどね。使えそうでしょうか?」
「見たところ、じゅうぶん使えそうではありますね……。まだ試していないのですか?」
「グラウクスさんもご存知の通り、私は魔法が使えませんから」
「そうでしたね……。しかし、魔法が使えない者がこんな術式を構築するなんて……。目玉焼きも作ったことがないような者が城の宮廷フルコースレシピを編み出すよりも、ありえない話だと思うのですが……」
自身の手で口元をおさえながら、当惑気味に眉根を寄せる長髪の魔術師に私は苦笑する。
「まぁ、この世界で使用される文字を習得したおかげで術式の理解はできますし、グラウクスさんご自身が『基礎ができていれば応用もできる』と話していたので、何とかならないかと思ってワラをもつかむ思いで既存の魔法を応用することを考えたんですが。ちょうど良い魔法をいくつも提示して下さったおかげで、作業がスムーズに進みました」
「いや、普通は提示されたからって出来るものではないと思うんですがねぇ……。まして、一晩でなんて」
ブツブツと小声で独り言ちるグラウクスさんは、私が書いた術式の文字列を熱心に読みふけっている。しかし、こちらとしては実用できるか早く確かめたい。
「とりあえず早速、新規開発した術式の魔法が使えるか試して欲しいんですが?」
「ふむ。試すと言っても、この魔法を他者にかけるのは……」
「あー。これは軽々しく他人にかけるとダメなやつですよね」
一番手前にあった紙に書かれた術式を見ながら眉をひそめる魔術師に私も同意する。さらに、その横に置かれている紙に書かれている術式を見たグラウクスさんは苦々しい表情を浮かべた。
「こっちもマズイですねぇ……」
「そうですね。これもダメですね」
「いっそ、マリナさんが実験台になるという手もありますが?」
「あー。私、さっき仮眠とったばっかりなので」
「そうですか……。ロゼッタは?」
グラウクスさんは私の後方から、会話を見守っていた侍女に視線を向けた。突然、注目されたロゼッタは水宝玉色の目を丸くしたが、私は即座に首を横に振った。
「ロゼッタは侍女としての仕事に差し支えますから」
「ですよねぇ……。しかし、こっちの魔法ならマリナさんやロゼッタに使用しても問題ないのでは?」
別の紙に書かれた術式をグラウクスさんから提示されたが、私は気が進まなかった。
「あー。それね。せっかくやるなら、私やロゼッタじゃない方が良いんですよね」
「どうしてですか? これなら、副作用的な要素もないはずです。術の発動を確かめるだけなら問題ないのでは?」
「いや。自分の身体の構造って、もう分かってますし、どうせなら国王陛下に近い男性獣人の身体が見たいんですよね。国王陛下を見る前に健康な成人男性の身体も把握しておきたいですし」
「ああ、そういうことですか……。うーん。しかし、国王陛下の手術をするわけですから狼獣人がベストですよねぇ?」
「はい。できれば」
「しかし、狼獣人となると……。この城にいる狼獣人は基本的に王侯貴族ですから」
グラウクスさんは腕を組んで、思案しながら顔をしかめた。
「実験に協力して頂くのは難しいですか?」
「この魔法を発動するとなると、下手な相手では何を言われるか……」
「ですよねぇ」
輸血をしたいと言っただけで宮廷医師から『黒魔術の魔女』だの『暗黒の儀式』だの言われたのだ。身分の高い王侯貴族を相手に実験するのはリスクが高いと感じる。
「何をしても許されるような。都合の良い実験の協力者がいればいいんですがねぇ」
「いやぁ、さすがにそんな都合のいい獣人なんて…………。あ!」
一瞬、脳裏に思い浮かんだ人物について考えれば、考えるほど。これほど理想的に条件がそろってる人はいないと確信する。そんな私の胸中を察したのだろう。長髪の魔術師は私の顔をのぞきこんで、身を乗り出した。
「心当たりがあるのですか? マリナさん」
「一人だけ、最適な方がいました」
私の呟きをしっかりと聞いたグラウクスさんは、自身の黒縁眼鏡をクイっと上げて鳶色の瞳を輝かせた。
「おおっ! それは誰ですか!?」
「それは……」
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