正法眼蔵 洗面
「法華経」の「安楽行品」には、「以油塗身、澡浴塵穢、著新浄衣、内外倶浄」、「香油を身に塗り、塵、汚れを洗浄し、新しい清浄な衣を着て、内外を共に清浄にして」と記されている。
この法は、如来、釈迦牟尼仏が、まさに法華経を説いた集まりで、四安楽行を行う人のために説いた言葉なのである。
このため、他の集まりでの言葉と同じではないし、他の経の言葉と同じではない。
そのため、身心を清浄にして香油を塗り、塵、汚れを除くのは、第一の仏法なのである。
新しい清浄な衣を着るのは、一つの清浄の法なのである。
塵、汚れを洗浄して、香油を身に塗ると、内外が共に清浄に成るのである。
内外が共に清浄な時、心と身が依り所とする環境としての報いである「この世」と、過去の行いの正に報いである心と身は、清浄なのである。
それなのに、仏法を聞かないし、仏道に参入しない愚かな人は、誤って「洗浄は、わずかに身の肌を洗浄できるだけで、身の内には五臓六腑が有る。五臓六腑を各々洗浄しなければ、清浄に成れない。そのため、身の表面を必ずしも洗浄しなくても良い」と言ってしまう。
このように誤った言葉を言ってしまう輩は、仏法を未だ知らないし、聞かないし、未だ正しい師に出会えていないし、仏祖の法の子孫に出会えていないのである。
暫く、このような邪悪な見解の輩の言葉を投げ捨てて、仏祖の正しい法の学に参入するべきである。
(仏ではない人は、)「諸法」、「全てのもの」の境界を未だ決断できていないのであるし、四大(元素)といった「諸大」の内外もまた会得できていないのである。
このため、身心の内外もまた会得できていないのである。
けれども、最後身の菩薩が既に今、道場に坐り仏道を成就しようとする時は、まず、法衣を洗浄し、次に、身心を洗浄する。
これが、過去、現在、未来の十方の諸仏の身のこなしなのである。
最後身の菩薩と、他の種類の者は、諸々の事が皆、同じではない。
最後身の菩薩の功徳、知、身心、荘厳は皆、最も尊いのであるし、最上なのである。
法衣の洗浄と身心の洗浄の法もまた同様なのである。
まして、諸々の人の身心、身心の境地は、時に従って異なる事が有る。
「一度、坐禅した時、三千界は皆、『坐断される』、『煩悩を断たれる』」と言われている。
「一度、坐禅した時、三千界は皆、『坐断される』、『煩悩を断たれる』」が、自分も他者も量る事ができない、仏法による功徳なのである。
坐禅の身心の量もまた「五尺、六尺」ではない。
「五尺、六尺」は必ずしも「五尺、六尺」ではないからである。
存在する場所も、この世、他の世界、尽界、無尽界などの有限、無限ではない。
「ここが、どこだと思って、更に、『粗い』とか『細かい』とか説くのか?」なので。
心の量もまた、思量分別で知る事はできないし、思量分別しないで究める事はできない。
身心の量は量る事ができないので、洗浄の量もまた量る事ができないのである。
身心の量、洗浄の量をひねって会得して修行して証する事が、仏から仏へ、祖師から祖師へ、仏祖が念頭に置いて護っている事なのである。
「計我」、「自分に執着して自説で仏法などを判断する事」を優先する事なかれ。
「計我」、「自分に執着して自説で仏法などを判断する事」を真実とする事なかれ。
そのため、法衣を洗浄して身心を洗浄すると、身の量と心の量を究め尽くして清浄に成らせるのである。
たとえ四大(元素)であっても、たとえ「色受想行識」という「五蘊」であっても、たとえ不壊の性質のものであっても、洗浄すると、皆、清浄に成り得るのである。
洗浄について、「水を持って来て洗浄した後は清浄なのである」とだけ知るべきではない。
水は、本から清浄でもないし、本から不浄でもない。
「本から清浄なものは、来て付いたものを清浄に成らせる」と言わないし、
「本から不浄なものは、来て付いたものを不浄に成らせる」と言わない。
仏祖の修行と証を保持し任せた時、「水を用いて衣を洗浄する」とか「水で身心を洗浄する」などの仏法が伝わっているだけなのである。
このため、修行して証すると、清浄を超越し、不浄を透過して脱ぎ落とし、「清浄ではない」とか「不浄ではない」という見解を脱ぎ落とすのである。
そのため、未だ汚染されていないが洗浄し、既に大いに清浄であっても洗浄する法は、仏祖の仏道だけが保持し任されている。
洗浄は、外道が知る事ができない事なのである。
もし「五臓六腑を洗浄しなければ、清浄に成れない」という愚かな人の言葉の通りであれば、五臓六腑を細かい塵にまで粉にして空のように成らせて、大いに海水を尽くして洗っても、塵の中を洗わなければ清浄には成らないであろうし、空の中を洗わなければ、内外の清浄を成就できないであろう!
しかし、愚かな人は空を洗浄する法を未だ知らない。
空をひねって来て空を洗浄し、空をひねって来て身心を洗浄する、洗浄を仏法の通りに信じて受け入れる者は、仏祖の修行と証を保持して任されるべきである。
仏から仏へ、祖師から祖師へ正統に代々正しく伝えている正しい法では、
洗浄を用いると、身心の内外、五臓六腑、心と身が依り所とする環境としての報いである「この世」と過去の行いの正に報いである心と身、法界、虚空の内外と中間は、たちまち清浄に成るのであるし、
香と華を用いて清める時、過去、現在、未来、因縁、行った業は、たちまち清浄に成るのである。
釈迦牟尼仏は、「三回、身心を洗浄して、三回、香で身心を清めれば、身心は清浄に成る」と言った。
そのため、身を清め心を清める法は、必ず一回、身心を洗浄しては一回、香で身心を清めて、このようにして連続して三回、身心を洗浄して、三回、香で身心を清めて、仏を礼拝して、経を読んで、坐禅して、坐禅の合間に歩くのである。
「坐禅の合間に歩き終わって、更に、正しく坐禅しようとする時には、必ず足を洗う」と言われている。
足が汚物に触れなくても、仏祖の法では、足を洗うのである。
原文の「三沐三薫」の「一沐」とは、一回、身心を洗浄する事なのである。
「通身」、「全身」を皆、洗浄するのである。
そうした後、常日頃のように衣を着た後、小さい香炉に名香をたいて、懐の内や法衣、坐禅する場所などを香で清めるのである。
そうした後、また、身心を洗浄して、また、香で身心を清める。
このように三回するのである。
これが、仏法の通りの作法なのである。
この時、「眼耳鼻舌身意」という「五感と意識」という「六根」や、「色声香味触法」という「六塵」が新たに来なくても、清浄の功徳は、有って、目の前に現れるのである。疑うべきではない。
「貪欲と怒りと愚かさ」という「三毒」と、「四倒」が未だ除去されていなくても、清浄の功徳がたちまち目の前に現れるのが、仏法なのである。
誰も凡人の思慮で量る事はできないし、何人も凡人の「見る眼」で見る事はできない!
例えば、沈香を洗浄して清める時、欠片にまで折って洗う事なかれ。
塵にまで粉にして洗う事なかれ。
全体のまま洗浄して清浄を得る事ができるのである。
仏法では、必ず、洗浄の法が決められている。
身を洗浄したり、
心を洗浄したり、
足を洗浄したり、
顔を洗浄したり、
目を洗浄したり、
口を洗浄したり、
排泄器官を洗浄したり、
手を洗浄したり、
器を洗浄したり、
法衣を洗浄したり、
頭を洗浄したりするが、皆、過去、現在、未来の諸仏と諸々の祖師の正しい法なのである。
「仏、法、僧」という「三宝」に捧げものを捧げる時には、諸々の香を取って来て、
まず、自分の両手を洗浄して、
口をうがいして洗浄し、洗面して、
清浄な衣を着て、
清浄な水盤に清浄な水を入れて、香を洗浄して、(香をたいて、)
こうした後に、「仏、法、僧」という「三宝」という知覚の対象に捧げものを捧げるのである。
願わくば、「摩黎山」の栴檀香を、「阿耨達池」の「八功徳水」で洗浄して、「仏、法、僧」という「三宝」に捧げる事ができますように。
洗面は、西のインドから伝えられて、東の中国に流布している。
洗面の法は諸部の律で明らかではあるが、なお仏祖が伝えて保持している洗面の法が正統である。
洗面は、何百年、仏から仏へ、祖師から祖師へ行って来ている、だけではなく、億千万劫前後、流通している。
洗面は、垢と皮脂といった汚れを除去するだけではなく、仏祖の命なのである。
「もし顔を洗わなければ、礼を受けるのも、他者に礼をするのも、共に、罪が有る」と言われている。
(もし顔を洗わなければ、)自分に礼を受けるのも、他者に礼をするのも、礼をされるのも、礼をするのも、性質が「空寂」、「虚しく」成ってしまうのであるし、性質が「脱落」、「抜け落ちて」しまうのである。
このため、必ず洗面するべきである。
洗面する時は、「五更」、「午前三時から午前六時までの夜明けの頃」か、「昧旦」、「昧爽」、「夜明け途中の未だ暗い頃」である。
私、道元が、道元の亡き師である五十祖の如浄の天童山の景徳寺に住んでいた時は、「三更の三点」、「午前一時前後」を洗面の時間としていた。
「『裙』、『法衣の下衣』と、『褊衫』、『法衣の上衣』」、「法衣」を着て、または、「直綴」、「法衣」を着て、手拭きを携えて洗面所に赴く。
(昔は法衣は腰から上半分と下半分の二つに分かれていた。)
手拭きは、一尺の幅の布で、長さは一丈二尺である。
(一尺は約三十センチメートル。一丈は約三メートル。)
手拭きの色は白ではいけない。
白い手拭きは禁じる。
次のように、「大比丘三千威儀経」には記されている。
手拭きを用いるには五つの事が有る。
(一)手拭きの上下の端で拭くべきである。
(二)一方の端で手を拭き、他方の端で顔を拭くべきである。
(三)「鼻を拭くなかれ」(、「鼻の中と、鼻水を拭くなかれ」)。
(四)手拭きを用いて皮脂といった汚れを拭いたら、すぐに手拭きを洗浄するべきである。
(五)体を拭くなかれ。体の洗浄には体拭きが有る。
手拭きを保持するには、このように保持して護るべきである。
手拭きは、二つに折って、左の肘の辺りの上に掛ける。
手拭きは、一方の半分は顔を拭き、他方の半分は手を拭く。
「鼻を拭くなかれ」とは、「鼻の中と、鼻水を拭くなかれ」という意味である。
脇、背中、腹、へそ、腿、ふくらはぎを、手拭きで拭くなかれ。
垢や皮脂で汚れたら、洗浄するべきである。
手拭きが濡れて湿っていたら、火にあぶり、日干しして乾かすべきである。
手拭きを体を洗浄した時に用いるなかれ。
「雲堂」、「僧堂」の洗面所は、「後架」、「僧堂の後ろに架け渡して作った洗面所」である。
「後架」、「僧堂の後ろに架け渡して作った洗面所」は、「照堂」の西である。
その配置図は伝えられている。
洗面所は、庵の中や、「単寮」では、都合の良い場所に構える。
寺の主の僧である「住持」は、「住持」が住む「方丈」で洗面する。
老人の僧が居る所には、都合の良い場所に洗面所を配置する。
もし「住持」が「雲堂」、「僧堂」に住んでいる時は、「後架」、「僧堂の後ろに架け渡して作った洗面所」で洗面するべきである。
洗面所に着いたら、手拭きの中央を首のうなじに掛ける。
手拭きの二つの端を(首と肩の上の)左右から(体の)前に引き出して、
左右の手で、左右の脇から、手拭きの左右の端を(体の)後ろへ引き出して、
(体の)後ろで、引いて交差させて、左の端を右へ持って来て、右の端を左へ持って来て、
胸の前の辺りで結ぶのである。
このようにすれば、法衣の首は手拭きに覆われ、法衣の両袖は手拭きに結び上げられて肘より上に上るのである。
肘から下の腕、手は現れる。
例えば、「たすきがけ」のように成る。
その後、もし「後架」、「僧堂の後ろに架け渡して作った洗面所」であれば、洗面桶を取って、釜の近くに行って、一桶分の湯を取って帰って、洗面台の上に置く。
もし他の場所であれば、湯が入っている桶の湯を洗面桶に入れる。
次に、「楊枝」、「歯磨きのために噛む木の枝」を使うべきである。
宋の時代の中国の諸々の山の寺では、歯磨きのために噛む木の枝を噛む法が廃れて久しく伝えられていないので、歯磨きのために噛む木の枝を噛む法が伝えられている場所は無いが、
私、道元は、日本の吉祥山の永平寺で、歯磨きのために噛む木の枝を噛む法を伝えている。
「今案」、「今、新しく考案した物」なのである。
これによれば、まず、歯磨きのために噛む木の枝を噛むべきである。
(歯磨きのために噛む木の枝を噛む前に、)歯磨きのために噛む木の枝を右手で取って、願いを唱えるべきである。
「華厳経」の「浄行品」には「手で『楊枝』、『歯磨きのために噛む木の枝』を取ったら、『全ての生者が、正しい法を『心得て』、『理解して』、自然に清浄に成りますように』と願うべきである」と記されている。
「全ての生者が、正しい法を『心得て』、『理解して』、自然に清浄に成りますように」と唱え終わって、更に、歯磨きのために噛む木の枝を噛む前に、願いを唱えるべきである。
「華厳経」の「浄行品」には「『楊枝』、『歯磨きのために噛む木の枝』を噛む時に、『全ての生者が、調伏の牙、身心を調和させて悪を降伏させる牙を得て、諸々の煩悩を噛みますように』と願うべきである」と記されている。
「全ての生者が、『調伏の』、『身心を調和させて悪を降伏させる』牙を得て、諸々の煩悩を噛みますように」と唱え終わってから、歯磨きのために噛む木の枝を噛むべきである。
歯磨きのために噛む木の枝の長さは、指が四本分か、八本分か、十二本分か、十六本分である。
「摩訶僧祇律」の第三十四には、「『歯木』、『歯磨きのために噛む木の枝』(の長さ)は、(噛む)量に応じて用いるべきである。最長は、指が十六本分である。最短は、指が四本分である」と記されている。
知るべきである。
歯磨きのために噛む木の枝の長さが、指が四本分よりも短くするべきではない。
歯磨きのために噛む木の枝の長さが、指が十六本分よりも長いのは噛む量に応じていない。(無駄遣いである。)
歯磨きのために噛む木の枝の太さは、手の小指の太さである。
けれども、小指より細くても、妨げは無い。
歯磨きのために噛む木の枝の形は、手の小指の形である。
一方の端は太くし、他方の端は細くする。
太い方の端を微細に成るまで噛むのである。
「大比丘三千威儀経」には、「歯磨きのために噛む木の枝の先端を噛むのが三分を過ぎるのは駄目である」と記されている。
歯磨きのために噛む木の枝を良く噛んで、「歯の上」、「歯の表面」を、特に歯の裏を磨いて洗浄するべきである。
度々、磨いて洗浄するべきである。
歯の根元の歯肉の上を良く磨いて洗浄するべきである。
歯の間を良く掻いて清浄に洗浄するべきである。
口を水でゆすぐ事は、度々すれば、洗浄されて清められる。
そうした後で、「舌をこそぐ」、「舌の表面に付着した物を除去する」べきである。
次のように、「大比丘三千威儀経」には記されている。
「舌をこそぐ」、「舌の表面に付着した物を除去する」には五つの事が有る。
(一)三回を過ぎる事なかれ。
(二)舌の上から血が出たら止めるべきである。
(三)大きく手を振って法衣や足を汚す事なかれ。
(四)「楊枝」、「舌をこそいだ木の枝」を人が通る道に捨てる事なかれ。
(五)人が通らない場所に捨てるべきである。
「三回、『舌をこそぐ』、『舌の表面に付着した物を除去する』」とは、水を口に含んで、「舌をこそぐ」、「舌の表面に付着した物を除去する」事を三回するのである。
「舌をこそぐ」、「舌の表面に付着した物を除去する」回数が三回というわけではないのである。
「血が出たら止めるべきである」というように理解するべきである。
よくよく「舌をこそぐ」、「舌の表面に付着した物を除去する」べきであるという事は「大比丘三千威儀経」には記されている。
「大比丘三千威儀経」には、「『口を清浄にする』とは、『楊枝を噛む事』、『歯磨きのために噛む木の枝を噛む事』と、口をうがいする事と、『舌をこそぐ事』、『舌の表面に付着した物を除去する事』である」と記されている。
そのため、歯磨きのために噛む木の枝は、仏祖と、仏祖の法の子孫が、保持して護って来ている物なのである。
釈迦牟尼仏が千二百五十人の出家者と共に王舎城の竹林精舎の中にいた時、十二月一日に、波斯匿王は、この日の食事を釈迦牟尼仏達に捧げた。
波斯匿王は、早朝に、自身の手で、釈迦牟尼仏に、歯磨きのために噛む木の枝を捧げた。
釈迦牟尼仏は、歯磨きのために噛む木の枝を受け取って、噛み終えると、残った木の枝を捨てた。
すると、釈迦牟尼仏が捨てた、残った木の枝が地につくと、木が生じた。
木が盛んに茂った。
根と茎が涌き出した。
木の高さが五百由旬に成った。
枝と葉が雲のように広がった。
周囲の木もまた同様に成った。
しばらくすると、華もまた生じた。
華の大きさは車輪のように成った。
ついに、果実もまた生じた。
果実の大きさは五斗の瓶のように成った。
根、茎、枝、葉が「七宝」、「七種類の宝」に成った。
いくつかの種類の色が映えて輝いて、優れて、麗しく、絶妙であった。
色に応じた色の光を発光して、太陽や月を覆い隠すほどであった。
その果実を食べると、果実は甘露のように美味であった。
良い香りの空気が四方に満ちた。
香りは、嗅いだ者の心情を悦ばせた。
良い香りの風が吹いて来て、香りが更に支え合ったり競い合ったりし、枝と葉が皆、「和雅の」、「仏の言い表せない素晴らしい」音を出して仏法の要を公演し、香りを嗅ぎ、音を聞いた者を飽きさせなかった。
一切の人々は、この木の不思議な変化を見て、仏を敬い信じる心を、ますます純粋にし厚くした。
すると、釈迦牟尼仏は仏法を説いたが、人々の意に応じ適い、人々の心を皆、「開解させた」、「悟らせた」。
仏を志して求める者は、天に生じる果報を得たが、とても多数であった。
仏や僧達に捧げものを捧げる法では、必ず早朝に、歯磨きのために噛む木の枝を捧げるのである。
その後、色々な捧げものを捧げるのである。
釈迦牟尼仏に、歯磨きのために噛む木の枝を捧げる事は多かったし、釈迦牟尼仏が、歯磨きのために噛む木の枝を用いた事は多かったが、波斯匿王が自身の手で歯磨きのために噛む木の枝を釈迦牟尼仏に捧げた話と、この高い木が生えた話は、知るべきなので挙げたのである。
また、この日、「六師外道」は共に、釈迦牟尼仏に降伏させられて、驚き、恐れて、逃げて走り、終に、河に身を投げて死んだ。
「六師外道」の弟子達、九億人が皆、来て、釈迦牟尼仏が師に成る事を求めた。
釈迦牟尼仏が「出家者よ、来なさい」と言うと、「六師外道」の九億人の弟子達は、髭と髪が自然に抜け落ち、(いつの間にか)法衣が身に存在し、皆、出家者と成った。
釈迦牟尼仏は、「六師外道」の九億人の弟子達の為に説法して、仏法の要を示すと、「漏」、「煩悩」が尽きて、「結」、「輪廻転生に結びつけ束縛する煩悩」から解脱して、悉く阿羅漢と成った。
そのため、釈迦牟尼仏が既に、歯磨きのために噛む木の枝を用いたので、人や天人は、歯磨きのために噛む木の枝を捧げたのである。
歯磨きのために噛む木の枝は、諸仏、諸々の菩薩、仏の弟子は必ず所持する物なのである、と明らかに知る事ができる。
もし歯磨きのために噛む木の枝を用いなければ、歯磨きのために噛む木の枝の法が権威を失墜してしまう。
悲しくないか?
次のように、「梵網菩薩戒経」には記されている。
あなた達、仏の子よ。
常に(春と秋という)二つの時に頭陀を行い、冬と夏に坐禅したり夏安居を結んだりしなさい。
常に、
(一)「楊枝」、「歯磨きのために噛む木の枝」
(二)「澡豆」、「保湿したまま洗浄してくれる洗い粉」
(三)「三衣」、「三種類の法衣」
(四)「瓶」、「水の容器」
(五)「鉢」、「食べ物の器」
(六)坐具
(七)害獣避けの音が鳴る「錫杖」
(八)香炉
(九)「漉水嚢」、「水中の虫を殺さないために水を漉す袋」
(十)「手巾」、「手拭き」
(十一)「刀子」、「小刀」
(十二)「火燧」、「火打ち石」
(十三)「鑷子」、「ピンセット」、「鼻毛抜き」
(十四)「縄床」、「携帯用の寝具」
(十五)経
(十六)律
(十七)仏像
(十八)「菩薩の形像」、「菩薩の姿形をかたどった絵や像」
を用いなさい。
そして、菩薩は、頭陀を行う時と、行脚する時、百里、千里を行き来しても、この「十八種物」、「十八物」を常に、その身に、身につけなさい。
頭陀は、(旧暦の、)一月十五日から三月十五日までと、八月十五日から十月十五日までである。
この二つの時期の間、鳥の二つの翼のように、この「十八種物」を常に、その身に、身につけなさい。
この「十八種物」を一つも欠かしてはいけない。
もし欠かせば、鳥の一つの翼が抜け落ちたような物なのである。もう一つの翼が残っていても、飛行できない。「鳥道」(に例えられる「悟り」)の「機縁」、「縁」にいない事に成ってしまうであろう。
菩薩もまた同様である。
この「十八種物」という翼が備わっていなければ、菩薩の道を行う事ができない。
「十八種物」のうち「楊枝」、「歯磨きのために噛む木の枝」は既に第一にあり、最初に備えるべきなのである。
この歯磨きのために噛む木の枝の「用不」、「用い方」を明らめている仲間は、仏法を明らめている「菩提薩埵」、「菩薩」、「無上普遍正覚を求める修行者」なのである。
未だかつて歯磨きのために噛む木の枝を明らめていない者は、仏法を夢にも未だ見た事が無いであろう。
そのため、歯磨きのために噛む木の枝を見る事は、仏祖を見る事なのである。
もし、ある人が「歯磨きのために噛む木の枝の意味とは、どういった物であるのか?」と質問したら、「幸いにも、永平寺の老人である道元が、歯磨きのために噛む木の枝を噛むのに出会った」と言うであろう。
「梵網菩薩戒」は、過去、現在、未来の諸仏、諸々の菩薩は、必ず、過去、現在、未来に受けて保持して来ている。
そのため、歯磨きのために噛む木の枝もまた、過去、現在、未来の諸仏、諸々の菩薩は、過去、現在、未来に受けて保持して来ている。
次のように、「禅苑清規」には記されている。
大乗の「梵網経」の十重禁戒と四十八軽戒は、共に、読んで、通じて利益を得て、「持犯開遮」、「思いやりのために、戒律を保持して守る事を遮って犯す事を許す事」を善く知るべきである。
仏の黄金の口からの神聖な言葉にのみ依るべきである。
思うままに凡庸な輩に従う事なかれ。
まさに、知るべきである。
仏から仏へ、祖師から祖師へ、正しく伝えている主旨は、このような物なのである。
これを間違えるのは仏道ではないし、仏法ではないし、祖師の道ではない。
それなのに、宋の時代の中国で、歯磨きのために噛む木の枝は、絶えて見えない。
千二百二十三年の四月の間に、初めて宋の時代の中国の諸々の山の諸々の寺を見ると、歯磨きのために噛む木の枝を知っている僧侶はいなかったし、官民の貴賤の者も同じく歯磨きのために噛む木の枝を知らなかった。
僧は、歯磨きのために噛む木の枝を全く知らないので、歯磨きのために噛む木の枝の法を質問すると、色を失って顔が青く成り、度を失って慌てた。
「白法」、「清浄潔白な法」、「仏法」の権威が失墜している事を憐れむべきである。
わずかな、口を洗浄する輩は、馬の尾を一寸余りに切った物を、牛の角を大きさを三分くらいにして長方形に作った物の長さが六、七寸のうち二寸くらいの端に馬のたてがみのように植えて、(ブラシにして、)これを用いて歯を洗浄するだけであった。
(一寸は約三センチメートル。)
僧の器として用い難い人である。不浄な器の人である。仏法の器の人ではない。俗人のうち天人を祭る人でもなお嫌うであろう。
その(歯ブラシのような)器具をまた、俗人も僧も共に、靴の塵を払う器具に用いてしまうし、髪をすく時に用いてしまう。
少しの大小は有るが、これ(、歯ブラシのような物)一つなのである。
この(歯ブラシのような)器具を用いる人も一万人に一人なのである。
そのため、天下の出家者も在家者も共に、口の息がとても臭い。
二、三尺を隔てて物を言う時も、口臭が来てしまう。
(一尺は約三十センチメートル。)
口臭を嗅ぐ者は耐え難い。
「道に適った高徳の長老の僧」を自称したり「人や天人の導師」を自称する輩も、口を洗浄し、舌の表面に付着した物を除去し、歯磨きのために噛む木の枝を噛む法が、存在する事すらも知らなかった。
これから推測すると、仏祖の大いなる仏道が衰退しているのを見るであろう事は、どれほどか、わからないほどなのである。
今、私達は露のように儚い命を万里の青い(海の)波に惜しまず、外国の山や川を渡り超えて、仏道をたずねようとしても、仏道が衰退している運びを悲しむべきである。
どれだけの「白法」、「清浄潔白な法」、「仏法」が先立って姿を隠してしまったのであろうか?
惜しむべきである。惜しむべきである。
しかし、日本の官も民も、仏道者も俗人も、共に、歯磨きのために噛む木の枝を見聞きしているのは、仏の光明を見聞きしているのであろう。
けれども、歯磨きのために噛む木の枝の噛み方は仏法の通りではないし、舌の表面に付着した物を除去する法が伝えられておらず、中途半端なのである。
だが、宋の時代の中国人が歯磨きのために噛む木の枝を知らないのに比べれば、日本人が「歯磨きのために噛む木の枝を用いるべきである」と知っているのは、自然に「上人」、「高徳の僧」の法を知っているのである。
仙人の法でも歯磨きのために噛む木の枝を用いる。
僧も仙人も皆、「俗世」という「塵」、「汚れ」を離れた器の人なのであるし、歯磨きのために噛む木の枝は清浄の日常の道具なのである、と知るべきである。
次のように、「大比丘三千威儀経」には記されている。
「楊枝」、「歯磨きのために噛む木の枝」を用いるには五つの事が有る。
(一)規則の通りに木の枝を切りなさい。
(二)法の通りに木の枝を破棄しなさい。
(三)先端を噛んで三分を過ぎる事なかれ。
(四)歯が抜けた場所には、中に当てて三回、噛みなさい。
(五)汁は目を洗浄するのに用いなさい。
千二百三十九年現在、歯磨きのために噛む木の枝を噛んで口を洗浄した水を、右手に受けて目を洗浄するのは、「大比丘三千威儀経」の説が源なのである。
千二百三十九年現在、日本の過去の家庭の教訓なのである。
舌の表面に付着した物を除去する法は、栄西が伝えた。
歯磨きのために噛む木の枝を使った後、捨てようとする時、両手で木の枝の噛んだ方から二つに裂く。
その裂け口の鋭利な方を横向きに舌の上に当てて、舌の表面に付着した物を除去する。
右手で水を受けて口に入れて口を洗浄し、舌の表面に付着した物を除去する。
水による口の洗浄、舌の表面に付着した物の除去を何度か(、くり返)し、裂いた木の枝の角で舌の表面に付着した物を除去して、出血しないようにする。
水で口を洗浄する時、「全ての生者が、清浄な法の門へ向かい、究極的に、解脱しますように」という言葉を密かに唱えるべきである。
華厳経には、「口と歯を洗浄する時には、『全ての生者が、清浄な法の門へ向かい、究極的に、解脱しますように』と願うべきである」と記されている。
何度か口を洗浄して、唇の内側と、舌の下と、顎に至るまで、右手の親指、人差し指、中指で、指の腹で、よくよく滑らかになるほど洗浄して除去するべきである。
油っこい物を食べたのが近かった時には、石鹸の代わりと成る皀莢を用いるべきである。
木の枝を使い終わったら、人が通らない場所に捨てるべきである。
木の枝を捨てた後、三回、指を弾くべきである。
「後架」、「僧堂の後ろに架け渡して作った洗面所」では、捨てる木の枝を受ける物があるはずである。
他の場所では、人が通らない場所に捨てるべきである。
口を洗浄した水は、洗面桶の外に吐き捨てるべきである。
次に、洗面する。
両手で洗面桶の湯を掬って、額から、両眉毛、両目、鼻の孔、耳の中、頭、頬を遍く洗浄する。
まず、よく湯を掬って、湯をかけて、そうした後、こすって洗浄するべきである。
涙、唾、鼻水を洗面桶の湯に落として入れる事なかれ。
このように洗浄する時、湯を際限無く費やして、洗面桶の外に漏らして落として散らして、早く失う事なかれ。
垢が落ち、皮脂が除去されるまで洗浄するのである。
耳の裏を洗浄するべきである。耳の中に水がつくといけないので。
眼の裏を洗浄するべきである。眼の中に砂がつくといけないので。
頭髪、頭までも洗浄するのが、「威儀」、「身のこなし」、「作法」なのである。
洗面が終わって、洗面桶の湯を捨てた後も、三回、指を弾くべきである。
次に、手拭きで顔を拭く方の端で拭いて乾かすべきである。
そうした後、手拭きを元のように脱いで取って二重にして左肘にかける。
「雲堂」、「僧堂」の「後架」、「僧堂の後ろに架け渡して作った洗面所」には、公共用の手拭きが有る。
「一疋布」、「疋布」を設けている。
手拭きを火であぶって乾かす箱も有る。
皆が共に顔を拭いても、手拭きが不足する心配が無い。
公共用の手拭きで頭と顔を拭いても善い。
また、自分の手拭きを用いても善い。
共に、作法なのである。
洗面の間、桶と杓を打ち鳴らして音を出して騒がしくする事なかれ。
湯や水を乱暴に使って近辺を濡らす事なかれ。
次のように、密かに想像するべきである。
「後五百歳」、「末法の世」に生まれて、日本という、辺境の僻地、遠く離れた島にいるが、前世の善行が朽ちず、古代の仏の身のこなしを正しく伝えられて汚染せず修行して証する事ができる事を、喜ぶべきである。
「雲堂」、「僧堂」に帰る時は、足音を小さくし、声を小さくするべきである。
老人の僧の、草の屋根の庵には必ず洗面所が有るべきである。
洗面しないのは、仏法に背いている。
洗面の時、「面薬」、「顔の薬」を用いる法が有る。
歯磨きのために噛む木の枝を噛む事、洗面は、古代の仏の正しい法なのである。
道心が有って仏道をわきまえている仲間は、洗面などを修行して証するべきなのである。
湯を得られない時には水を用いるのは、前例なのであるし、古代の法なのである。
湯も水も全く得られない時は、早朝に、よくよく顔を拭いて、香草や粉末状の香などを塗った後、仏を礼拝して経を読み、焼香して坐禅するべきである。
未だ洗面しない人が諸々の務めを行うのは共に無礼に成ってしまうのである。
正法眼蔵 洗面
千二百三十九年、雍州の観音導利興聖宝林寺にいて僧達に示した。
インド、中国は、国王、王子、大臣、諸々の役人、在家者、出家者、官民の男女、全ての人々は皆、洗面する。
家の日常の道具にも洗面桶が有り、銀の洗面桶や、「鑞」、「錫と鉛の合金」の洗面桶なのである。
天人の祠や霊廟にも、毎朝、洗面を捧げる。
仏祖の「塔頭」にも洗面を捧げる。
在家者も出家者も、洗面の後、衣を正して、天をも礼拝するし、天人をも礼拝するし、代々の祖師達をも礼拝するし、父と母をも礼拝するし、師匠を礼拝するし、「仏、法、僧」という「三宝」を礼拝するし、三界の全ての霊と十方の真の主宰者を礼拝する。
今は、農耕者、漁師、木こりまでも洗面を忘れる事が無い。
けれども、歯磨きのために噛む木の枝を噛む事が無い。
日本は、国王、大臣、老人、若者、官民、在家者、出家者は、貴賤を問わず共に、歯磨きのために噛む木の枝を噛む法、口を洗浄する法を忘れない。
けれども、洗面しない。
一長一短なのである。
今、洗面も、歯磨きのために噛む木の枝を噛む事も、共に、保持して護る事は、欠けた物を補う興隆なのであるし、仏祖が見守ってくれる事に成るのである。
千二百四十三年、越州の吉田県の吉峰寺にいて僧達に重ねて示した。
千二百五十年、越州の吉田郡の吉祥山の永平寺で僧達に示した。




