第58話 若旦那、「念のため」を二十反にしない
御用布の基準藍が決まって、三日。
青柳屋。
黒瀬屋。
大浜屋。
三軒の帳場には、それぞれ同じ工程表が置かれていた。
大祭前。
二百四十反。
後納。
六十反。
染め場は三か所。
荷札。
色紐。
急ぎ賃。
通常賃。
全部。
ようやく。
ようやくである。
針と釜が、ちゃんと動き始めた。
「若旦那」
藤兵衛が言った。
「青柳屋分、第一便十二反。本日午後、染め上がり予定です」
「はい」
「黒瀬屋、十八」
「はい」
「大浜屋、二十」
「はい」
「合計五十」
「順調ですね」
言ってから。
私は口を押さえた。
こういうことを言うと。
だいたい何か来る。
「若旦那?」
「何でもありません」
物語文法への警戒である。
もう学んだ。
順調ですね。
何も起きなければいいですね。
今日は静かですね。
全部危ない。
青柳屋の中では使用禁止にしたいくらいだ。
その時。
「若旦那!」
お鈴が店先から入ってきた。
ほら。
「代官所から、お使いです!」
来た。
順調。
終了。
役人は、いつもの男とは違った。
若い。
二十代半ば。
まだ役所仕事に慣れきっていない顔。
妙に丁寧で。
妙に恐縮している。
「青柳屋の若旦那殿」
「はい」
「御用布について、一点だけ」
一点だけ。
怖い。
前世の私は知っている。
一点だけ確認です。
から始まる話は。
だいたい一点では終わらない。
「何でしょう」
「祭当日」
若い役人が紙を見ながら言う。
「汚れ、破損、それから急な人員追加などもあり得ますので」
「はい」
「念のため」
来た。
私の背中に。
冷たいものが走った。
念のため。
前世で。
何度この四文字に遭遇しただろう。
念のため。
紙でも持っておきましょう。
念のため。
全員分印刷。
念のため。
予備。
念のため。
二重チェック。
念のため。
当日人員一名追加。
念のため。
前日までに。
念のため。
今後もこの資料は保管。
その「念」が。
毎年。
倉庫と人間を圧迫していく。
「予備を」
役人が言った。
「二十反ほど、追加できませんでしょうか」
二十。
ほら。
全然。
一点じゃない。
二十反だ。
「納期は?」
「大祭前で」
ですよね。
「二十全部?」
「念のためですので」
その言葉は、答えになっていない。
私は笑顔を保った。
外面だけ。
内面。
元役所職員・佐伯千佳が。
机を叩いている。
念のためを数量根拠にするな。
何の二十。
誰の二十。
何に対する予備率。
前年使用数は。
破損実績は。
追加人員見込みは。
根拠資料を出せ。
落ち着け。
完全に前世へ戻っている。
「二十反の内訳を、伺っても?」
若い役人が。
止まった。
「内訳?」
「はい」
「予備です」
「何の予備でしょう」
「ですから」
役人。
少し困る。
「何かあった時の」
来た。
何か。
最強の未定義語。
前世の脳内・佐伯千佳。
机をもう一度叩いた。
何かとは。
具体的に。
「破損用?」
「それも」
「人員追加?」
「はい」
「汚損?」
「あります」
「紛失?」
「あるかもしれません」
「それぞれ、何反くらい見込んでいます?」
役人が。
完全に止まった。
「……そこまでは」
ですよね。
「では」
私は言った。
「二十反という数は、どなたが」
また主語。
最近の青柳屋。
主語を聞きすぎである。
「祭役の方から」
「お名前は?」
「……」
若い役人。
紙を見る。
ない。
「口頭ですか」
「はい」
出た。
口頭。
念のため。
二十。
危険三役。
脳内で。
満貫くらいある。
「若旦那」
藤兵衛が小声で言った。
「顔が怖うございます」
「すみません」
戻す。
私は役人へ頭を下げた。
「追加自体は、検討します」
若い役人の顔が少し明るくなる。
「ただし」
また沈む。
「二十反を、そのまま今の工程へ足すことはできません」
「なぜです」
いい質問。
「今の二百四十は」
工程表を出す。
「職人が無理なく、大祭前に作れる数として組んでいます」
「はい」
「ここへ二十足すと」
「……」
「誰かの夜が増えます」
役人が紙を見る。
「でも予備がないと、当日困る可能性も」
「はい」
それも正しい。
予備をゼロにしろ。
という話ではない。
念のため。
には。
必要な念もある。
問題は。
念の量。
「では」
私は言った。
「必要な予備を出しましょう」
「二十ではなく?」
「必要なら二十でも」
まず。
数字を見る。
「去年の祭で、予備布は何反使いました?」
「調べます」
「破損?」
「調べます」
「当日の人員追加は?」
「調べます」
「紛失は?」
「それも」
役人。
少し嫌な顔。
仕事が増えた顔。
わかる。
申し訳ない。
でも。
こちらへ二十反増やすということは。
こちらの仕事が増える。
なら。
根拠を調べる仕事くらい。
そちらにも持ってほしい。
「今日中に?」
「明日でも」
「助かります」
本当に。
安心した顔。
やっぱり若い。
「それまで」
私は言った。
「今の工程は変えません」
「承知しました」
役人は帰った。
その日の午後。
伊織と宗兵衛を呼んだ。
「二十?」
宗兵衛の顔が。
ものすごく嫌そうになる。
「念のためだそうです」
「出たな」
伊織が言った。
「知ってるんですか、その言葉」
「商いでもある」
「どういう」
「念のため、多めに仕入れてくれ」
伊織。
「念のため、明日までに」
宗兵衛。
「念のため、もう一人呼んでおけ」
私。
三人。
黙る。
「……嫌な言葉ですね」
「便利なんだ」
宗兵衛が言った。
「理由を考えなくていいからな」
それだ。
念のため。
と言えば。
判断した気になれる。
でも。
何に備えたのか。
何割見込んだのか。
誰も考えなくなる。
「とはいえ」
伊織が言った。
「予備は必要だ」
「ですよね」
「当日破れた布を、そのまま着せるわけにもいかん」
「では、何反?」
全員。
止まる。
わからない。
だから。
調べる。
翌朝。
昨日の若い役人が。
帳面を抱えて戻ってきた。
少し。
疲れた顔。
「調べました」
「ありがとうございます」
本当に。
「昨年の大祭」
記録を見る。
「汚損、三」
「はい」
「破れ、二」
「はい」
「人員追加、四」
「はい」
「紛失、一」
「紛失?」
「どこかへ行ったそうです」
布が?
祭の日に?
どこへ?
少し気になる。
でも今は置く。
「合計十?」
「いえ」
「違う?」
「破れた二反のうち、一反は汚損したものと同じです」
「つまり九」
「はい」
「前年の予備は?」
「十五反」
「使ったのが九」
「六反、残りました」
「残った六は?」
役人が。
少し黙る。
嫌な予感。
「蔵に」
「今も?」
「……たぶん」
全員。
黙った。
私。
伊織。
宗兵衛。
小春。
藤兵衛。
「確認できます?」
「はい」
役人。
また仕事が増えた顔。
ごめん。
でも。
行ってもらった。
一刻後。
戻る。
「ありました」
六反。
「使えます?」
「確認したところ」
紙を見る。
「四反は使えます」
「残り二」
「虫食い」
なるほど。
前年予備。
使用可能。
四。
「では」
伊織が算盤を置いた。
「前年使用九」
ぱち。
「既存在庫四」
ぱち。
「不足五」
宗兵衛が言う。
「今年、人員が増える予定は?」
役人。
「警護が二名増えます」
「予備追加?」
「二反」
「なら七」
私が言った。
七反。
最初。
二十。
今。
七。
十三反。
消えた。
いや。
消えたのではない。
最初から必要なかった。
「七なら」
伊織が工程表を見る。
「どうだ」
染め場の親方にも確認する。
「大祭前へ足す?」
親方。
少し考える。
「七なら、今の各所へ分ければ」
「無理なく?」
「三か所へ二、二、三」
「夜仕事?」
「なし」
いい。
「縫いは?」
お松さん。
「七なら皆で分けりゃ大丈夫」
「急ぎ賃は?」
「払うならなおよし」
当然。
「払います」
宗兵衛。
即答。
変わった。
かなり。
「では」
私は役人へ言った。
「予備七反」
「はい」
「追加見積もりを出します」
「お願いします」
そこで。
お鈴が手を上げた。
「若旦那」
「はい」
「予備七反って、全部仕立てておくんですか」
一同。
止まる。
また。
お鈴。
時々。
根本を刺す。
「どういう意味です?」
「汚れた時に、全部着替えるんですよね」
「はい」
「でも、少し破れただけなら?」
小春が反応する。
「直せる」
「ですよね」
お。
「予備布全部を、完成品にしなくても」
小春が続ける。
「補修用の共布を、別に用意しておけば」
なるほど。
袖が破れた。
裾が裂けた。
すぐ直せる程度なら。
丸ごと一反交換しなくていい。
「予備七反のうち」
私は言った。
「何反かを、補修布へ?」
「はい」
小春。
「二反あれば」
かなりの補修ができる。
「では」
伊織が再計算。
完成品予備。
五。
共布。
二。
「これなら」
宗兵衛が言う。
「祭後、余っても使いやすい」
そう。
完成した御用布が残るより。
共布なら。
手直しに使える。
「お鈴さん」
私は言った。
「すごい」
「え?」
「二十反が」
紙へ書く。
最終。
完成品予備五反。
補修用共布二反。
「七まで減りました」
「私、何かしました?」
「しました」
本人。
わかっていない。
こういう人。
強い。
当たり前の疑問。
そこに。
業務改善は潜んでいる。
「ただ」
藤兵衛。
現実。
「補修用共布は、当日どなたが扱うので?」
一同。
また止まる。
そうだった。
布だけあっても。
縫う人がいない。
「小春さん」
全員。
見る。
「嫌です」
即答。
「まだ何も」
「祭の日、一日中待機ですよね」
ばれている。
「はい」
「嫌です」
「そこを」
「手間賃は?」
強い。
「出します」
宗兵衛。
「待機賃も?」
伊織。
「出す」
「飯は?」
私。
「青柳屋で」
「なぜうちが」
藤兵衛。
そこ。
私も今思った。
「大浜屋で出す」
宗兵衛が言った。
「祝い膳くらい用意する」
「祭ですよ」
「では弁当」
「いただきます」
小春。
早い。
決まった。
祭当日。
小春。
補修待機。
共布二反。
針。
糸。
鋏。
小さな手直し台。
「若旦那も?」
お鈴が聞く。
「私は」
一応。
若旦那。
現場監督的に。
行くべきか。
「行きます」
伊織。
「俺も」
宗兵衛。
「俺もだ」
三人。
また。
そろった。
「祭を見たいだけでは?」
小春。
三人。
黙る。
半分くらい。
それもある。
「仕事です」
私。
「仕事だ」
伊織。
「御用だ」
宗兵衛。
微妙に。
最後だけ強い。
夜。
帳面を書く。
代官所より。
予備布二十反の追加相談。
根拠確認。
前年実績。
汚損・破損・人員追加等。
実使用九反。
前年残在庫六反。
うち使用可能四反。
今年警護二名増。
必要追加量を再算定。
追加七反。
内訳。
完成品予備五反。
補修用共布二反。
当日。
小春、補修待機。
待機賃あり。
弁当、大浜屋負担。
最後。
一行。
「念のため」は、数ではない。何に備えるかを決めて、初めて数になる。
念のため。
便利な言葉だ。
不安を。
そのまま。
仕事に変えられる。
でも。
不安は。
上限がない。
二十あれば。
三十欲しくなる。
予備が一つあれば。
二つ欲しくなる。
確認を一回すれば。
もう一回したくなる。
安心したい。
その気持ちは。
わかる。
でも。
安心のために。
誰かの時間を無限に使っていいわけではない。
何が怖い。
どのくらい起きる。
起きたら。
どう対応する。
そこまで考えて。
初めて。
予備になる。
前世の私は。
自分自身も。
ずいぶん「念のため」に使っていた。
念のため。
私が覚えておこう。
念のため。
私が残っておこう。
念のため。
私も行こう。
念のため。
私がやっておこう。
そして。
気づけば。
自分が。
誰かの予備部品みたいになっていた。
どうせ一度死んだ身だ。
今度は。
念のため、と言われた時。
一回くらい。
何に備えるためですか。
と聞いてみたい。
それで。
必要ならやる。
いらない十三反なら。
作らない。
その方が。
人にも。
布にも。
たぶん優しい。
そう思ったところで。
お鈴が店先から言った。
「若旦那!」
「はい」
「しるべが!」
「念のため、ですか?」
「え?」
「すみません。何をしました?」
見る。
補修用に準備した小さな布箱。
その中。
しるべ。
完全に収まっている。
「しるべ」
にゃ。
「それは予備布です」
にゃ。
「猫の予備箱ではありません」
にゃ。
宗兵衛がまだいた。
猫を見る。
「念のため、箱をもう一つ用意したらどうだ」
「増やしません」
「だが、こいつがまた入るぞ」
「それは予備ではなく、猫対策です」
伊織が言う。
「箱を高い場所へ置けばいい」
それ。
一番安い。
「採用」
私は箱を棚へ上げた。
しるべだけ。
抱き下ろす。
猫が不満そう。
「対策は」
私はしるべへ言った。
「物を増やすだけではありません」
にゃ。
「置き場所を変えれば済むこともあります」
にゃ。
宗兵衛が笑う。
「猫相手に業務改善か」
「原因が猫なので」
「大変だな、青柳屋」
「最近、そう思います」
しるべは。
今度は。
空になった別の箱へ入った。
伊織が言う。
「そっちはいいのか」
見る。
ただの空箱。
「……いいです」
全部を防がなくてもいい。
困る箱だけ。
高くする。
それでいい。
私は、予備布の箱をもう一度確認した。
逃げたのではない。
二十反の「念のため」を、必要な五反と共布二反までほどいて。
最後は。
猫対策まで、予備を増やさず置き場所だけで済ませたのである。
⸻




