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正法眼蔵 四禅比丘

 次のように、十四祖の龍樹は言った。


 釈迦牟尼仏の弟子の中の、ある「比丘」、「男性の出家者」は、「第四禅」を会得して「増上慢」、「悟っていないのに悟ったと増長して慢心する心」を生じて「四果」、「阿羅漢果」を会得したと思ってしまった。

 ある比丘は、「初禅」を会得した時、「須陀洹果」を会得したと思ってしまった。

 ある比丘は、「第二禅」を会得した時、「斯陀含果」を会得したと思ってしまった。

 ある比丘は、「第三禅」を会得した時、「阿那含果」を会得したと思ってしまった。

 ある比丘は、「第四禅」を会得した時、「阿羅漢果」を会得したと思ってしまった。

 ある比丘は、「四禅」を頼りにして自ら高ぶり、精進を求めなかった。

 ある比丘は、命が尽きようとする時、「四禅」の「中陰」、「中有」の相が存在していて来るのを見て、邪悪な見解を生じて「『涅槃』、『寂滅』など無い。仏は私をだました」と思ってしまった。

 ある比丘は、悪い邪悪な見解のせいで、「四禅」の「中有」を失って、「阿鼻泥梨」、「阿鼻地獄」、「無間地獄」の「中有」の相を見て、命が終わると「無間地獄」の中に生まれた。

 諸々の出家者は、釈迦牟尼仏に、「あの『阿蘭若の』、『人里離れた静かな場所にいた』比丘は、命が終わりましたが、どこに生まれたのでしょうか?」と質問した。

 釈迦牟尼仏は、「あの人は『無間地獄』の中に生まれた」と言った。

 諸々の出家者は、大いに驚いて、「坐禅しても、戒を保持して守っても、地獄へ行くのですか?!」と言った。

 釈迦牟尼仏は、「それは皆、『増上慢』、『悟っていないのに悟ったと増長して慢心する事』による物である。

あの比丘は、『四禅』を会得した時、『四果』、『阿羅漢果』を会得したと思ってしまっていた。

あの比丘は、命が終わる時に臨んで、『四禅』の『中有』の相を見て、邪悪な見解を生じて『

涅槃、寂滅など無い。

私は阿羅漢である。

(それなのに、)今また生まれようとしている。

仏は、虚偽の言葉で、たぶらかしたのである』と思ってしまった。

この時、『無間地獄』の『中有』の相を見て、命が終わると『無間地獄』の中に生まれた」と、先のように、答えた。

 その時、釈迦牟尼仏は、詩で、「多く見聞きして学んでも、戒を保持して守っても、坐禅しても、未だ『漏』、『煩悩』を無くし尽す法を会得できない。

これらの功徳は有るが、それを信じるのは難しい。

あの比丘が地獄に堕ちたのは、仏の悪口を言ったからである。

『第四禅』とは無関係である」と言った。



 この比丘を「四禅比丘」または「無聞比丘」と言う。


 「四禅」を会得したのを「四果」、「阿羅漢果」を会得したと誤ってしまった事を戒めているし、仏の悪口を言う邪悪な見解を戒めている。

 釈迦牟尼仏の下に集まっていた人や天人は皆、知っている。


 釈迦牟尼仏の存命時から今日に至るまで、西のインドでも東の地の中国でも共に、正しくないのに「正しい」と思い込もうとする事の戒めとして、「『四禅』を会得して『四果』、『阿羅漢果』と思うような物である」と笑う。


 四禅比丘の正しくない所は、(しばら)く略して挙げると、三種類、有る。


 第一には、「四禅」と「四果」、「阿羅漢果」を自分では分別できない「無聞の」、「学が無い」身なのに、いたずらに無駄に師を離れて、虚しく「阿蘭若」、「人里離れた静かな場所」に(孤立して)独りでいた。

 幸いにも、四禅比丘の存命中は、如来、釈迦牟尼仏が存命中だったのであり、常に釈迦牟尼仏の所へ行って、常に仏法を見聞きして学べば、このような誤りは無かったはずである。

 それなのに、「人里離れた静かな場所」に(孤立して)独りでいて、釈迦牟尼仏の所へ行かず、(つい)に、仏法を見聞きして学ばなかったので、このように誤ったのである。

 たとえ釈迦牟尼仏の所へ行かずとも、諸々の大いなる阿羅漢の所へ行って教えを受けるべきである。

 いたずらに無駄に(孤立して)独りでいたのは、「悟っていないのに悟ったと増長して慢心した」事による誤りなのである。


 第二には、「初禅」を会得して誤って「初果である」と思ってしまい、

「二禅」を会得して誤って「第二果である」と思ってしまい、

「三禅」を会得して誤って「第三果である」と思ってしまい、

「四禅」を会得して誤って「第四果である」と思ってしまったのが、第二の誤りなのである。

 「初禅」、「二禅」、「三禅」、「四禅」の相と、「初果」、「二果」、「三果」、「四果」の相は、比べる事ができないほどである。

 「初禅」、「二禅」、「三禅」、「四禅」の相で、「初果」、「二果」、「三果」、「四果」の相を例える事はできない!

 この誤りは、「無聞の」、「学が無い」(とが)による物なのである。

 師に仕えず、知が暗かった(とが)による物なのである。



 四祖の優婆毱多の弟子の中に、ある比丘がいた。

 ある比丘は、信心を持って出家したが、「四禅」を獲得して誤って「四果」、「阿羅漢果」と思ってしまった。

 四祖の優婆毱多は、方便で、ある比丘を他所(よそ)へ行かせた。

 優婆毱多は、道に、賊の群れ(の幻)を「化作」、「出現」させた。また、五百人の商人達(の幻)を「化作」、「出現」させた。

 賊の群れ(の幻)は、商人達(の幻)を脅して殺害、狼藉した。

 ある比丘は、これを見て恐怖を生じて、「(恐怖したので、)私は阿羅漢ではない。私は『第三果』(、『阿那含果』)である」と自ら思った。

 商人達(の幻)が逃げた後、ある長者の娘(の幻)が、ある比丘に、「願わくば、僧侶様、私に同行してください」と言った。

 ある比丘は、「仏は、僧が女性と同行する事(、僧が女性と二人きりに成る事)を(戒律として)許していない」と答えた。

 ある長者の娘(の幻)は、「私は、僧侶様を見ながら後について行きます」と言った。

 ある比丘は、ある長者の娘(の幻)を憐れんで、ある長者の娘(の幻)を見ながら進んでいると、優婆毱多は大河(の幻)を出現させた。

 ある長者の娘(の幻)は、「僧侶様、私と共に渡ってください」と言った。

 ある比丘は下流を、ある長者の娘(の幻)は上流を渡った。

 ある長者の娘(の幻)は、河(の深み)に落ちて「僧侶様、私をお救いください」と言った。

 その時、ある比丘は、ある長者の娘(の幻)の手をつかんで出してあげたが、ある長者の娘(の幻)の手が細く滑らかであるという想いを生じて、性欲を心に起こして、「(性欲をもよおしたので、)私は『第三果』、『阿那含果』ではない」と自ら知った。

 ある比丘は、この時、ある長者の娘(の幻)に極めて大きい性欲を生じ、女性と二人きりに成るために道から外れて、(僧なのに)女性と性交しようとすると、ある長者の娘が幻で優婆毱多であったのを見て、大いに反省して、頭を下げて立った。

 優婆毱多は、「あなたは、昔、『自分は阿羅漢である』と言ったが、どうして、このような悪事を()そうと欲したのか?」と言った。

 優婆毱多は、ある比丘を連れて僧達の所に戻って、ある比丘に懺悔(ざんげ)させると、ある比丘の(ため)に仏法の要を説いて、阿羅漢に成らせた。



 この、ある比丘は、最初は「(勝手に自説、)見解を生じた」誤りが有ったが、殺害の狼藉を見て恐れを生じた。

 恐怖した時に、「私は阿羅漢ではない」と思ったが、なお「私は『第三果』(、『阿那含果』)である」と思ってしまった誤りが有った。

 後に、ある比丘は、ある長者の娘(の幻)の手が細く滑らかであると想う事によって性欲を生じると「(性欲をもよおしたので、)私は『第三果』、『阿那含果』ではない」と知った。

 さらに、仏への悪口を思わなかったし、法への悪口を思わなかったし、「聖教」、「仏教」に(そむ)く思いが無かった。

 そのため、ある比丘は四禅比丘とは違った。

 この、ある比丘は、「聖教」、「仏教」を習って学んでいる力が有ったので、自ら「阿羅漢ではない」、「『第三果』、『阿那含果』ではない」と知ったのである。


 今の「無聞の」、「学が無い」輩は、「阿羅漢は、どういった者である」とも知らないし、「仏は、どういった者である」とも知らないので、自ら「阿羅漢ではない」、「仏ではない」とも知らず、(みだ)りに「私は仏である」と思ってしまったり言ってしまったりするのは、大きな誤りなのであるし、深い(とが)なのである。


 学徒は、まず、当然、「仏とは、どういった者である」と習うべきなのである。



 古代の高徳の僧は、「このため、『聖教』、『仏教』を習って知っている者は、大まかに順位を知っていれば、たとえ『逾濫』、『濫りに超えた思い』、『思い上がり』を生じても、また悟りやすい」と言った。



 この古代の高徳の僧の言葉は、真実である。


 たとえ「(勝手に自説、)見解を生じる」誤りが有っても、少しでも仏法を習って学んでいる仲間は、自身にも、だまされないであろうし、他人にも、だまされないであろう。



 かつて聞いた話によると、ある人が誤って「私は仏に成った」と自ら思ってしまった。

 ある人は、(釈迦牟尼仏は夜明けに悟ったので、)待っていたが、天は夜明けに成らなかったので、誤って「『魔』が妨害しているのであろう」と思ってしまった。

 ある人は、(釈迦牟尼仏には「梵天勧請」、「梵天が説法を請い願った事」が有ったが、)夜明けが終わったが、「梵天勧請」、「梵天が説法を請い願う事」を見なかったので、「私は仏ではない」と自ら知ったが、誤って「私は阿羅漢である」と自ら思ってしまった。

 また、他人に、これについて悪口を言われて、ある人は、心に異心を生じたので、「私は阿羅漢ではない」と自ら知ったが、誤って「私は、『第三果』、『阿那含果』である」と思ってしまった。

 また、女の人を見て、ある人は性欲をもよおしたので、「私は聖者ではない」と知った。

 この話の、ある人もまた、「教相」、「釈迦牟尼仏の教えの特徴」を良く知っていたので、このように反省できたのである。



 仏法を知っている者は、このように、自らの誤りを覚知して、早く、その誤りを投げ捨てる。


 仏法を知らない輩は、一生、虚しく、暗い愚かさの中にいる。

 仏法を知らない輩は、生から生へ、生を受けてもまた、暗い愚かさの中にいる。


 優婆毱多の弟子は、四禅を会得して誤って「『四果』、『阿羅漢果』である」と思ってしまったが、後に「自分は阿羅漢ではない」と自ら知る事ができる知が有った。


 「四禅比丘」、「無聞比丘」も、命の終わりに臨んだ時、「四禅」の「中有」を見たら、「私は阿羅漢ではない」と知ったならば、仏の悪口を言う罪を犯さなかったであろう。

 まして、四禅比丘は、「四禅」を会得してから長いのに、どうして「『四果』、『阿羅漢果』ではない」と反省して知る事ができなかったのか?

 また、四禅比丘は、既に「『四果』、『阿羅漢果』ではない」と知ったならば、どうして改めなかったのか?

 四禅比丘は、いたずらに無駄に、誤りに停滞して、虚しく邪悪な見解に沈んでいる。


 第三には、四禅比丘は、命が終わる時、大きな誤りを犯した。

 その(とが)が深くて、(つい)に「無間地獄」に落ちたのである。

 四禅比丘よ、たとえ、あなたが一生の間、「四禅」を「四果」、「阿羅漢果」と思ってしまって来ていても、命の終わりに臨んだ時に「四禅」の「中有」を見たならば、一生の誤りを懺悔(ざんげ)して「私は『四果』、『阿羅漢果』ではない」と思うべきである。

 どうして、「仏は私をだまして、『涅槃』、『寂滅』が無いのに『涅槃は有る』と施し(もう)けた」と思うべきであろうか? いいえ!

 これは、「無聞」、「学が無い事」による(とが)なのである。

 この罪は既に仏への悪口なのである。

 これによって、「無間地獄」の「中有」が現れて、命が終わって「無間地獄」に落ちた。


 たとえ「四果」、「阿羅漢果」の聖者であっても、どうして「如来」、「仏」に及ぶ事ができるであろうか? いいえ! 阿羅漢は仏に及ばない!

 舎利弗(シャーリプトラ)は久しく「四果」、「阿羅漢果」の聖者であった。

 三千大千世界に存在する知恵を集めて如来を除いた他を一つとし、三千大千世界に存在する知恵と、舎利弗(シャーリプトラ)の知恵の十六分の一を量ると、三千大千世界に存在する知恵は、舎利弗(シャーリプトラ)の知恵の十六分の一に及ばなかったのである。

 けれども、如来、釈迦牟尼仏が、未だかつて説かなかった法(、法華経)を説いたのを聞いて、舎利弗(シャーリプトラ)は、「前後の仏の説が異なるので、仏は私をだました」と思わず、(「法華経」の「譬喩品」で)「波旬無此事」、「『波旬』、『魔』には、このような事は無い」とほめた。

 如来、釈迦牟尼仏は、中国では「福増」と呼ばれる尸利苾提を仏土へ渡す事ができたが、舎利弗(シャーリプトラ)は尸利苾提を仏土へ渡す事ができなかった。

 このように、「四果」、「阿羅漢果」と「仏果」は遥かに異なる。

 (「法華経」の「方便品」での釈迦牟尼仏の言葉のように、)たとえ舎利弗(シャーリプトラ)と諸々の釈迦牟尼仏の弟子のように成った者が十方の世界に満ちて共に仏の知を量っても量る事はできないのである。


 孔子や老子には、仏のような功徳は未だ無い。

 仏法を習って学んだ者は、誰でも孔子や老子を量る事ができるであろう!

 孔子や老子の教えを習って学んだ者が仏法を量る事ができた事は未だ無い。

 宋の時代の中国の輩の多くは、孔子と老子の教えと仏道は一致するという道理を誤って立ててしまっている。

 (「三教一致」は)最も誤りが深い誤った見解なのである。

 後で広く説こう。


 四禅比丘は、自分の誤った見解を真実としてしまって「如来、釈迦牟尼仏は私をだました」と思ってしまい、永遠に仏道に(そむ)いたのである。

 四禅比丘の愚かさのはなはだしさは、「六師外道」などの外道に等しいであろう。



 古代の高徳の僧は、「大いなる師である釈迦牟尼仏が存命中ですらなお、誤った見解を生じた人がいた。まして、釈迦牟尼仏の(肉体の)死後、師がいなくて禅を会得していない者は、なおさら、誤った見解を生じるであろう」と言った。



 大いなる師とは 釈迦牟尼仏である。


 実に、釈迦牟尼仏の存命中、出家して戒を受けてもなお、「無聞では」、「学が無くては」、誤った見解を生じる誤りを逃れ難い。

 まして、如来、釈迦牟尼仏の(肉体の)死後の、「後五百歳」、「末法の世」の辺境の僻地(へきち)という時代と場所では、誤った見解を生じる誤りが有る!


 このように、四禅比丘という、「四禅」を起こした者ですらなお、誤った見解を生じて誤ったのである。

 まして、「四禅」を起こす事ができず、いたずらに無駄に、名声や利益を貪欲に愛着する事に沈んでいる者、役人の地位を求めて俗世を生きて行こうとする事を(むさぼ)る輩は、言うまでも無い。


 宋の時代の中国には学が無い愚鈍な輩が多い。

 宋の時代の中国の、学が無い愚鈍な輩の多くは、誤って「仏法と、老子、孔子の法は一致していて異なる物ではない」と言ってしまう。



 宋の時代の中国の「嘉泰四年」、「千二百四年」に、正受という僧がいて、「嘉泰普灯録三十巻」を選んで皇帝に捧げた。


 次のように、正受は言った。


 私が孤山智円の言葉を聞いた所によると、孤山智円は、「私の道は三脚の器のような物なのである。『儒教、道教、仏教』という『三教』は三脚の器の三脚のような物なのであり、一つでも無ければ転覆してしまう」と言った。

 私(、正受)は、かつて、孤山智円を慕い、孤山智円の説を考えた。

 次のように、正受は知った。

 儒教の教えとは、その要は、誠意に在る。

 道教の教えとは、その要は、虚心に在る。

 仏教の教えとは、その要は、「見性」、「人の本性を見る事」に在る。

 誠意、虚心、見性は名前は異なるが実体は同じである。

 帰る所を究めると、行き先として、孤山智円の道(である「三教一致」)と合流するのである!


 以下略



 このように、誤った見解を生じる輩ばかりが多い。

 (誤った見解を生じる輩は、)孤山智円と正受だけではない。


 このような輩は、「四禅」を会得して誤って「四果」、「阿羅漢果」と思ってしまっている輩よりも、誤りは深い。


 仏、法、僧の悪口を言っている事に成るのである。


 解脱、過去と現在と未来、因果を否定し信じない誤りを犯している事に成るのである。


 広々と(わざわい)を招く事に成るのは、疑問の余地が無い。


 誤って「『仏、法、僧』という『三宝』、『苦集滅道』という『この世は苦であり、執着が苦を招き集めており、執着を滅する事ができ、執着を滅する道が有る事を知る事ができる』という『四諦』、『四果』は無い」と思ってしまう輩に等しい。


 仏法の要は「見性」、「人の本性を見る事」ではない!


 過去七仏、西のインドの二十八人の祖師達、いずれの所で「仏法とは『見性』、『人の本性を見る事』だけなのである」とあるのか? いいえ! 無い!


 六祖壇経に「見性」、「人の本性を見る事」という言葉が有るが、六祖壇経は偽書であるし、「法蔵」、「仏教」を付属された者による書物ではないし、曹谿山の三十三祖の大鑑禅師の言葉ではないし、仏祖の法の子孫が全く依り所としない書物である。


 孤山智円と正受は、未だ仏法の一隅すら知らないので、「『儒教、道教、仏教』という『三教』は三脚の器の三脚のような物なのであり、一つでも無ければ転覆してしまう」という誤った考えを()した。



 古代の高徳の僧は、「老子、荘子はなお未だ『小乗』、『矮小な乗り物』、『劣悪な段階』の『能著、所著、能破、所破』、『愛着する事、愛着するという事、愛着を破る事、愛着を破るという事』を理解できていない。

まして、老子、荘子は、『大乗』の『若著、若破』、『(敢えて)愛着する事や、(敢えて)愛着を破る事』を理解できていない。

このため、老子、荘子の教えは、仏法と少しも同じではない。

そのため、世間の愚者は『名相』、『言葉』に迷い、禅が(みだ)りな者は正しい理に迷い、誤って『老子(道徳経)、荘子の逍遙遊の言葉は、仏法の解脱の説法と同じであろう』と思ってしまうが、有り得ない!」と言った。



 昔から「名相」、「言葉」に迷う者、正しい理を知らない輩は、誤って「仏法は、老子、荘子の教えと同じであろう」とするのである。


 少しでも仏法の稽古が有る仲間は、昔から、老子、荘子を重んじる人は一人もいない。



 清浄法行経には、「月光菩薩は、中国では(孔子の愛弟子の)顔回と呼ばれている。

光浄菩薩は、中国では『仲尼』、『孔子』と呼ばれている。

迦葉菩薩は、中国では老子と呼ばれている。

以下略」と記されている。



 昔から、清浄法行経の説を挙げて、誤って「孔子、老子なども菩薩なので、孔子、老子の説は(ひそ)かに仏の説法と同じであろう」と言ったり、また、誤って「孔子、老子は仏の使いなので、孔子、老子の説は自然と仏の説法であろう」と言ったりするが、これらの説は皆、誤りなのである。



 古代の高徳の僧は、「諸々の目録に従うと、皆、『清浄法行経』を疑偽経と()す。以下略」と言った。



 この説によれば、ますます、仏法と、孔子と老子の教えは異なるはずである。


 仮に、孔子と老子が、既に菩薩なのであれば、「仏果」、「仏」と等しくない。


 「和光応迹」、「和光同塵」、「威光を(やわ)らげて俗世という塵に仮の姿を出現させる事」の功徳は、過去、現在、未来の諸仏、諸々の菩薩だけの法なのである。


 「和光同塵」は、俗世という(ちり)の中の凡人が可能な物ではない。

 「実業の」、「身口意で善業や悪業を実際に行う」凡人が、どうして「応迹」、「仏や菩薩が生者を救うために他の姿で出現する事」が自由自在であろうか? いいえ!


 孔子、老子は未だ「応迹」、「仏や菩薩が生者を救うために他の姿で出現する事」を説いた事が無い。

 まして、孔子、老子は「先因」、「前世の原因」を知らないし、「当果」、「未来の結果」を説いた事が無い。


 孔子などは、わずかに今世の忠孝で君主に仕え、家を治める事を「(むね)としている」、「主要としている」。

 孔子などは、さらに、後世について説いた事が無い。

 孔子などは、「断見」、「肉体が死ぬと全て滅びるという誤った見解」の外道の仲間なのである。


 老子、荘子を嫌って、「老子、荘子は『小乗』、『矮小な乗り物』、『劣悪な段階』の教えすらなお理解できていない。まして老子、荘子は、『大乗』の教えを理解できていない」と言う者は、古代の明らかな師なのである。


 「三教一致」と言う者は、孤山智円と正受なのであるし、後世の末法の世の暗愚な凡人なのである。


 孤山智円よ、正受よ、あなたは、どんな優れている所が有って、古代の先人の高徳の僧の所説を軽んじて、(みだ)りに誤って「孔子と老子の教えは、仏法と等しい」と言うのか?

 あなた達の所見は全く、仏法の通じている所と(ふさ)がっている所を論じるに足りない。

 遠くへ学びに出かけて、明らかな師の学に参入するべきである。

 孤山智円よ、正受よ、あなた達は、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の教えも、「大乗」の教えも、全く未だ知らないのである。

 四禅を会得して誤って「『四果』、『阿羅漢果』である」と思ってしまうよりも知が暗い。


 末法の世に成り始めて、このような「魔の子」、「仏敵の子」が多い事を悲しむべきである。



 古代の高徳の僧は、「『孔丘』、『孔子』の言葉や、『姫旦』、『周公旦』の言葉や、三皇五帝の書は、孝で家を治め、忠で国を治め、国を助け、国民に利益をもたらすが、これは現在の今世の中だけであり、過去や未来にわたる物ではない。

(孔子の儒教は、)仏法が過去、現在、未来に利益をもたらすのとは等しくない。

どうして(『孔子の儒教と仏教は等しい』と)誤るであろうか? いいえ! 誤らない!」と言った。



 古代の高徳の僧の言葉は真実である。

 よく仏法の「至理」、「至上の正しい道理」に通達している。

 世俗の道理に明らかである。


 三皇五帝の言葉は、未だ転輪聖王の教えに及ばないし、梵天、帝釈天の説と並べて論ずる事ができない。

 三皇五帝は、統治している範囲、得ている果報が遥かに劣っている。

 その転輪聖王、梵天、帝釈天ですら、出家して戒を受けている出家者には及ばない。

 まして、転輪聖王、梵天、帝釈天は如来、仏と等しくない!


 「孔丘」、「孔子」の「論語」や、「姫旦」、「周公旦」の「周礼」、「儀礼」は、インドのバラモンの経典である「十八大経」に及ばないし、バラモンのヴェーダの四種類に並べ難い。

 その西のインドのバラモンの教えですら、未だ仏教と等しくないのであるし、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の声聞の教えと等しくない。


 中国は、小国、辺境の僻地(へきち)で、「三教一致」という邪説が有る事を憐れむべきである。



 十四祖の龍樹は、「大いなる阿羅漢、独覚は、八万大劫を知っている。諸々の大いなる菩薩、仏は、無量劫を知っている」と言った。



 孔子、老子などは未だ今世の中の前後を知らないし、一生、二生の前世を知る「宿命通」が無い!

 まして、孔子、老子などは、一劫を知らないし、百劫、千劫を知らないし、八万大劫を知らないし、無量劫を知らない!


 「掌」、「手のひら」を見るよりも明らかに、無量劫を明らかに照らして知っている諸仏、諸々の菩薩を、孔子、老子などと比べて同一視する人は、「暗愚」と言っても足りないのである。


 耳を覆って「三教一致」という言葉を聞く事なかれ。

 「三教一致」は、邪説の中で、最も邪説なのである。



 「荘子」には、誤って「貴賤や、苦楽や、『是非』、『善悪』や、『得失』、『損得』は皆、自然なのである」と記されてしまっている。



 この「荘子」の見解は既に西のインドの「自然(じねん)見」、「原因が無く自然と物事は成るという誤った見解」の外道と同類なのである。


 貴賤や、苦楽や、「是非」、「善悪」や、「得失」、「損得」は皆、善業や悪業により感じる物なのである。


 荘子は、「満業」、「貧富や貴賤などを決定させる(ごう)」と「引業」、「生まれる世界や生まれ方などを決定させる(ごう)」を知らないし、過去の前世、未来の来世を明らめていないので、現在の今世に暗い。

 荘子の教えは、仏法と等しくない!



 ある人は、誤って「諸仏、諸々の如来は広く法界を証するので、微小な(ちり)も法界も皆、諸仏が証している物なのである。

そのため、身体が依り所とする環境としての報いである『この世』と過去の行いの正に報いである身心は共に如来の証している物に成るので、山や河や大地や、太陽と月と星々や、『四倒』や、『貪欲と怒りと愚かさ』という『三毒』は皆、如来が証している物なのである。

山や河を見る事は、如来を見る事に成るのである。

『四倒』や、『貪欲と怒りと愚かさ』という『三毒』は、仏法なのである!

微小な(ちり)を見る事は、法界を見る事と(全く)等しい。

『造次顛沛』、『わずかな時間』は皆、正覚なのである。

これを『大いなる解脱』と言う。

これを『単一に伝えられ直接的に指し示されてきた祖師の仏道』と名づける」と言ってしまう。



 このような誤った言葉を言う輩は、宋の時代の中国に稲、麻、竹、(アシ)の様に多数いるし、官民に(あまね)く満ちている。

 けれども、この輩は、どの仏祖の法の子孫か明らかではないし、仏祖の仏道を知らないのである。


 たとえ諸仏が証している物であっても、山や河や大地が突然に凡人が見ている山や河や大地ではなく成るわけが無い。

 なぜなら、凡人は、「山や河や大地は諸仏が証している物である」と成る道理を習わないし、聞かないのである。


 あなたは誤って「微小な(ちり)を見る事は、法界を見る事と(全く)等しい」と言ってしまっているが、「国民は国王と等しい」と言うような物である。

 また、どうして、「法界を見る事は、微小な(ちり)を見る事と(全く)等しい」と言わないのか?


 もし、この輩の所見を仏祖の大いなる仏道としてしまえば、諸仏が「この世」へ出現する必要が無く成ってしまうし、祖師が「この世」へ出現する必要が無く成ってしまうし、全ての生者が仏道を会得する必要が無く成ってしまう。


 たとえ「生即無生」、「生じるとは(実は)生じていない」と体得して通達しても、このような誤った道理ではないのである。



 真諦三蔵は、「中国には二つの幸福が有る。

(一)『羅刹』という鬼がいない

(二)外道がいない」と言った。



 この真諦三蔵の言葉は、実に、西のインドの外道のバラモンの言葉を伝えて来ているのである。


 中国には、神通力を会得した外道はいなくても、外道の見解を起こす輩はいるのである!


 中国には、「羅刹」という鬼は未だ見られないが、外道の仲間はいるのである!


 中国は、小国、辺境の僻地(へきち)なので、インドの中央と同様ではなく、仏法をわずかに習って修行しても、インドのように証を取れる者はいないのである。



 古代の高徳の僧は、「今時は、還俗してしまう者が多くいるが、王からの労役を恐れ嫌い、外道の中に入ってしまう。

仏法の教義を盗んで(ひそ)かに老子と荘子の教えを解釈して(つい)には混ぜ合わせてしまって、初心者を『どれが正しいのか? どれが(よこしま)であるのか?』と迷わせてしまう。

これを『バラモンのヴェーダの法を起こす見解』とする」と言った。



 知るべきである。

 「仏法と、老子と荘子の教えの、どちらが正しいのか? どちらが(よこしま)であるのか?」を知らないで混ぜ合わせてしまうのは初心者の仲間を迷わせてしまうのである。

 孤山智円と正受などは初心者の仲間を迷わせてしまう者なのである。

 無知蒙昧さ愚かさがはなはだしいだけではなく、稽古の無さの至りの現れなのであるし、稽古の無さの至りが明らかなのである。


 宋の時代の僧には、一人として、「孔子や老子の教えは仏法に及ばない」と知っている仲間はいない。


 「仏祖の法の子孫」という名前を借りている輩は稲、麻、竹、(アシ)の様に多数いるし、中国全土の九つの州の山や野に満ちているが、「孔子、老子の教えではなく、仏法が優れている」と明らかに了解している一人前や半人前の僧はいない。


 道元の亡き師である、古代の仏と等しい、天童山の、五十祖の如浄だけが、「仏法と、孔子と老子の教えは一つの物ではない」と明らかに了解していたし、昼夜に教えていた。


 経典の学者や講者という称号は有っても、「仏法は、孔子と老子の境地を遥かに超越している」と明らかに了解している人はいない。


 千百年頃から講者の多くが、禅の学に参入して仏道を学び修行している仲間の身のこなしを模倣し、その理解を盗もうとしているが、「最も誤っている」と言える。



 孔子の「論語」には「生まれながらに知っている者」と記されているが、仏教には(孔子が言っている意味での)「生まれながらに知っている者」などいない。


 仏法では「舎利」、「仏の遺骨」を説いているが、孔子と老子は「舎利」、「仏の遺骨」の有無すら知らない。


 仏法と、孔子と老子の教えを一緒くたにして混ぜ合わせようと思っても、広く説かれている事の通じる事と(ふさ)がっている事を(つい)に会得できないであろう。



 孔子の「論語」には、「生まれながらに知っている者は、(最)上である。

学んで知る者は、次である。

苦しんで学ぶ者は、その次である。

苦しんで学ばない者は、人々では、この人を下とする」と記されている。



 もし(孔子が言っている意味での)「生知」、「生まれながらの知」が有るならば、原因が無い(とが)が有るが、仏法では原因が無い物など説いていないのである。



 四禅比丘は、命の終わりに臨んだ時、たちまち仏の悪口を言う罪に堕ちたが、誤って「仏法は、孔子と老子の教えと等しい」と思ってしまう人は、一生のうちから仏の悪口を言っている罪に成るので、罪深い。


 学徒は早く「仏法と、孔子と老子の教えは一致している」という誤解を投げ捨てるべきである。


 「仏法と、孔子と老子の教えは一致している」という誤った見解を蓄えて捨てない人は、地獄といった「悪趣」、「悪道」に堕ちる。


 学徒は、明らかに知るべきである。


 孔子と老子は、過去、現在、未来の法を知らないし、

因果の道理を知らないし、

「この世」という一つの洲の「安立」、「安心立命」、「心が安らぎ不動である事」を知らないし、

まして、「四大洲」の「安立」、「安心立命」、「心が安らぎ不動である事」を知らないし、

「六欲天」の事すら知らないし、

まして、「三界九地」の法を知らないし、

小千界を知らないし、

中千界を知る事ができないし、

三千大千世界を見る事ができないし、知る事ができないし、

中国という一国ですら低位の役人であり皇帝の位に昇る事ができなかったので、三千大千世界の王である如来、仏と比べる事などできない。


 如来、仏は、梵天、帝釈天、転輪聖王などが昼夜に(うやうや)しく敬ってそばに仕えて護衛して常に説法を請うのである。

 孔子と老子には、このような徳は無い。

 孔子と老子は、生死をくり返す凡人に過ぎないのである。

 孔子と老子は、解脱の道を知らない。

 孔子と老子は、如来、仏のように、「諸法実相」、「全てのものの実の相」を究め尽くす事は無かった!

 孔子と老子は「諸法実相」、「全てのものの実の相」を未だ究め尽くしていないのに、なぜ「仏と等しい」とするのか?


 孔子と老子には、「内徳」、「内心で積み重ねて外には隠す美徳」が無いし、「外用」、「仏と菩薩が生者の素質に応じて神通力などを外に現す事」が無いので、仏に及ばない。


 孔子と老子は、「三教一致」という邪説を吐いていない!


 孔子と老子は、世界の有限、無限を通達できないし、

広さを知らないし、見る事ができないし、

大きさを知らないし、見る事ができないし、

「極微色」、「極小、微小の(しき)」を見る事ができないし、

「刹那」の量を知る事ができない。


 釈迦牟尼仏は、明らかに「極微色」、「極小、微小の(しき)」を見たし、「刹那」の量を知らせてくれた。


 孔子と老子は、釈迦牟尼仏と等しくない!


 孔子、老子、荘子、恵子などは、凡人に過ぎないし、

「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の「初果」、「須陀洹果」の聖者にすら及ばないし、

まして、「第二果」の聖者や、「第三果」の聖者や、「第四果」の阿羅漢に及ばない!


 それなのに、似非(えせ)学者は、知が暗いので、孔子と老子などを諸仏と同一視するが、迷いの中でまた更に深く迷っているのである。


 孔子と老子は、過去、現在、未来を知らないし、

多くの劫を知らないし、

「一念」、「一つの思い」を知る事ができないし、

一つの心を知る事ができない。


 孔子と老子は、日天と月天と比べる事などできないし、

「四大王」、「四天王」や、諸々の天人に及ばないのである。


 孔子と老子を、釈迦牟尼仏と等しくしようとする事は、俗世間の俗人と出家者に迷惑をかける事に成るのである。



 次のように、「列仙伝」には記されている。


 尹喜は、周の大夫と成った。

 尹喜は、星占いをよくしていた。

 尹喜は、ある時、特異な天の気配を見て、東へ行って、特異な天の気配の結果を迎えると、果たして、老子を得た。

 尹喜が老子に教えを書くように請うと、老子は五千語の書物(、「老子道徳経」)を書いた。

 尹喜もまた自ら「関令子」という名前の「老子化胡経」に準じた九篇の書物を書いた。

 「老聃」、「老子」が関所を過ぎて西に行こうとすると、尹喜は「老聃」、「老子」に従って同行したいと求めた。

 「老聃」、「老子」は、尹喜に「もし同行したいならば、父と母などの七人の首を持って来なさい。そうすれば同行してもよろしい」と言った。

 尹喜が、老子の教えに従うと、父と母などの七人の首は皆、(イノシシ)の頭に変わった。



 古代の高徳の僧は、「俗典によると、儒教に従う親孝行な者ですらなお父や母の木の像を尊重する。

『老聃』、『老子』は導いて、尹喜に父と母など(の幻)を殺害させた。

如来、仏の仏教は大いなる思いやりを根本とする。

(仏は、)老子のように父と母を殺すという五逆罪を、教化する原因、きっかけとはしない!」と言った。



 昔は、「老聃」、「老子」を釈迦牟尼仏に等しくしようとする邪悪な党派がいた。

 今は、誤って「孔子と老子は共に釈迦牟尼仏と等しい」と言ってしまう愚かな僧侶がいる。

 憐れである!


 孔子と老子は、転輪聖王が「十善で」、「十戒を守って」世間を化して導く事にすら及ばない。


 三皇五帝は、「鉄輪王、銅輪王、銀輪王、金輪王」といった諸々の「転輪聖王」が「七宝」と千の無数の子を十分に備えて、「四天下」、「四大洲」を化して導いたり、三千界を統治したりする事に及ばない!


 孔子は、転輪聖王と比べる事もできない。


 過去、現在、未来の諸々の仏祖は共に、父と母、師の僧、「仏、法、僧」という「三宝」に孝行して従い、病人などに捧げものを捧げる事を、教化する原因、きっかけとしている。


 仏が、老子のように父と母を殺害させる事を、教化する原因、きっかけとする事は、昔から未だかつて無いのである。


 そのため、仏法と、「老聃」、「老子」の教えは一つの物ではない。


 父や母を殺害する人は、必ず、「順次生受業」、「次の生で報いを受ける(ごう)」によって地獄に堕ちる事は確実なのである。


 たとえ「老聃」、「老子」が(みだ)りに虚無について話していても、父や母を殺害した人は、「順次生受業」、「次の生で報いを受ける(ごう)」の報いを免れる事はできない!



 次のように、「景徳伝燈録」には記されている。


 二十九祖の慧可は常に(なげ)いて「孔子と老子の教えは、礼の術や風習の規則なのである。

『荘子』と『易経』といった書物は、妙なる理を未だ尽くせていない。

近頃、聞く所によると、達磨という大いなる者が少林寺に滞在している。

達道者は、遠くにおらず、近くにいる。

奥深い境地に至るべきである」と言った。



 今の仲間は、明らかに、信じるべきである。

 仏法が中国に正しく伝えられたのは、ひとえに、二十九祖の慧可の、学に参入する力による物なのである。

 たとえ二十八祖の達磨が西のインドから中国へ来ても、二十九祖の慧可を得なかったら、仏法を伝えられなかったであろう。

 もし二十九祖の慧可が仏法を伝えなかったら、東の地の中国は今も仏法が無かったであろう。

 二十九祖の慧可を、他の輩と並べるべきではない。



 次のように、「景徳伝燈録」には記されている。


 幼名が「神光」である二十九祖の慧可という僧は、広く通達している人であった。

 慧可は、伊水と洛水の辺りに久しく居て、多くの書物を広く読んで、()く奥深い理を話す事ができた。



 昔の二十九祖の慧可が多くの書物を広く読んだのと、今の人が書物を見るのは、遥かに異なるのである。


 二十九祖の慧可は、仏法を会得して二十八祖の達磨から法衣を伝えられた後も、「昔、私が『孔子と老子の教えは、礼の術や風習の規則なのである』と思ったのは誤りであった」という言葉を示さなかった。


 知るべきである。

 二十九祖の慧可は、既に、「孔子と老子の教えは、仏法に及ばない」と通達していたのである。


 今の、二十九祖の慧可の法の遠い子孫は、なぜ、法の祖父である二十九祖の慧可に(そむ)いて、誤って「孔子と老子の教えは、仏法と一致している」と言ってしまうのか?

 「三教一致」は邪説なのであると、正に、知るべきである。

 二十九祖の慧可の法の遠い子孫であるならば、誰も、正受などの「三教一致」を採用しない!

 二十九祖の慧可の法の遠い子孫であるならば、誤って「三教一致」と言う事なかれ。



 如来、釈迦牟尼仏が存命時に、論力という名前の外道がいた。

 論力は、「議論で自分に等しい者はいない。自分は議論の力が最大である」と自ら思ってしまっていた。

 このため、論力は「論力」と名乗っていたのである。

 論力は、五百人の梨昌(リッチャヴィ)族からの募金を受けて、五百の難問を選び、釈迦牟尼仏を非難するために来た。

 論力は、釈迦牟尼仏の所へ来て、釈迦牟尼仏に「究極の道は一つでしょうか? 究極の道は多数でしょうか?」と質問した。

 釈迦牟尼仏は、「究極の道は唯一である」と言った。

 論力は、「私達の諸々の師は、各々、『究極の道が有る』と説いています。外道の中では、各々、『自分が正しい』と言って、他人の法を非難して、相互に批評し合っているので、(究極の)道は多数、有ります」と言った。

 釈迦牟尼仏は、その時、鹿頭を既に教化して「無学果」、「阿羅漢果」を成就させていた。

 鹿頭は、釈迦牟尼仏の近くにいて立っていた。

 釈迦牟尼仏は、論力に「あなたは、多数の(究極の)道の中で、誰を第一としているのか?」と質問した。

 論力は、「鹿頭が第一である」と言った。

 釈迦牟尼仏は、「もし鹿頭の道が第一なのであれば、どうして、鹿頭は、第一の道を捨てて、私(、釈迦牟尼仏)の弟子と成って私(、釈迦牟尼仏)の仏道の中に入ったのか?」と言った。

 論力は、鹿頭を見ると、反省して頭を下げて、釈迦牟尼仏に帰依して仏道に入った。

 この時、次のように、釈迦牟尼仏は、義品経の詩を説いた。


 各々、「究極である」と言って、各々、自分に愛着して、各々、「自分は正しい」として「他人は正しくない」とするが、これらは皆、究極ではない。

 これらの人は、議論している人々の中に入って、「義理」、「道理」を弁明する時、各々、相互に批評し合って、勝負して憂いや苦しみを(いだ)いてしまう。

 勝者は慢心という穴に堕ちてしまうし、敗者は憂いという地獄に堕ちてしまう。

 このため、知が有る者は、この勝敗という物に堕ちないようにするのである。

 論力よ、あなたは、知るべきである。

 私(、釈迦牟尼仏)の諸々の弟子の仏法は、虚偽も無いし(隠された)真実もまた無いのである。

 (論力よ、)あなたは、(虚偽と隠された真実のうち、)いずれを求めようと思うのか?

 (論力よ、)あなたが、私(、釈迦牟尼仏)の論理を壊そうと思っても、(つい)に、既に、破壊可能な道理は無いのである。

 「一切知」、「一切の存在についての知」は明らめ難い。

 (「一切知」、「一切の存在についての知」を明らめようとすると、)逆に、自身を破壊してしまう。



 これが、釈迦牟尼仏の黄金の言葉なのである。


 東の地の中国の暗愚な人々は、(みだ)りに仏教に(そむ)いて、「仏道と等しい道が有る」と言う事なかれ。

 仏と法の悪口を言う事に成るからである。


 西のインドの鹿頭、論力、長爪梵志、先尼(セーニャ)梵志などは、博識の人であり、東の地の中国の古今に未だいないような人であり、孔子と老子が及ばない人なのである。

 彼等は皆、自分の外道を捨てて仏道に帰依した。


 誤って、孔子と老子という俗人の教えを仏法と並べてしまう人だけではなく、聞き入れてしまう者にも罪が有る。


 まして、阿羅漢、独覚も皆、(つい)には、菩薩と成るのである。

 阿羅漢、独覚は、一人も、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」で終わる者はいない。


 どうして、仏道に未だ入ってすらいない孔子と老子を誤って「諸仏と等しい」と言ってしまうのか?

 大いなる邪見なのである。


 「釈迦牟尼仏は一切を遥かに超越している」と、諸仏、諸々の如来、諸々の大いなる菩薩、梵天、帝釈天は皆、共に、ほめているし、知っているのであるし、初祖から二十八祖までの西のインドの二十八人の祖師は共に、知っているのであるし、学に参入する力が有る者は皆、共に、知っているのである。


 今、末法の世の生者は、宋の時代の中国の暗愚な輩の「三教一致」という戯言(たわごと)を用いるべきではない。

 「三教一致」は学んでいない至りなのである。



 正法眼蔵 四禅比丘

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