1.邂逅
どうやら俺は、ブーケの世界の主人公こと、日野アキラに転生してしまったらしい。
ためしに元の世界で住んでいたアパートに行ってみたところ、そこに俺の家はなかった。
頬をつねってみるが、普通に痛い。
にわかには信じられないが、これは現実のようだ。
ブーケでは、苗字は日野固定であり、名を自分で入力できる。自分の名をカタカナで打っただけなんだが、スマホで確認したところ、それがこの世界でも反映されていた。
良かった……。変な名前を入力しないで。
「と、なると……」
俺はこの後、少なくとも五人のメインヒロインと出会うはずだ。
このままいけば、あのどれも魅力的な女の子からモテモテということに……?
「ぐへへ……」
ガラスに反射した俺の顔が見える。
なんだこの気色悪い顔。
スッと真顔に戻る。
ふむ……。まあ、悪くないんじゃなかろうか。俺はこの世界の勝手を知っているし、ヒロインの攻略法も知っている。
人生やり直そうと決意した矢先、まさか本当にやり直すことになるとは思わなかった。
死んでしまったことは悲しいし、戻れる方法があるのなら戻りたい気持ちはあるが、悠々と美少女達を攻略しながら生活するのも良いだろう。
と、そんなことを考えながら歩いていると、通行人のお姉さんに肩がぶつかってしまった。
「おっと、すみませんねぇ」
「チッ、最悪」
と、その女性は露骨なほど大きな舌打ちをし、ゴミを見るような目で俺を見た後、ぶつかった肩をはたいた。
「男のくせに……」
そう言って、歩き去ってしまった。
俺はその背中をぼーっと見て、思う。
「そうだったあああああ!」
この世界も悪くない?
いやいやいやいや間違いなく最悪だ。
この世界は男女比1:10000で、一見すれば男は皆ハーレムだが、全く違う。
ブーケでは、男の立場が著しく低い。
子をなすのも女同士で可能な上、恋愛対象も同性であることが多い。
力仕事も魔法が関係ないし、魔力量は体力に依存しない。
つまり、女にとって男は存在価値がほとんどないのだ。
となれば、当然数の多い方が圧倒的に力を持つ。
それによって、この世界では女>>>>男という絶対的なヒエラルキーが生じてしまっている。
この価値観は攻略ヒロイン達にも根付いている。もちろん、最終的にそれは瓦解するわけだが、それにはかなりの苦労を要する。更にブーケは『ギャルゲーの皮を被ったRPG』と言われるほど、戦闘も多い。実際俺も、敵に負けゲームオーバーになったことも幾度となくある。ゲームならコンテニューすればいくらでもやり直しが効くが、これは現実。やり直しはできない。
いや、転生なんて非現実的なことが起こったんだ。あるいは生き返ることも可能なのかもしれないが、それを試す度胸なんてないし、仮に可能だとしても死ぬのは痛いし、怖い。
と、とになく対策を立てなければ……。
とりあえずは家に帰ろう。もちろん、この世界での主人公の家に。
それも危険はあるが……道端を歩いてて、その辺の女に「君、今日から私の奴隷ね」なんて言われて地下帝国みたいなところで働かされる可能性だってないとは言い切れない。
犬死にも奴隷生活も絶対嫌だ。とにかくうちに帰ろう。
と、周りもよく見ずに走ったのが良くなかった。
横道から突如現れた女性に思いっきりぶつかってしまう。
相手が思いの外体幹が強く、俺だけが尻もちをついて倒れる。
「……おい君、危ないじゃないか……。む?」
「いてて、すみません……。ん?」
相手の女と目が合う。その瞬間、バチッと頭の中で電流が流れるかのように衝撃が走った。
ま、まさか……。
「なんだ、君、男か……」
彼女の目が、蔑むような視線に変わり、フッと笑った。
「……なるほど。男は周りの見えない猿のような生き物、というのは間違いじゃないらしい」
長く水のように流れる黒髪と、芯のある強い眼差しを放つ黒い瞳。身長は高く、俺──主人公とほとんど変わらない。見惚れるほど綺麗な顔立ちだ。
制服を着て髪はポニーテールに結び、竹刀袋と鞄を肩にかけている。そして何より、この厳格な雰囲気。間違いない。
出会ってしまった。
俺は高速で頭を回して考える。
「……おい、何をじろじろ見ている」
「あっ、いえ」
急いで視線を逸らす。
まるで大和撫子の擬人化みたいな彼女の名は、西園寺椿。メインヒロインの一人だ。
当然、彼女も立ち回り次第で攻略が可能なのだが、問題が二つある。
一つは攻略難易度の高さ。五人の中であれば三番目と、高くも低くもないように感じるが、サブヒロイン含め様々なルートを考えると攻略難易度はかなり上位に位置している。
というのも、男に対する嫌悪感がかなり強い。五人の中では二番目になる。
そしてもう一つが、椿の性格だ。
さっきの問題とも繋がるが、基本的に彼女は規律を重んじ、誠を尽くす。何よりも品格を大切にしている女性なのだ。
そして男は、この世界において圧倒的に格下の生物であり、大多数が「軽薄で薄汚い者」と教え込まれている。
当然、彼女の価値観で言えば人の道をそれたように感じるのだろう。俺との出会いも、こちらが不注意でぶつかってしまったわけだし……。
そして彼女は、そういった者に対して、積極的に反発するタイプだ。
男に対する嫌悪感の強さは二番目、と言ったが、こちらへの危険度では断トツ。すなわち、俺が今一番会いたくなかったヒロインだ。
俺はそっと立ち上がって、何もなかったかのように横を通り過ぎようと……。
「ちょっと待て」
「ですよね」
肩を掴まれて目の前に引き戻された。
「人にぶつかったらまず謝罪だろう」
「さっき謝ったんですが……」
「ほう。あれが貴様の誠意か?」
「…………」
こ、怖いよお。目線が怖いよお。
というか殺気、漏れてますよね?
「私は鍛えてるがいいが……、人によっては怪我だってありえた。その辺がわかっているのか?」
ええい! こうなったらもう仕方ないわ!
必殺のアレを見せてやる。
「どうもすみませんでした!」
全力で土下座を決める。
どうだ。謝罪の中で最も重みのある姿勢。これを破ることはそうそうできまい。
「ふざけてるのか?」
一瞬で破られました。
こめかみのあたりがピクピクしている。
そうですよね、形だけの土下座に意味はないですよね。
「いやいや、ほんとに申し訳ないとは思ってるんですよ? ただどーにもね、長年の生活で染み付いた癖が……」
だって元は腐れ大学生なんだもん。
両親に叱責されてはかわして、バイト先で怒られてはかわして、金融会社に催促されてはかわして。
そうやって生きてきた結果、まともな謝り方を忘れたクソ人間と化してしまったらしい。
おまけにブーケ世界にいきなり転生した挙句、一番会いたくない人に真っ先に会って殺気を飛ばされたら混乱もする。
もう仕方ないじゃん?(諦め)
「ふむ。つまり、性根が腐っているということか」
「そこまでは言ってない」
「いいだろう……」
「何も良くないんですが」
「よし、私が鍛え直してやろう」
「何も、良く、ないんですが!」
椿は袋から竹刀を取り出して、剣先をこちらに突きつける。
「勝負だ」
「ポケモンの住人かよ」
彼女は無言で竹刀を上げ──ブン!──振り下ろした!
俺は咄嗟に横に転がってそれを避ける。
空ぶった竹刀はそのままコンクリートに突き当たり、衝撃と共に、わずかにヒビを入れた。
ええ……。
それ竹刀なんだすけど……。当たってたら死んでましたよね?
彼女は少し驚いた顔をする。
「ほう、よく避けたな」
「いやまじでそれな」
自分でも避けれると思ってなかった。
無我夢中で何が起こったのかほとんどよくわかってないが……なるほど。
たしかに、この体──主人公の体なら、避けるのも不可能ではないだろう。
というのも、俺の初期ステータスは魔力量こそ少ないが、他はバランス良く整っており、肉弾戦や近距離武器を使った戦闘は得意分野である。
まあそれでも、椿に比べれば一回り以上低いので、ラッキーなのは間違いないのだが。
しかし俺が攻撃を避けたことで、彼女は少し俺に興味──もちろん悪い意味で──を持ったようだ。
「では、次は少し力を入れようか。命の危機に瀕すれば、貴様も少しはマシになるかもしれん」
「いやいやホントにもう勘弁してくださ──うおっ!」
俺の言葉を待つことなく、椿は襲いかかってくる。
俺は必死になってそれらを避け、一目散に走り出した。
「逃しはせんぞ」
椿も俺を追って走る。
スピード体力共にあったが上だ。このまま逃げ回ってても、いずれ捕まってボコボコにされるだけだろう。
彼女のしごきは本当にキツい。
特に男に対しては尚更だ。
殺すような目をしながら、竹刀を振り回す様相は差し詰めバーサーカー。
俺には全く理解できなかったが、ブーケファンの中には、しごきを渇望するド変態M野郎が沢山いた。
いっそのこと、大人しく捕まるか?
俺の非と言えばぶつかったくらいだし……。彼女も俺が逃げるから追いかけてきてるだけで、死ぬ気で謝れば許してくれるかもしれない。
男相手だから少々強気なだけで、本当は心優しい少女なのだ。
さっきの一撃目だって、おそらく俺が避けれるようにあえてスピードを遅くした──と言っても気持ち半分くらいだが──のだろう。
こうして俺を追いかけるのも、怒りや男に対する嫌悪感ではなく、純粋に信義を重んじ、俺にちゃんとした謝罪をさせたいからだ。……多分。おそらく。
このまま逃げても、状況は悪くなるだけ……。
仕方ない。
俺は立ち止まって振り返った。
椿も立ち止まって俺を見る。
「諦めたか? なかなか良い度胸だ」
そう言って竹刀を振り上げる。
今だ!
俺はその瞬間、一気に飛び出して、彼女に近づいた。
距離が近くなれば振り上げた竹刀は俺の体が邪魔して下ろせない。
そうして一瞬でも動きを止めれればこっちのものだ。
「本当にすみませんでした! もう勘弁してください!」
泣きながらの全力謝罪。俺の思いを全てのせて、頭を下げる。
が、ここで誤算が一つ。
思ったより近づきすぎたようで、俺の頭は彼女の体に余ってしまった。
胸に、顔を埋めるような形で。
……言い訳をさせてくれ。
だって、俺まだこの体での距離感になれてないし、椿の胸がデカいのが悪い。
椿はプルプルと震えて、顔を真っ赤に染める。
その目つきは先ほどの比じゃないほどに強く厳しいものになっていて。
「殺す!」
俺は全力で逃げた。
………………
俺と椿は、住宅街を走り回っていた。
「ごめんなさい許してください! わざとじゃないんです!」
「ほう。自分から近づいて、自分から頭を下げたのにか? 中々面白いことを言う!」
「だって思ってたよりデカかったんだもん!(身長が)」
「で、デカい!?(胸が) 今のは挑発と捉えていいな? この西園寺椿に喧嘩を売ってるんだな!?」
「うわああああん! 違うんだってええええええ!」
ちくしょう。完全にキレてる。
もうどれだけ謝ったって許してもらえないだろう。さっきまでとは完全に状況が変わった。何が何でも逃げ切るしか道はない。
しかし悲しいかな。
ハア……ハア……。胸が苦しい。もう体力の限界も近い。
最後の賭けだ。
俺は突き当たりを右に曲がり、塀の中に飛び込んだ。
椿も続いて曲がり、俺の後を追おうとして、足を止めた。
「…………いない」
しばらく辺りをキョロキョロと探し回ったが、やがて諦めたようだ。
「あの男……。次会ったら完全に殺してやる」
そんな不穏なことを呟いて、彼女は立ち去った。
た、助かった……。
俺はなんとか動悸を抑える。
さて、とりあえず家に……。
「何してんの。アキラ」
と、窓がガラガラと開いて、中から一人の少女が俺を見下ろした。
そう。俺が入り込んだこの庭は、主人公、すなわち俺の家である。
そして、胸を抑えて倒れる俺を馬鹿にするように見下ろす少女こそ俺の妹──
俺は爽やかスマイルで手を挙げる。
「やあ」
「きしょ。男は家の入り方も知らないの?」
──妹にして、メインヒロインの一人。
日野桜である。