正法眼蔵 帰依三宝(帰依仏法僧宝)
「禅苑清規」の「一百二十問」の「第一」には「仏、法、僧を敬うか否か?」と記されている。
明らかに知る事ができる。
西のインドから東の地の中国まで、仏祖が正しく伝えている物は、仏、法、僧を恭しく敬う事なのである。
仏、法、僧に帰依していなければ、仏、法、僧を恭しく敬わないし、
仏、法、僧を恭しく敬っていなければ、仏、法、僧に帰依できていない。
仏、法、僧に帰依する功徳は、必ず、「感応道交する時」、「通じ合う時」、成就するのである。
たとえ天上でも、人の間でも、「地獄、餓鬼、畜生」という「三悪道」でも、「感応道交すれば」、「通じ合えば」、必ず、仏、法、僧に帰依するのである。
既に仏、法、僧に帰依している者は、生から生へ、世から世へ、至る所で、「増上」、「成長」して、必ず、功徳を積み重ねて、無上普遍正覚を成就するのである。
既に仏、法、僧に帰依している者は、自ら悪友に引きずられて、「魔」、「仏敵」からの障害に出会って、暫く「断善根に成っても」、「一闡提になっても」、「仏法を信じない者に成っても」、終には「続善根して」、「善の種となる善行を続けて」、仏、法、僧に帰依している功徳が「増上」、「成長」するのである。
「仏、法、僧」という「三宝」に帰依している功徳は、最終的に、不朽なのである。
「仏、法、僧」という「三宝」に帰依するとは、清浄な信心に専念して、如来、仏が存命中でも死後でも、合掌して頭を下げて、次のように、口で唱えて言う事である。
「私は、今の身から、仏の身に至るまで、仏に帰依します。
法に帰依します。
僧に帰依します。
『仏』、『両足尊』に帰依します。
『法』、『離欲尊』、『欲を離れられる尊い物』に帰依します。
『僧』、『衆中尊』、『生者の中の尊い者達』に帰依します。
『帰依仏竟』、『最後まで仏に帰依し徹します』。
『帰依法竟』、『最後まで法に帰依し徹します』。
『帰依僧竟』、『最後まで僧に帰依し徹します』」
遥かな「仏果」、「悟り」を志して、このように「僧那」、「誓い」を起こすのである。
そうすれば、身心は今も刹那、刹那に生じて滅んでいるが、法身は必ず成長して養われて、悟りを成就するのである。
「帰依」の「帰」は「帰投」(、「帰還する事」)であるし、「帰依」の「依」は「依伏」(、「頼る事」、「信頼する事」、「信じる事」)である。
このため、「帰依」と言うのである。
「帰投」の相とは、例えば、子が父の所へ帰るような物なのである。
「依伏」の相とは、例えば、国民が国王を頼るような物なのである。
「帰依」とは、救済の言葉なのである。
仏は、大いなる師であるので、帰依するのである。
法は、良い薬であるので、帰依するのである。
僧は、「勝友」、「優れた『善友』、『善知識を持つ人々』」であるので、帰依するのである。
「Q.
なぜ、ひとえに、仏、法、僧という三つのものだけに帰依するのか?
A.
仏、法、僧という三種類のものは、最終的に帰る場所であるし、能く全ての生者を生死という迷いから離れさせて解脱させて大いなる悟りを証させるので、帰依するのである」
「仏、法、僧という三種類のもの」は究極的に不可思議な功徳なのである。
仏は、西のインドのサンスクリット語では「仏陀耶」(、「仏陀」)、「ブッダ」と呼び、中国では「覚」(、「覚者」)と訳すが、「無上普遍正覚」(、「無上普遍正覚者」)なのである。
法は、西のインドのサンスクリット語では「達磨」、「曇無」、「ダルマ」と呼ぶが、中国での表記の違いはサンスクリット語の発音の違いによる物であり、中国では「法」と訳す。
「善法」、「善いもの」や「悪法」、「悪いもの」や「無記の法」、「善悪に分け難いもの」を全て共に「法」、「もの」と呼ぶ場合が有るが、帰依するものである「仏、法、僧」という「三宝」の中の「法」は規則の法なのである。
僧は、西のインドのサンスクリット語では「僧伽」、「サンガ」と呼び、中国では「和合衆」(、「衆」)と訳す。
次のように、仏、法、僧をたたえて来ている。
「住持三宝」、「保持できる三宝」。
「形像、塔廟、仏宝」、「仏の姿形をかたどった絵や像や、仏塔や仏の霊廟という仏」。
「黄紙朱軸、所伝、法宝」、「巻物、書物の経典や、伝えられている言葉という法」。
「剃髪、染衣、戒法儀相、僧宝」、「髪を剃り、法衣を着て、戒律を身につけている、僧」。
「化儀三宝」、「化の導きとしての三宝」。
「釈迦牟尼世尊、仏宝」、「釈迦牟尼仏という仏」。
「所転法輪、流布聖教、法宝」、「『転じられた法輪』、『説かれた法』や、流布している仏教という法」。
「阿若憍陳如等五人、僧宝」、「阿若憍陳如といった『五比丘』という僧」。
「理体三宝」、「理としての三宝」。
「五分法身」、「五つに分類できる法身」を「仏宝」、「仏」と名づける。
「滅諦無為」、「寂滅の真理である、消滅しない不変の絶対の真理」を「法宝」、「法」と名づける。
「学無学功徳」、「『無学』、『学ぶ必要が絶えて無く成った境地』を学ぶ功徳」を「僧宝」、「僧」と名づける。
「一体三宝」、「一体である三宝」。
「証理大覚」、「理を証して大いに悟った者」を「仏宝」、「仏」と名づける。
「清浄離染」、「清浄で、汚染を離れる事」を「法宝」、「法」と名づける。
「至理和合、無擁無滞」、「理に至って和合して、障害、停滞が無い者」を「僧宝」、「僧」と名づける。
このような「仏、法、僧」という「三宝」に帰依するのである。
幸福をもたらす功徳が少ない生者は、「仏、法、僧」、「三宝」という名前すら聞く事ができないのである。
まして、幸福をもたらす功徳が少ない生者は、「仏、法、僧」という「三宝」に帰依する事ができ得ないのである!
「法華経」の「如来寿量品」で、釈迦牟尼仏は、「是諸罪衆生、以悪業因縁、過阿僧祇劫、不聞三宝名」、「この諸々の罪の生者は、悪業の因縁によって、阿僧祇劫を過ぎても、『三宝』の名前を聞く事ができない」と言っている。
法華経は、諸仏、如来の一大事の話なのである。
大いなる師である釈迦牟尼仏が説いた諸々の経の中で、法華経は大いなる王なのであるし大いなる師なのである。
他の経、他の法は皆、法華経の臣民なのであるし眷属なのである。
法華経の中の所説は真実なのであるし、他の経の中の所説は皆、方便を帯びていて釈迦牟尼仏の本意ではないのである。
他の経の中の説を持って来て比べて法華経を考えるのは逆に成ってしまうのである。
法華の功徳の力を被らなければ他の経は存在できないのである。
他の経は皆、法華に「帰投」、「帰還」する事を待っているのである。
この法華経の中に「この諸々の罪の生者は、悪業の因縁によって、阿僧祇劫を過ぎても、『三宝』の名前を聞く事ができない」という説が存在するのである。
「仏、法、僧」という「三宝」の功徳は、正に、最も尊いのであるし、最上なのである、と知るべきである。
次のように、釈迦牟尼仏は言った。
人々は逼迫される事を怖れて、多くが、諸々の山、田畑、森林、一本だけの樹、「制多」、「礼拝対象」などに帰依する。(しかし、)
この帰依は優れていない。
この帰依は尊くない。
この帰依で多くの苦しみを解脱する事はできない。
諸仏に帰依し、法、僧に帰依する者は、
「苦集滅道」、「この世は苦であり、執着が苦を招き集めており、執着を滅する事ができ、執着を滅する道が有る事を知る事ができる」という「四聖諦」の中にいて、常に智慧によって観察して、「苦」を知って、「苦集」を知って、多くの苦しみを永遠に超越できる事を知って、「八支聖道」、「八聖道」を知って、安穏である「涅槃」、「寂滅」に趣く。
この帰依は最も優れている。
この帰依は最も尊い。
この帰依で必ず多くの苦しみを解脱できる。
釈迦牟尼仏は、明らかに、一切の全ての生者のために、示しているのである。
全ての生者は、いたずらに無駄に、逼迫される事を怖れて「山神」という霊や鬼神などに帰依したり外道の「制多」、「礼拝対象」に帰依したりする事なかれ。
外道が外道の「礼拝対象」への帰依によって多くの苦しみを解脱する事は無い。
外道の邪教に従って、「牛戒、鹿戒、羅刹戒、鬼戒、瘂戒、聾戒、狗戒、鶏戒、雉戒をしたり」、「牛、鹿、羅刹、鬼、話せない人、耳が聞こえない人、犬、鶏、雉のふりをしたり」、
灰を身に塗ったり、
長髪にしたり、
羊で時間を祭ったり、
呪いをしてから殺したり、
四月に(神として)火に仕えたり、
七月に(神として)風に仕えたり、
百千億の華を諸々の天人に捧げたりすると、諸々の願いは成就するとしている。(しかし、)
これらのような法を解脱の原因とできる理は無い。
知者がほめないような代物である。
虚しく苦しんで、善い報いは無い。
このため、いたずらに無駄に邪道に帰依しないように、明らかに、見分けて究めるべきである。
たとえ「牛戒、鹿戒、羅刹戒、鬼戒、瘂戒、聾戒、狗戒、鶏戒、雉戒」、「牛、鹿、羅刹、鬼、話せない人、耳が聞こえない人、犬、鶏、雉のふりをする事」と異なる物であっても、その道理が、もし一本だけの樹といった「制多」、「礼拝対象」などの道理と符号するならば、帰依する事なかれ。
人の身を得る事は難しいのであるし、仏法に出会う事は稀なのである。
いたずらに無駄に、鬼神の眷属として一生を過ごして、虚しく邪悪な見解の外道の仲間として多くの生を過ごすのは、悲しむべきである。
早く、「仏、法、僧」という「三宝」に帰依して、多くの苦しみを解脱するだけではなく、悟りを成就するべきである。
「希有経」には、「『四天下』、『四大洲』と『六欲天』を教化して皆に『四果』、『阿羅漢果』を得させても、一人の人に『三帰』、『仏、法、僧という三宝に帰依する事』を受け入れさせる功徳には及ばない」と記されている。
「四天下」とは、「東西南北洲」、「四大洲」である。
「四大洲」の中で北倶廬洲は、三乗の化の導きが至らない場所である。
北倶廬洲の一切の全ての生者を教化して阿羅漢と成らせる事は、実に、「とても希有である」とするべきである。
たとえ北倶廬洲の全ての生者を阿羅漢と成らせる利益が有っても、一人の人を教えて「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を受け入れさせる功徳には及ばないのである。
また、「六欲天」は「道」、「真理」を会得する生者が稀である場所である。
「六欲天」の全ての生者に「四果」、「阿羅漢果」を得させても、一人の人に「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を受け入れさせる功徳の大きさ、深さに及ばないのである。
次のように、「増一阿含経」には記されている。
「忉利天」、「三十三天」の、ある天人は、「五衰」の相が現れて、猪の中に生まれようとしていた。
ある天人の憂いの声は、帝釈天にまで聞こえた。
帝釈天は、ある天人の憂いの声を聞いて、ある天人を呼んで来させて、ある天人に、「あなた、『仏、法、僧』という『三宝』に帰依しなさい」と告げた。
ある天人は、即時、帝釈天の教えの通りにした。
すると、ある天人は、猪として生まれる事を免れた。
次のように、仏は詩で説いている。
諸々の者は、仏に帰依すれば、地獄などの「三悪道」に落ちない。
「漏」、「煩悩」が尽きて、人の間や天にいて、「涅槃」、「寂滅」に至るであろう。
ある天人は、「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を受け入れ終わると、長者の家に生まれて、出家する事ができ得て、「無学」、「学ぶ必要が絶えて無く成った境地」を成就した。
「仏、法、僧」という「三宝」に帰依する功徳は、量る事ができず、無量、無限なのである。
釈迦牟尼仏が存命中に、二十六億の飢えた竜が共に、釈迦牟尼仏の所に来て、皆、尽く、雨のように涙を降らして、釈迦牟尼仏に、「願わくば、憐れんで、私達を救済してください、大いなる思いやり深い釈迦牟尼仏様。私達は、過去の前世の時を思い出すと、仏法の中で出家でき得たが、色々な悪業を造ってしまいました。悪業のせいで、無数の身を経ても、地獄などの『三悪道』にいます。他の報いのため、竜の中に生まれていて、極大の苦しみを受けています」と言った。
釈迦牟尼仏は、諸々の竜に、「あなた達、今、尽く、『三帰』、『仏、法、僧という三宝に帰依する事』を受け入れて、一心に善を修行しなさい。この縁のおかげで、『賢劫』という『現在の大劫』の中で、『賢劫』の最後の仏、楼至(仏)に出会えるであろう。楼至仏の世で、罪を除去して滅ぼす事ができ得るであろう」と告げた。
その時、諸々の竜は、この釈迦牟尼仏の言葉を聞き終わると、皆、悉く、真心で、姿形、寿命が尽きるまで、各々、「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を受け入れた。
釈迦牟尼仏が自ら、諸々の竜を救済する時に、他の法は無く、他の術は無く、唯一、「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」だけを授けた。
諸々の竜は、過去の前世で出家した時に、かつて「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を受け入れたが、悪業の報いで飢えた竜と成った時、他の法では救えなかったので、「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を授けた。
「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」の功徳は最も尊いのであるし、最上なのであるし、とても深く不可思議なのである、と知るべきである。
釈迦牟尼仏は既に「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」の功徳を証明している。全ての生者は信じて受け入れるべきである。
釈迦牟尼仏は、十方の諸仏の名称を唱えさせず、唯一、「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」だけを授けた。
釈迦牟尼仏の意図が、とても深いのを誰も測り知る事ができない!
今の全ての生者は、いたずらに無駄に、仏の名称を唱えるよりは、速やかに「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を受け入れるべきである。
「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」の大いなる功徳を愚鈍なために虚しく無駄にする事なかれ。
その時、集まっている者達の中に、ある盲目の龍女がいた。
ある龍女は、口の中が腐乱して、諸々の種類の虫に満ちていて、状態が排泄物のようであったし、汚さが女性の器官の中の不浄な物のようですらあった。
生臭くて目を開けて見ているのが難しいほどであった。
色々な所が噛まれて膿と血が流出していた。
全身が常に蚊、虻、諸々の悪い毒を持つ蝿に噛まれていた。
身体の臭さは見聞きした事が無いほどであった。
この時、釈迦牟尼仏は、大いなる思いやり深さで、ある龍女の、盲目と、このように苦しみ困っているのを見て、「あなたは、どんな縁のために、このような悪い身を得たのか? 過去の前世で、かつて、どんな悪業を為したのか?」と質問した。
ある龍女は、「釈迦牟尼仏様。
私の今の、この身は、多くの苦しみに逼迫されて一時も止む事が無いです。
言っても、よく説明できません。
私は、過去三十六億年を思い出すと、百千年は悪い龍の中で、このような苦しみを受けて、昼夜、刹那も止む事が無いです。
私は、過去九十一劫を思い出すと、毘婆尸仏の仏法の中で女性の出家者に成りましたが、欲望の事を思う事は酔った人よりも度が過ぎていました。
また、出家しても、仏法の通りにできませんでした。
伽藍の中に寝具の敷物を敷いて数々の淫行を行って欲望を満たして大いに楽しんでいました。
また、他人の物を貪り求めて在家信者からの布施を多く受け取っていました。
このため、九十一劫の間、常に天人や人の身を受ける事ができ得ず、常に地獄などの『三悪道』で諸々の焼かれたり煮られたりするような苦しみを受けていました」と答えた。
釈迦牟尼仏は、「もし、そのようであるならば、この劫が尽きたら、あなたは、どこに生まれるであろうか?」と、また質問した。
ある龍女は、「私は、過去の悪業の力が理由で、他の世界に生まれても、劫が尽きる時、悪業という風が吹いて、また、この世に生まれて来るでしょう」と答えた。
その時、ある龍女は、この言葉を言い終わると、「大いなる思いやり深い釈迦牟尼仏様、願わくば、私を救済してください。願わくば、私を救済してください」と言った。
この時、釈迦牟尼仏は、水を手で掬って、ある龍女に「この水を『瞋陀留脂薬和』と言う物とする。
私(、釈迦牟尼仏)は、今、誠実に言葉を発して、あなたに語っている。
私は、過去(の前世で)、鳩を救う為に、身の命を捨てたが、終に疑って惜しむ心を起こさなかった。
もし、この言葉が真実であれば、あなたの悪い病気は悉く皆、除去されて癒えるであろう」と告げた。
その時、釈迦牟尼仏が口で水を含み、ある盲目の龍女の身に注ぐと、一切の悪い病気は皆、癒えた。
ある龍女は、癒してもらうと、「私は、今、釈迦牟尼仏様から『三帰』、『仏、法、僧という三宝に帰依する事』を受け入れたい、と乞い願います」と言った。
この時、釈迦牟尼仏は、ある龍女の為に、「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を授けた。
ある龍女は、昔、毘婆尸仏の仏法の中で女性の出家者と成っていた。
禁戒を破ってしまったが、仏法に通じている事と塞がっている事を見聞きできた。
今、目の当たりに釈迦牟尼仏に会って「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を授かる事を乞い願って、釈迦牟尼仏から「三帰」を受けたのは、「善の種と成る善行を厚く植えた」と言える。
仏に見える事ができる功徳は、必ず、「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」による物なのである。
私達は盲目の龍ではないし人以外の身ではないが、如来を見る事ができていないし、仏に従って「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を受ける事ができていないし、仏に見える事から遥か遠いのである。恥じるべきである。
釈迦牟尼仏は自ら「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を授けた。
「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」の功徳は、とても深く無量である、と知るべきである。
帝釈天も野干を礼拝して「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を受けたが、皆、「三帰」の功徳が、とても深いからなのである。
釈迦牟尼仏が迦毘羅衛の尼拘陀林にいた時、釈迦族の摩訶男が釈迦牟尼仏の所に来て、「どういった者を『在家信者』と呼ぶのですか?」と言った。
釈迦牟尼仏は、釈迦族の摩訶男の為に、「善い男子や善い女の人がいて、諸々の素質を完全に備えていて、『三帰依』、『仏、法、僧という三宝に帰依する事』を受け入れたら、『在家信者』と呼ぶ」と説いた。
釈迦族の摩訶男は、「釈迦牟尼仏様、どういった者を『一分の在家信者』と呼びますか?」と言った。
釈迦牟尼仏は、「摩訶男よ、もし『三帰』、『仏、法、僧という三宝に帰依する事』を受け入れて一つでも戒を受ければ、『一分の在家信者』と呼ぶ」と言った。
仏の弟子に成るには、必ず、「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」によるのである。
どの戒を受けるにも、必ず「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」を受け入れた後で諸々の戒を受けるのである。
そのため、「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」によって戒を得られるのである。
次のように、「法句経」には記されている。
昔、ある帝釈天は、命が終わると驢馬の中に生まれると知って、憂いが止まず、「苦しみを救える者は、唯一、仏だけである」と言った。
ある帝釈天は、仏の所へ行って、頭を地につけて敬礼して地にひれ伏して、仏に帰依した。
ある帝釈天は、起き上がる前に命が終わって驢馬の胎内に生まれた。
母の驢馬は鞚を断ち切って、陶工の家の器を破壊した。
器の作り主が母の驢馬を打ち、終に母の驢馬の胎を傷つけて、ある帝釈天はまた帝釈天の身の中に入った。
仏は、「命を落とす際、『仏、法、僧』という『三宝』に帰依したので、罪に対して既に終わったのである」と言った。
ある帝釈天は、この言葉を聞いて、初果を会得した。
世間の苦しみを救えるのは、仏だけである。
このため、ある帝釈天は急いで仏の所に行った。
ある帝釈天は、地にひれ伏している間に命が終わって、驢馬の胎内に生まれた。
仏に帰依した功徳によって、母の驢馬の鞚が破れて、母の驢馬は陶工の家の器を踏んで破壊した。
器の作り主は、母の驢馬を打ち、母の驢馬の身は痛んで、体内に宿していた子の驢馬が破壊された。
そして、ある帝釈天は、帝釈天の身に帰って入った。
仏の説法を聞いて初果を会得した。
「仏、法、僧」という「三宝」に帰依した功徳の力による物なのである。
そのため、世間の苦しみを速やかに離れて、無上普遍正覚を証して会得させるのは、必ず、「仏、法、僧」という「三宝」に帰依した力による物なのである。
「三帰」、「『仏、法、僧』という『三宝』に帰依する事」の力は、地獄などの「三悪道」を離れさせるだけではなく、帝釈天の身にまた入らせる。
天上という果報を得るだけではなく、「須陀洹果」、「預流果」、「初果」の聖者と成った。
実に、「仏、法、僧」という「三宝」の功徳という海は、無量、無限なのである。
釈迦牟尼仏が存命中は、人や天人には、このような喜ぶべき幸福が有った。
今、如来、釈迦牟尼仏の死後、「後五百歳」、「末法の世」の時、人や天人は、どうすれば善いのか?
けれども、如来、釈迦牟尼仏の姿形をかたどった絵や像や、「舎利」、「釈迦牟尼仏の遺骨」などはなお、世間に現在も存在する。
釈迦牟尼仏の絵や像や、「舎利」、「釈迦牟尼仏の遺骨」などに帰依すると、前述のような功徳を得られるのである。
次のように、「未曾有経」には記されている。
次のように、釈迦牟尼仏は言った。
過去の無数の劫を思い出すと、毘摩大国の徙陀山の中に、ある野干がいた。
ある野干は、獅子に追われて食べられようとして、奔走して、井戸に落ちて、井戸から出る事ができなく成ってしまった。
三日間が経って、ある野干は、心を開いて、死を受け入れて、詩で、「不幸だな。
今日、苦しみに逼迫されて井戸で命を落とそうとしている。
一切の万物は皆、無常なのである。
残念なのは、獅子に自身を食べさせなかった事である。
『南無帰依十方仏』、『十方の諸仏に敬礼して帰依します』。私の心は清浄で利己心が無い事を知ってください」と言った。
その時、ある帝釈天は、「仏」という言葉を聞いて、厳粛な気持ちに成って、鳥肌が立って、古代の仏を思い出した。
ある帝釈天は、「私は孤独な露のように儚くて導いてくれる師がいなくて、『色声香味触』への『五欲』に耽溺してしまっている」と反省した。
八万人の諸々の天人と共に、ある帝釈天は、飛んで、降下して、井戸に来て、質問したいと思った。
ある帝釈天は、井戸の底に、ある野干がいて、両手で土の壁をよじ登ろうとして出る事ができないのを見つけた。
ある帝釈天は、「『聖者には方法、術が無い』と思うべきでしょうか? いいえ! 私は、今、ある野干の姿形を見ていますが、きっと、『菩薩』、『修行者』で、非凡な器でしょう。あなたが説いた言葉は非凡な言葉です。願わくば、諸々の天人の為に仏法の要を説いてください」と言った。
この時、ある野干は、上を見て、「あなたは、帝釈天として、教訓が無い。仏法の師を下に置いて、自分は上にいて、全く敬意を払わずに、仏法の要を質問している。仏法という水は清浄で人を救済できる。どうして自身が高貴であると思えるのか? いいえ!」と言った。
ある帝釈天は、ある野干の、この言葉を聞いて、大いに反省した。
仕えていた諸々の天人は、驚き、笑って「帝釈天は、降下しても、何の利益も得られなかった」と言った。
ある帝釈天は、すぐに、諸々の天人に、「慎んで、驚き、怖れる事なかれ。私は頑固で不徳だった。必ず、ある野干から仏法の要を聞くべきである」と告げた。
ある帝釈天は、天の宝の衣を井戸に垂らして、ある野干をつかまえて、ある野干を井戸の上に出した。
諸々の天人は、ある野干の為に、甘露による食事を用意した。
ある野干は、食事を得て元気に成った。
ある野干は、不幸の中で、このような思いもしなかった幸福を得た。
ある野干は、心が湧き踊り、感無量に喜んだ。
ある野干は、ある帝釈天と諸々の天人の為に広く仏法の要を説いた。
この話を、ある帝釈天が動物を礼拝して師とした話、と言う。
「仏」、「法」、「僧」という言葉を聞くのは難しい事を明らかに知る事ができる。
ある帝釈天が、ある野干を師としたのが、証拠なのである。
今、私達は、前世の善行の助けによって、如来、釈迦牟尼仏が遺してくれた仏法に出会えて、昼夜に「仏、法、僧」、「三宝」という言葉を聞けて、時と共に衰退しない。これが仏法の要なのである。
「天魔波旬」、「魔」、「仏敵」ですら「仏、法、僧」という「三宝」に帰依して苦難を免れるのである。
まして、仏敵ではない者が、「仏、法、僧」という「三宝」の功徳の中に、功徳を積み重ねたら、測り知れないのである!
仏の子が、仏道を修行する時は、必ず、まず、十方の「仏、法、僧」という「三宝」に敬礼して、十方の「三宝」の来臨を請い願って、十方の「三宝」の前で焼香して華を降らせてから、諸々の修行を修行するのである。
これが、古代の先人の優れた行跡なのであるし、仏祖の古くからの作法なのである。
「仏、法、僧」という「三宝」に帰依する作法が未だかつて行われない物は、「外道の法である」と知るべきであるし、「『天魔』、『魔』、『仏敵』の法である」と知るべきである。
仏から仏へ、祖師から祖師への仏法では、必ず、最初に、「仏、法、僧」という「三宝」に帰依する規則が有るのである。
正法眼蔵 帰依三宝(帰依仏法僧宝)




