第一話 『お前は誰だ』
最初に感じたのは熱さだった。
その熱を追いかけるように、鋭い痛みが背中を通って脳に響く。
誰かに刺された――そう思考が追いつく頃には、手足の力が不自然に抜けていた。
そのまま抵抗もできず、うつ伏せに地面へ倒れ込む。
鈍い思考を必死に動かし、助けを求めて声を出そうとするが、喉は自分の意思と反して血と呻き声を漏らすだけで終わる。
「誰だ…」
せめてもの抵抗に、最後に犯人の顔でも見てやろうと首を動かそうとするが、身体のだるさがその自由を“俺”から奪っていく。
死にたくない。
その想いが吐き出されることなく、冷たくなりつつある思考の中で反芻されて消える。
“俺”はゆっくりと重力に引っ張られるように沈んでいき…自分を生かしていた何かが、ぷつりと糸を切られたように途切れた。
…死んだ。
いや、死んだと、思っていた。
沈んだはずの意識が引っ張られるように覚醒してくる。
ラジオでチャンネルを合わせるように、先程途切れた糸が再び繋がる感覚。
そんな曖昧な感覚で、再び“俺”は目を覚ました。
「どこだ…ここ…」
薄ぼんやりした視界と、背中から伝わってくる樹皮の硬い感触に、強い土の匂い。
うつ伏せに倒れた状態から誰かに起こされたのか、体勢が変わっている。
全身の鈍痛がこれは夢ではないとアピールしてきて、目覚めは間違いなく最低だ。
「痛ッ…」
後頭部に鋭い痛みを感じ、手を伸ばすと、どろりと粘液のような血が髪に絡まっている。
頭を焦って触れるが、痛みの源泉たる傷口がない。
そうこうしている内に、少しずつ痛みも引いていく。
ぼやけた視界と、いまだに働かない脳で考える。
これは自分の血なのか?
とりあえず助かったのか…?
確か背中を誰かに刺されたはずだ。
というか、そもそも自宅にいたはずだ。
それとも頭を打って変な夢でも見たのかもしれない…本当に意味が分からない。
取り止めのない思考が浮かんでは消えてゆき、刺殺されたと思ったら撲殺されていたのかなどと、くだらない思考に逸れていく。
とりあえず“俺”はどこにいるんだ、と思い、ふらつきながら僅かにぬかるんだ地面に手をつけて立ち上がろうとする。
自身の腕の間、地面の濁った水溜りに反射する自分の…否、“誰か”の金髪碧眼の顔を見て硬直する。
「誰だよこれ…」
頭をぶつけておかしくなったのでなければ、記憶にある自分の姿と違う。
“俺”は黒髪黒目の一般的な日本人だったはずだ。
金髪碧眼の西洋風の顔では断じてない。
服装も“俺”の記憶にある姿とかなり違う。
泥で汚れたフードのついた黒いマントを纏っている。
安っぽい演劇の小道具か、ファンタジー物語から飛び出してきたような格好だ。
口や目を軽く動かしてみるが、水面に映る顔も同じように動く。
頭がズキズキと痛みを訴えてきて、背筋に冷たいものが走る。
「整形とか…ドッキリかな…?」
整形だとしたらタチが悪いが、今時はメイクで顔を変えられるらしいし、それならばまだ笑える。
「ははは…ホント誰だよ…こんなことした奴…」
そんな浅い現実逃避を嘲笑うかのように耳鳴りが聞こえ、咄嗟に耳を抑える。
「痛ッ…」
耳鳴りが強まり、脳に火鉢を突っ込まれたような痛みが走る。
誰か――この異世界で“僕”という人間が産まれ、そしてこの場所で木に叩きつけられ、“俺”に乗っ取られるまでの人生。
その記憶が、頭の中に流れ込んでくる。
頭痛が徐々に引いていき、“俺”は否が応でもここの現実を受け入れさせられる。
これは認める他ない。
“俺”は死んで、この青年を乗っ取ったのだと。
「おぇ…」
頭を強く打った影響か、生理的嫌悪感で吐き気がして、口を咄嗟に抑える。
…気持ち悪い。
“僕”にも…魂があったはず…いや、あるはずだ。
でないと“俺”が自分の記憶を持ってることの説明がつかない。
夢があって、人との繋がりがあって、尊厳があって、人生があったはずだ。
それを“俺”は文字通り擦り潰したのだ。
ガツンと衝撃を受けたように頭がくらくらして、脳が理解を拒む。
「起きたなら手伝え!」
聞き慣れないはずの言語…見慣れない男の声…。
薄ぼんやりとだが、頭に浮かんでくる。
“僕”の仲間のモーブ、というらしい。
彼が日本語ではない言葉を大声で叫んでいる。
だが何故か、意味だけが頭にするりと入り込んでくる。
覚えのない記憶から何故か理解できる言語に、嘔吐感が蘇ってきた。
脳に手を突っ込まれて掻き回されるような違和感。
そして何より、自分が異物だという嫌悪。
撹拌される思考とは裏腹に、目の前の光景と“僕”の記憶は考える時間がないことを“俺”に教えてくる。
視界の先。
樹々が乱立する森の中、広場のように少し開けた場所で、フルプレート…と言っても頭が付いていない鎧を着た長い金髪の少女が戦っている。
記憶によると、アイリーンというらしい。
その相手は、目測で5mほどある蜘蛛だ。
蜘蛛が5mあるのも十分驚きだが、そのタランチュラ然とした体と、脚先…爪の部分が赤く燃えている。
鋏角をカチカチと鳴らしている蜘蛛に対して、金髪の少女は自身の身体ほどある剣を軽々と右手だけで持っている。
「おい!頭打ってもっとアホになったのか!アル!さっさと動け!」
頭がズキズキと痛むが、アルというのが“僕”の名前なのだと、なぜか理解できてしまう。
それがとても気持ち悪い。
“僕”の名を“俺”に叫んでいる。
急かされるように周囲を見渡すと、傍に“僕”の剣が落ちていることに気がつき、手を伸ばして柄を掴んで立ち上がる。
ずっしりと金属の重さが腕にかかるが、何度も繰り返した動作のように嫌にしっくりくる。
“俺”は未だに状況を掴みきれていないが、うかうかと考えている余裕はない。
“俺”は操り人形のように剣の柄をグッと握りしめ、5mある燃える蜘蛛の方に駆け出していく。
金髪の少女…アイリーンが一瞬こちらをチラリと見て安堵したような表情をしたが、すぐに蜘蛛の方に向き直る。
自分の腕より少し短い程度の剣を持って走る。
と言っても、“俺”は勿論、箸より重い物を持ったことがないと定評のあった男で、当然真剣など持ち上げることなどできず、ましてや重い剣を持って全力ダッシュなど無理だろう。
だが、この身体は箸より重い物を持ったことがない“俺”の身体ではなく、こんな事を何度も繰り返してきた青年の身体である。
他人の物であるはずの身体をなんの違和感もなく動かし、眼前に迫る巨大な燃える爪を躱してから、剣を蜘蛛の脚の一本に向かって振り下ろす。
剣の重さと遠心力を腕に感じながら、弧を描いて吸い込まれるように蜘蛛の脚へめり込む。
――が、硬くて振り切れない。
「くっ…」
鉄棒でドラを叩いたような衝撃が伝わり、“俺”は剣を手放してしまい、後ろに数歩下がる。
腕がビリビリして力が入らない。
この蜘蛛にも痛覚はあるようで、脚の一本を惜しむように、めり込んだ剣を別の脚で払い落とす。
傷口から黄緑色の体液がドロドロと垂れる。
「キシャァァ」
蜘蛛の言語が分かるなら、恐らく悲鳴なのだろう。
その声を聞いて、躊躇いなく剣を振るったことに対する嫌悪感と罪悪感のようなものを感じ、一瞬硬直する。
「アル!」
透き通るような声でハッとして焦りを覚える。
ゆっくりとスローモーションに見える視界で、腹を突き出すように構えた蜘蛛の腹から発射された燃える糸が“俺”に飛んできている。
死。
その一文字が再び脳内を駆け巡る。
死ぬ。また。
金色の人影が“俺”と火蜘蛛との間に飛び出してきて…“僕”を、いや“俺”を庇うように糸の前に出た。
アイリーンの腕に燃える糸が当たる。
いや違う。
当たっていない。
アイリーンの腕に当たる直前、ナニカに防がれて空中で止まる。
ナニカで防いだと“俺”が認識したのと同時に、アイリーンの腕がブレて、蜘蛛の脚が一本斬り飛ばされる。
噴き出た体液が森の地面に染みをつける。
よく見えなかったが、糸を防いだ瞬間にカウンターで脚を切り落としたのだろうか。
“俺”は結果から推察するしかない。
アイリーンが脚を切り飛ばした瞬間、別の声が聞こえ、全力で横に避ける。
「どけ!」
狙い澄ましたタイミングで、氷の塊が飛んできて蜘蛛の胴体部分を完全に押し潰した。
生き物が軋みながら押し潰される、生々しい液体音が薄暗い森の中を突き抜け、“俺”の鼓膜を揺らす。
その気持ちの悪い音に生理的嫌悪感を覚えるが、次の光景に目を奪われる。
氷塊に潰された火蜘蛛はぴくぴくと動いた後、完全に動きを止めた。
すると死体も、飛び散った体液すら、まるで存在しなかったモノのように塵となってキラキラと空中に流れていく。
そんなある種の幻想的な光景の後に、死体の代わりと言わんばかりに薄い紅色に光る石がごろりと足元に転がった。
“俺”はその石に手を伸ばして持ち上げる。
石は見た目から想定した物より断然軽い。
「アル、頭大丈夫?」
そう口を開くのは、金髪に赤やオレンジ、幾つもの色を混ぜた宝石のような赤い目をした少女、アイリーン。
言葉足らずなのか、心無しか馬鹿にされている気もする。
「身体強化も使わずに突撃するなんて、いかれちまったか」
黒いローブを着た、先程氷塊を飛ばした黒づくめの男――モーブが、人を殺していそうな凶悪な面と黒い目を、揶揄うようなものに変えて言ってくる。
“俺”はどういう顔で答えればいいのか。
“俺”の事を言おうかと思案するが、
「やぁ君達の仲間の身体は頂いた!」
とは、流石に素直に言えるはずもない。
「…ごめん、大丈夫だよ」
“俺”は咄嗟に“僕”の真似をして答える。
「アル、本当に大丈夫?」
アイリーンが心配そうに顔を変えて言ってくる。
だがアイリーンが手に持っている剣という名の凶器に、少しばかり恐怖を覚えた。
現代では写真以外で見ることがない殺傷のための兵器。
それがアイリーンの手にも、“俺”の手にも握られていた。
“俺”もさぞかし酷い顔をしているであろう自覚はある。
だが、その心配は“俺”にではなく“僕”に向けられたものだろう。
“僕”の意思は二度とこの身体に反映されることはないだろう。
でも“俺”も別に故意にやったわけではない。
つまり最悪な話ということだ。
…誰にとっても。
しかし“俺”は自己嫌悪をグッと堪えて、“俺”にとっては最善。
しかし確実に最悪な選択肢を選んだ。
「うん、大丈夫だよ」
先程より強く意識して、“僕”のように話すのだった。
**************
「……い!おい!」
肩に衝撃を感じてハッとする。
少しボーッとしていた。
「どうしたのモーブ」
自己保身のため、他人の居場所を奪う自分に吐き気を覚える。
そして分かっていながらそれを変えられないことが、更に嫌悪感を嵩増しする。
「しっかりしろよ、もう塔を出たぞ…頭、痛むのか?」
「ごめん、考えごとしてたんだ。どうかしたの?」
“僕”ならこうするだろうと、表情と台詞を作る。
「……いや、大丈夫ならいいがな」
自分を誤魔化すような言葉に少しハラハラするが、バレない。
大丈夫なはずだと前を見る。
この都市はソルというらしい。
西洋の色を残す建築物が多い。
石造りの建築物が規則的に並び、同じように石を敷いた道が続いている。
土魔術で安易に作れるせいで石以外が普及しにくいのだと、アルの記憶が無駄に知識を思い出させてくる。
“俺”が歩いている大通りには、武器や薬などを売る露天商が並んでいる。
恐らく西洋と違うであろう点は、上に天井があることだろうか。
そのせいか薄暗く感じるが、大通りはランプの光で照らされており多少なりとも明るい。
イメージで言うと、閉塞的な商店街、あるいは悪趣味な水族館のトンネル水槽…だろうか。
この都市はざっくりと内街と外街があり、壁で区切られている。
“俺”達がいるのは、内と外を繋ぐ道の一つ。
とはいえ魔術があれば壁を越えることはできるため、天井まで塞がれている。
“僕”達の家は壁の片隅にある、登塔家用のマンション、あるいは団地みたいな場所だ。
10階建てほどの棟が6棟あり、手前には時計台のある広場がある。
この一場面だけで見ると現代とさして違いはないが、建物の閉塞感だけは凄まじい。
なんていうのだろうか。
窓しかなく、色の変化も突起物もないせいで、どことなく無機質さを感じさせるからかもしれない。
「じゃあ後でね」
「絶対遅れるなよ」
“僕”達の家に入る。
後で夕食を共にするという約束を交わして、モーブとアイリーンとは部屋の前で分かれた。
木製の扉には、「アル」とチョークのようなもので書かれた板が打ち付けられている。
“俺”にとっては初めて入る“僕”の部屋。
“僕”にとっては、もう帰れない部屋である。
「お邪魔します…」
居た堪れなくなり、他人行儀に少しだけなった。
この世界で生きるなら、慣れるべきものだ。
そう考えても、慣れる気が起きなかった。
部屋には白い質素なベッドがあり、その傍らにはサイドランプが置かれている。
木製のクローゼットを開けると、少し汚れている白いシャツのようなものが入っており、普段着なのだろう。
所々に裁縫で修繕した跡がある。
部屋自体はすごく質素で、中身の詰まっている本棚が異様に多い。
古書の匂いが立っている以外は、普通の部屋だろう。
窓についた黄色の薄い布地のカーテンが、部屋の主人を歓迎するように揺れているが、帰ってきたのは身体を奪った別人である。
部屋のどこを見ても、“僕”という人間の生活臭さ、あるいは個性のようなものを強烈に感じる。
“僕”の記憶によると、本棚の並びにもこだわりがあったらしい。
こだわりが人の個性であるならば、記憶があろうと“俺”はやはり“僕”とは別人なのだ。
ぱらぱらと本棚の一冊を抜いて流し見をする。
何度も取り出され読み込まれ、擦り切れた『魔獣大全』と銘打った本だ。
最初のページには魔獣の定義がある。
体内に魔石があるのが魔獣。それ故に例えば人間は魔獣ではない。
そして魔獣に共通する弱点として、魔石を砕くこと、とデカデカと書いてある。
……ざっくりとしすぎだ。
魔獣の魔石を砕くと市場価値が落ちるとも書いている。
だが、そんな事はどうでもいい。
探すべき場所はここではない。
恐らく作者の独断と偏見の危険度順で目次が作られている、と書かれた本を読み飛ばしていく。
火蜘蛛のことも書かれているページを飛ばして。
竜と書かれたページも飛ばして。
最後のページで目が止まる。
『転生者』
この頁が“僕”の記憶の中で、一番の問題だった。




